12

 は、と意識が浮上する。
 リュイは見慣れぬ場所に伏していた。見慣れぬ、というのは単に見知らぬ土地というだけではない。目の前にはいままで想像したこともないような空間が広がっている。全く現実味のない場所に、リュイはまず海の底を連想した。自分が転がっている場所に確かに質量があるため、かろうじて上下感覚はあるものの、横の感覚はというとどこまで広がっているのか見当もつかない。辺りは暗いとも明るいともつかず、それがまたリュイから現実味を奪っている。
 よもや夢の中なのでは、という気さえ湧いてくるが意識ならはっきりとしている。自分たちはアルトリウスの、聖寮の力にまるで及ばず、大敗を期したはずだった。

「命拾いしたようだな」
 頭上から、ここ最近ですっかり聴き馴染んでしまった愛想のない声が降ってくる。

「……貴方ですか」
 少し頭の位置を変えると聖隷アイゼンがこちらを見下ろしているのが目に入った。
 リュイはほぼ反射的に身を起こそうとしたが、身体が痛みを思い出し、失敗する。オスカーに負わされた負傷だ。見れば患部には止血が施されているらしかった。痛みは残ったままだが、なんとか動かすことはできる。リュイはやや緩慢な動きで上半身を起き上がらせると、施術したであろう相手を見つめた。ライフィセットやマギルゥほどではないにしろ、彼にも治癒術の心得くらいはあるらしい。リュイ一人では失血の末、今ごろどうなっていたか分からない。アイゼンが居合わせたのは幸運という他になかった。

「貴方と同じ場所に出られたのは運が良かった。……有難うございます」
 それを述べると、アイゼンの仏頂面が歪められる。口の片端を上げるだけの僅かな変化だが、笑みの部類に違いない。この一行に参加してからというもの初めて目にする表情である。

「運とは違うな」
「え?」
「俺が引っ掴んできたんだから当然同じ場所に出る」

 アイゼンの言葉節は不親切なほど簡潔で、誤解の余地がない。
 空間が開かれた、あの咄嗟のことを思い出す。正直あまり定かではないのだが、戦闘で負った傷とは別に、首の辺りがじんじんとする気がする。引っ掴む、という彼の言葉はおそらく正しい。その口振り通り、犬猫よろしく半分意識のないリュイの首根っこを捕まえて引きずってきたに違いない。
 リュイはなんとなく、述べてしまった礼を返してほしい気分になった。

「それで、その。ここは何処です」
 なんとも言えない心持ちを切り替えるべく、リュイは目先の疑問を投げかけることにした。
 こんな得体の知れない場所に放り出されたというのに、アイゼンは特に調子を変えずに淡々とした様子だ。情報が何もない自分とは違い、何か知っているに違いないと踏んだのである。
「地脈だ」
 いつもの憮然とした表情に戻ったアイゼンが吐いたのは聞いたこともない言葉だった。こんなわけのわからない場所だ。かえって知らない単語のほうが納得しやすい。
「つまり、地下ということですか?」
「物理的に地中というわけじゃない。本来は見ることも触ることもできない空間だ」

 曰く、ライフィセットと聖主の力が干渉し合ったことで空間に歪みが生まれたのだ、と。
「正直に言って、完全に閉じ込められた状況だな。ライフィセットの力があれば脱出できるだろうが」

 つまり、どこへ通じているか分からない道を進んでいくしかない、ということである。依然として希望があるとは言い難いが、置かれた状況がわかっただけでも上々だろう。
 どうあれ、これ以上留まっているわけにはいかない。辺りを見回しても人影はおらず、それがリュイを焦らせた。ベルベットなど、致命傷をいくつも負っているような状態だ。早々に見つけ出す必要がある。

「分かりました。では進みましょう」
 いい加減、この男に見下ろされ続けるのも具合が悪い。リュイは脚に力を入れ、立ち上がろうとする。しかし本人の自覚よりもよほどガタのきているらしい体は思ったようには動かない。アイゼンの術は応急処置のようなもので、リュイの身もまた重傷であるのに変わりはないのだった。
 アイゼンの顔が顰められる。リュイの身体の状態は彼自身よりも、いまや、術を施したアイゼンのほうが理解していた。殊勝なことを言ってみせても、いまのリュイに自力で長い距離を歩かせるのは無茶だ。

 ふ、とアイゼンが小さく息をつく。いまだ腰が上がらない様子のリュイの前へ大きな身体を折り曲げた。一人で立ち上がることもままならない自分を起き上がらせようというのだろう。リュイはそのように察して、アイゼンへ僅かに身を預けた、のだが。

 次の瞬間、自分の身に起こったことに、リュイは目を剥くことになった。
 たったの動作ひとつで、リュイの身体は簡単に宙に浮いてしまう。

「……おかしいでしょう」
「あァ?」
 素直に疑問を吐くと、威圧的な声が返ってきた。

 我が身に起こっていることがいまいち理解できないが、自分の視界と彼の腕の位置から言って、どうやらリュイは、信じ難いことに、ちょっとした荷物を運搬するがごとくの体勢で俵担ぎにされている。

「凄んでも無駄です、降ろしてください、」
 こんな運ばれ方をリュイが受け入れられるわけはない。ほぼ反射的に不安定な場所で身動ぐが、すると急激な前後不覚に襲われる。
「いくら血を流したと思ってる。無駄に騒ぐな」
 アイゼンの言うことは概ね正しい。実際、少し動いただけで全身から力が抜けるようだ。こんな体では、何故かピンピンしている様子の聖隷に大人しく運ばれるのが一番合理的であろう。それは分かる。分かるのだが。
「く、屈辱です……」
 一体何の問題がある、とでも言いたげなアイゼンに向け、絞り出すような微かな声でリュイが訴えた。その姿はいつもの堂々たる様子からは想像つかないほどしおらしくさえ見える。
「そんなにか」
「一生忘れません」
 確信を持った即答である。貴族というのは生き辛い生き物だ。

「いくら貴方でも、抱えながら長距離を歩くのは無茶ですよ」
 抵抗を見せるリュイなど知らん顔で、アイゼンは歩き出してしまう。リュイは何とかアイゼンに思い留まってもらおうと必死だ。担ぎ上げてしまったためにアイゼンからは彼の顔を見ることはできないが、きっとこれまでにないほど考えを巡らせていることだろう。
「お前、自分が要求できる立場か?」
「分かっています。ですが、せめて、肩を貸していただけるだけでも」
「代替案ならもっとマシなこと言え」
 苦し紛れの返答をアイゼンは一蹴する。二人の身長差は20センチ近い。肩を貸したところで確実にリュイの脚は浮くだろう。少し想像するだけで分かる。リュイは沈黙した。
 だが、こうまでしてアイゼンが先を急ぐのにも理由がある。

「いまのライフィセットには“器”がいない。手遅れになる前に急いだ方がいい」
 自分を担ぎながら進む歩みは想像以上にしっかりとしたもので、余計に閉口するしかないリュイをよそにアイゼンが言葉を吐く。

 ライフィセットは、テレサの放った命令を使役聖隷の身で破ったのだと言う。“器”とは聖隷を繋ぎとめ、受け入れるための存在であり、対魔士は自らを聖隷の“器”とすることで契約関係を得る。それを経験したことはないにしろ、その仕組みだけならリュイも知っていた。しかし聖寮が対魔士に伝えるのは人間側の都合だけで、契約者を失った聖隷にどんな弊害があるのかまでは聞かされていない。
 リュイの様子で、それを察したのだろう。アイゼンは吐き捨てるように言葉を続けた。
「放っておけば業魔化する危険性がある」
「え……」
 そんなことは、初耳だった。離宮で司祭が業魔と化したことが思い出される。明かされた内容もそうだが、訳知り顔の態度は更に聞き捨てならない。

「貴方、業魔化の原因を知っているんですね」
 肩に担がれたまま話をするのは心地が悪いが、いまはそんなことを気にしているときではない。業魔化の真実はリュイが求める答えの一端だ。
 リュイの詰問を受けるアイゼンの反応は芳しくない。そもそも現在進行形で自分が抱え込んでいる相手に問い詰められたところで凄みもなにもないのだが、真実を追い求めるリュイにはその認識がまるきり抜けてしまっている。不恰好な体勢のまま話を続けるリュイ、という奇妙さに目を瞑ってアイゼンは応えた。

「何故そんなに知りたがる」
「それが義務だからです」
 理由であれば、リュイはきっぱりとそう言い切ることができる。

 リュイは幼い頃から業魔を視る目を有していた。人間と業魔が入り混じり、営なむ生活。それはアンバランスな均衡によって成り立つものではあった。それでもリュイがそのことについて──自分と他人の視界に大きな違いがあることについて──齟齬を感じたことはなかった。それはリュイが貴族社会という極めて小さなコミュニティの中に身を置いていたことも関係していただろう。
 リュイが業魔を視ることは日常と変わりなかった。彼の一番近い間柄、両親も業魔であったからだ。

 それを聞いてもアイゼンは動揺することなく、聞き手に徹している。リュイは構わず話を続けた。
「多くの人間にとって業魔と共存していくのが困難なことは理解できます」
 リュイは整然と言葉を吐くが、自分を業魔の両親のもとから“救い”出した英雄に対して恨みを覚えてもいいはずだ。……ベルベットの怨恨は彼女のものであり、他人が簡単に想いを寄せられるものではない。それでも彼女の姿を見ていると、この感情に近いものを自分も感じたかもしれない、ということを思ってしまう。

「彼が父母を屠ったことについては、実のところまだ結論を出せていないのです」
 人々が、業魔の姿を目にしたときの怯えきった様子をよく覚えている。
 リュイにとっては見慣れた両親の顔だったが、彼らにとっては初めて目にする悍ましい姿だ。そうでなくとも、緋の月が昇ってからというもの、各地で異形の魔物が人間を襲った、という話が出回っていたころである。その恐怖と拒絶は当然のことであろう。
 確かにランバートの家のものを屠ったのはアルトリウスである。しかしそれが人々の望みであり、そのための力を行使しただけなのだとすると、ベルベットのように彼を仇と断ずることもリュイにはできなかったのだ。
「そのあと、家を守ることができなかったのも私自身の手腕の問題ですから」
 当時のリュイは僅か10歳にも満たなかったはずだが、彼にとってそれは言い訳にならないようだった。

 開門の日が訪れ、全人類に業魔を視る目が与えられてからというもの、ずっと感じていた疑問に向き合わざるを得なくなった。それはベルベットやロクロウ、理性の残った業魔たちと出会うたび大きくなる。
 つまり、──自分は本当に人間であるのか?という問いかけだった。
 なにせ、身内や身近な人間がことごとく業魔の姿をしていたのである。業魔化の理由も分からないなか、リュイの中にそんな疑惑が生じてもおかしくはないことだった。

「どう見てもお前は人間だろうが」
 そこまで黙って耳を傾けていたアイゼンがやっと口を開いた。
「……そう言い切るだけの根拠がおありで?」
 おそらくはそれも聖隷には明白なことなのだろう。アイゼンの断言ぶりは火を見るより明らか、とでも言うようだ。しかし人間であるリュイにはいまいち確信が持てない。業魔とはいえ、ベルベットやロクロウらと付き合えば合うほどその心のあり方にそれほど違いがあるように思えないのだ……。

 ちょうどそこまで考えたころ。何の前触れもなく、リュイの視界がぐるっと反転する。

 一瞬前まで後方に感じていた男の気配がいまは目の前にある。というか、すぐ眼前にあの仏頂面があった。どうやらリュイの身体を今度は前に抱え直したらしい。彼の腕力の前ではリュイはまるで小さな子どものようだ。
 アイゼンの眉間が至近距離で狭められる。彼は片腕でリュイを抱えてみせるともう一方の手でリュイの顔中をべたべたと触りだした。

「ちょ、ちょっと、一体なんですっ?」
 これにはリュイの口から動揺の声が漏れる。それはそうだ。彼が一体何をしているのか全く理解できない。

「穢れという概念がある。人間も発するものだが、業魔の発する量は比じゃない。聖隷にとってはこうして触るだけで毒だ」
 つねどおりの、淡々とした口調で説明しながらアイゼンは仕上げとばかりにリュイの頭を思い切り掻き混ぜる。

「こうして俺が触れるんだからお前は人間だ。……残念だったか?」
「わ、分かりました。分かりましたから……、」
 無遠慮に撫でくり回されすぎて、目眩が増した気がする。アイゼンのやり方は手っ取り早くリュイに分からせるためにしたことだが、もう十分だろう。

 アイゼンは説明好きのわりには基本的には不親切な男だ。明確な答えを寄越すことはない彼の言い分を、リュイは懸命に頭の中で整理しようとするのだが、前に抱えられたままの体勢は別の落ち着きのなさをリュイにもたらしていた。
「あの。十分、分かったので、先ほどの体勢に戻してもらえませんか」
 なにしろ、全体的にこちらのほうが触れ合っている距離が近い。
「変えろだの戻せだのとうるせえやつだな」
 アイゼンの機嫌が降下するのも分からないことではないが、返ってくる文句の乱暴ぶりといったらひどい。普段であればそこに反論のひとつも返したいところであるのだが、万全でないリュイにはそれは敵わず、いまはおとなしく従う他に方法はないようだった。

──余談ではあるが、この時のリュイは所在不明の気恥ずかしさを紛らわすのに忙しく、自分が置かれた状況についていま一歩客観的な見方ができていなかった。
 それはその後しばらく歩き回り、なんとかベルベットとライフィセットに合流できたタイミングでのことである。

「あんたたち、この大変な時になに遊んでるの?」
 怒気を多分に含んだ声と冷たい視線にリュイは突き刺される。

 リュイとアイゼンの体勢は極めて客観的に、俗っぽい見方をすると姫抱きに近い姿勢に変わっていた。勿論アイゼンに他意はない。紆余曲折して、一番抱えやすかったのがこの姿勢というだけのことだ。なのでアイゼンの態度はあっけらかんとしている。
「ライフィセットの様子は芳しくないようだな」
 横たわるライフィセットの姿を見て、リュイを抱えたままで歩み寄ってみせる。ライフィセットはぐったりとしていて、荒い呼吸だ。一刻も早く助けなければならない。

 しかしベルベットの視線は殺意すら含まれた強さでリュイを貫いている。
 けして遊んでいるわけでもふざけているわけでもないのだ。それを彼女に伝えたくても、リュイは上手く言葉が纏まらない。まごついている内に、事態はさらに悪化する。

「ええ!? リュイ!? それ、それはどういうことですか!?」
 奇しくも、別方向からやってきた旧知のエレノアにもその姿はばっちり目撃されてしまった。

「……もう降ろしてください……」
 そんな弱々しいリュイの姿を見たのは後にも先にもその時だけだった、とのちにエレノアは語ることになる。