(この男、一体どこから噂を聞きつけてくるのか)
ヘラヴィーサを治めるうら若き一等対魔士、テレサ・リナレスは一人の青年へ流麗なる視線を寄越した。”氷の聖女”と呼ばれるに相応しい冷きった眼差しだ。それを真っ向から受けた青年は怯む様子なく相槌的な笑みを浮かべる。
テレサと同色の白を基調にした服に身を包む彼もまた、彼女と同じ一等対魔士。名をリュイ・ランバート。聖寮監査官という役割にいる男だった。
彼に課せられた仕事は各地に置かれた対魔士たちを監視すること。聖寮の掲げる理想とは裏腹に、人は監視の目の外にやられてしまうと途端に堕落する生き物だ。リュイがこうして忙しく各地を飛び回っているのがその証拠である。
はるばる監査官がやってきたとあれば、この地を治める者として出向かないわけにはいかない。テレサの歓待をさも当然であるように受け止め、悠然と腰かける姿は彼女の目には忌々しいものに映った。
そんなテレサの胸中など知らん顔で、リュイは受け取った報告書にざっと目を通す。その所作は貴族然としていていかにも優雅だ。しかし彼の傍らに侍るようにして控える部下三人の顔触れはどうにも野卑な感じがして、それがテレサがこの一行を好かない要因のひとつだった。
テレサが他人に、とくに男性に対してことさらに厳しいことは周知のことだ。麗しき聖女様のそんな態度には慣れたものなのだろう。リュイもその部下も特に気分を害する様子はない。
「密輸犯が業魔化し逃亡、ですか」
「卑劣な人間に相応しい最期です」
ヘラヴィーサ商船組合による密輸、主犯の業魔化、それに伴う業務停止。文書化されたことがらを目で追い、リュイは付き人のように侍る自分の部下にそれを手渡す。
テレサの物言いはどこまでも冷たい。
「ハドロウ沼窟に逃げ隠れていることは分かっています。このままそこから出てこないならば被害もないでしょうが」
「そうもいかないでしょうね」
リュイの結論にはテレサも同意する。だからこそ何度か部下を向かわせているのだが、討伐は失敗に終わっていた。二等三等の対魔士で手に負えないならば次はいよいよテレサ自ら手を下すことになるだろう。業魔の一匹程度、不安は露ほどもない。しかしテレサは街ひとつを治める多忙の身だった。そこにタイミングよくやってきた監査役。その気に入らない優男顔を睨む。
「いいでしょう。業魔一匹ごとき、貴方に差し上げます」
テレサの返答にリュイは、おや、とわざとらしい声をあげた。
「まるでそれが目当てであるかのような言い方ですね」
「それが目当てなのでしょう」
もう言い返すことすら煩わしく、ほぼ鸚鵡返しで応える。
……本当に、どこから嗅ぎ付けてくるのやら。
男は地面を蹴り、走った。表面積の広くなった足はぬかるんだ足場でも体勢を崩すことはなかった。距離は十分に取っている。それでも逃げ切れる気がまるでしないのはどういうことだ。敵は一歩ずつ追い詰めてくる。
(ああ正直に言うさ、ナメてたってな!)
元々腕っ節には自信があったが、この身体になってからはそこらの奴など──ましてただの人間などに負けるわけがないと確信していた。まさか自分がバケモノの姿になるなんて思いもしなかったが、なってしまえば悪いことばかりではない。追ってくる対魔士だって何人も退けてきた。この姿の自分なら奴らに復讐することだって簡単なはず……。
だが、現実はどうだ。このまま走ってどうなる?この先が行き止まりなことは分かっているはずなのに、追手がこの道以外の選択肢を奪っていく。逃げているのは俺なのに、踏み出す足の主導権は既に俺にはない。
不意に足元から影が伸びる!
赤い影に脚を掬われ、異形の男は無様に転倒する。真っ赤な影と思われたそれの正体は追手の得物だった。よくしなる鞭が脚に絡みつき、その動きを封じていた。
「ヘラヴィーサ商船組合のダイル、ですね」
頭上で、白装束を纏った細身の男が目を三日月にして笑った。
(こいつ……! 俺を捕まえることなんてハナから造作もなかったくせに、わざと時間をかけてここまで追い詰めやがったな!)
確証こそなかったがダイルはそう確信する。
咄嗟に拘束を振り払おうと尻尾を振り回す。が、対魔士の男には臆する様子はまるでなく、逆にそれを片脚で思い切り踏みつけられる。
「ってェな、チクショウ!!」
「こんなもの振り回したら危ないじゃないですか」
「だろうよ! クソ!こんな脚くれえすぐブチ折って……!」
いまの俺はバケモノ。こんな細っこい男に力負けするわけがない……、ダイルはそう思った。そのはずだ。はずなのに、彼の身体は鉛のようになり、動かない。それをいいことに痩身の対魔士は地に伏すダイルの背に腰までかけだした。
「まあ、そう怯えないでください」
「怯えてねえ!! 腹立ってんだよ!!」
そうだ。ダイルは腹の底から煮えくり返っていた。次々やってくる対魔士にも、変わり果てた自分の姿にも、ヘラヴィーサの人間にも!
むかついてむかついて、どうしようもない激情を吐き出すも、それはもはや言葉にすらなっていなかっただろう。だが、そんなダイルの上で脚を組む男のにやついた顔つきが変わった。
「何故そんなに怒っているのか分かりますか?」
それはダイルの煮える腑の底に、すとんと落ちてくるような声だった。
「あ? そりゃあお前……、あいつらが俺のことを」
ああ、聞きたきゃ聞かせてやればいい。どうせ俺はここで終わりなんだ。そんな気持ちになった。するとどうだろう。さきほどまで自分を追い詰めていた男は身を乗り出してダイルの言葉を促すような表情を作る。その自然な距離感に(対魔士の男は依然としてダイルに腰掛けたままの不遜な態度ではあったが)ダイルは一瞬自分がバケモノであることを忘れてしまう。
(いや、違う。俺はもう人間じゃない。なのに何だこいつの態度?)
それは僅かな違和感だった。男からは殺意を感じない。むしろダイルと会話を試みようとしているようですらあるのだ。
だからといって油断はできない。ダイルは一度唾を飲み込んでから口を開いた。
──が、それは第三者の来訪により遮られた。
対魔士の男がダイルの身体を蹴り飛ばし奇襲から身を躱す。大型の獣が切り裂いたような爪痕が地面に残る。そこには二人分の影があった。
「おいおい、なにも突然襲いかかることないだろう」
場にそぐわない朗らかな声色で片方が軽口を叩く。
「相手は対魔士よ、加減をする必要がある?」
それに応じる声は女のものだ。ダイルに比べればどちらも人間の形を保ってはいるものの、そこにいるのは人間ではない。同種であるダイルにはすぐに彼らの正体が業魔だと分かった。
対魔士と業魔の二人が相対する。追い詰められていたダイルにとっては光明だ。同種だからといって仲間とは限らないが、対魔士を相手にするよりは幾分希望があるだろう。いっそ相撃ちでもしてくれればいい。ああそれがいい……。
「その業魔を渡してもらうわよ」
そう言って女業魔が自らの手を異形へと変化させる。男業魔のほうは背負った大剣を抜く素振りなく、一歩下がって静観していた。しかし何かあれば瞬きひとつの間さえなく戦闘体制に入ることだろう。それだけの物々しい目つきをしている。
「商船組合のお仲間ですか?」
「なわけねーだろ!」
ありえなすぎるボケに思わず突っ込んでしまったダイルは生来ノリの良い男だったのだろう。冗談ですよ、なんて言ってみせる対魔士の肝の座り振りも相当だ。置かれた状況がわかっているのだろうか。
「では、そうだとしたら何故?」
「答える義理は……」
「王都に向かいたい、船を操舵できるやつが要るんだ」
突っ撥ねる女業魔を押し退け、大剣持ちの業魔があっさりと口を割る。当然女業魔に睨まれるが、本人はどこ吹く風といった調子だ。
「ちょっとロクロウ、対魔士に余計な情報を与えないでよ」
「そう言うお前も俺の名前をバラしてるけどな、ベルベット」
女業魔……ベルベットは本気で怒り口調だが、対するロクロウはそれすら楽しんでいる節がある。どうにもチグハグな二人である。
「……船。確かに今は王都への渡航は大変難しくなっています」
──ましてあなた方のような風貌では検問を抜けることさえ難儀でしょう。対魔士が言葉を連ねる。その口振りに今度はダイルだけでなくベルベット、ロクロウも不可思議なものを見る目を対魔士に向けた。その上……、
「申し遅れました。私は一等対魔士、リュイ・ランバート」
などと恭しく名乗られてしまっては業魔たちの奇異の目は更に強まる。
「……一体何のつもりよ」
ベルベットが警戒するのも尤もである。そんな訝しげな顔を向けられて尚、対魔士リュイは落ち着き払った態度を崩さない。
「いえ、随分ユニークでしたが名乗りには違いないでしょう。返すのは当然のことです」
その人間相手にする行動をそのまま業魔にすることが異常なのだ、と残念なことにリュイだけが理解していないようだった。リュイの態度が場の空気を萎えさせていく。ベルベットですらも、この男相手に臨戦体勢を維持するのがだんだん馬鹿らしくなってきたところだ。
閉口する異形の者たちに構わず、リュイは言葉を続ける。
「あなた方がこの男を船渡しとして雇うのであれば、私が口出しをすることではありません」
「おお、話がわかる奴でよかったな!」
「黙ってて」
短絡的な反応を見せるロクロウをベルベットが遮る。──話が分かりすぎておかしいのだ。そもそもこの男はこのトカゲ業魔を殺すために追ってきたはずなのに。
「本来、密輸の罪は死で以って贖うものではありません」
ベルベットにその辺りの法はわからないが、確かにリュイの主張は正しいように思われる。ダイルが単なる一介の、人間の船乗りであるならば。
「見逃そうっての? こいつがヘラヴィーサを襲うつもりでも?」
「そうかもしれません。ですが罪と罰の順序が逆になってはいけません」
本来であれば相応の罰を受けるべきだがこの姿になってしまっては、彼に正しい法的措置を与える機関はないだろう。とリュイの言葉が理路整然と続き、ベルベットは頭痛を覚えた。本気で言っているのだろうか。自分たちを油断させる作戦であるならばそれは成功していると言わざるを得ない。本気であるならば、先に出会った泣き虫対魔士とまた違ったベクトルのお人好しだ。だがそれだけじゃない、あの対魔士と会ったときには感じなかった薄気味悪さが付き纏う。
「だが俺たちもダイルの討伐を依頼されてやってきたんだよな。どうする? できなかったと詫びにいくか?」
ベルベットが黙り込むと、話がまとまったと判断したのかロクロウが口を挟んでくる。ダイルを仲間にできれば一般の船乗りを雇うよりも都合がいい。結果としてうまくことが運んでしまった。
「それはもう考えてあるわ」
なんてことない口調のまま、ベルベットが装備した刃でダイルの尻尾を切断する。あまりに素早く見事な剣捌きであったのでダイルが痛みを感じた頃には既に彼の立派な尻尾はベルベットの手の中にあった。
「いってぇーな! 何しやがる!」
「殺されるよりマシでしょ」
つまり、その昔、つわものたちが討ち取った相手の首を持ち帰り戦果としたように、この尻尾で以ってダイル討伐の証にしようというのだ。確かに船乗りたちを納得させるにはそれで十分だろう。ベルベットはリュイを睨む。リュイも彼女の思惑を察したのか張り付いた笑顔で冗談めかすように微笑んだ。
「……あんた、ヘラヴィーサの対魔士?」
ベルベットのぶっきらぼうな質問にリュイは首を横に降る。
「そう。なら関係ないでしょうけど、明日はあの街に近づかないほうがいいわ」
──業魔が何するか分からないから。ここであんたが見逃した業魔がね。
ベルベットは冷え切った心の中で続けた。
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