風が強い。地形から生まれた強風は無遠慮にスカートの裾をさらっていく。それに気を払いながらも、エレノアは目線を前へ向け続けていた。
一行はその背をみるだけでも個性派の集まりであることが察せられる。その奇抜な色彩の中で、エレノアが唯一見慣れた色をした彼。彼女より数歩前を歩く姿をじっと注視していた。
裏切りの対魔士リュイは彼女の視線に応じて振り返る。不意に向けられるその表情もやはり見慣れたものだったため、エレノアはより複雑な感情に襲われてしまう。
(どうして、彼は業魔と行動しているのだろう)
エレノアを前にしてリュイの態度はあまりにも変わらないままだった。聖寮を裏切ったのなら、それはそれでそれなりの振る舞いというものがあるだろうに。
(こんなときテレサなら、反省の色がないと叱責したことでしょうね……)
御座で別れたきりの姉弟の片割れを思い出してしまい、エレノアは胸のあたりが重くなる。
「エレノア、足もとに気を付けて」
言葉にせず悶々とする彼女に、リュイは言及することなく、その代わりとばかりに声をかけた。
「……ええ、ありがとう」
彼の言う通り、塗り固められていない足元は歩くには少々危うい。しかしながら、エレノア・ヒュームは誇り高き一等対魔士だ。その矜持を心得ているリュイが無闇に彼女へ手を差し伸べることはない。こういうところも含めて、気遣いのできる人だ、とエレノアは思うのである。だからこそ、分からない。
エレノアの脳裏にここ数日のことが思い出される。そもそも、どうして対魔士である自分が業魔の一行に同行する事態に陥ったのか。
思わぬトラブルの積み重ねで異空間に捕らわれてしまったエレノアは、同じく異空間を彷徨う業魔一行に鉢合わせてしまった。このわけの分からない空間からなんとしても脱出しなくてはならない、と決意した矢先のことである。脱出を図るには自分一人の力ではどうすることもできない。不本意だがそれが事実だった。
そんな彼女の目の前に、いま、尽き果てようとする存在がある。横たわる少年聖隷はエレノアにとっても見覚えのある姿をしていた。ヘラヴィーサでテレサのもとから奪われた使役聖隷である。話を聞く限り、どうやら彼が脱出のための鍵らしい。
「このままでは業魔化するぞ」
厭に落ち着き払った調子で、男の声が告げた。テレサとの契約関係の破棄は、宿るべき器を失うことを意味する。それを再び得ない限り、業魔となってしまうのも時間の問題なのだと。──宿るべき器。エレノアとリュイがひとつの方法へ思い至ったのはほぼ同時のことだった。
「私が彼と契約をします」
名乗りをあげたのはリュイのほうだった。彼は自分を抱えている男の腕からなんとか這い出すと、少年聖隷のもとへ歩み寄った。その様はなんとも締まらないものだったが、エレノアは突っ込たい気持ちを抑えた。一体どんなやりとりがあったかは分からないが、プライドの高いリュイのことだ。きっと並々ならぬ理由があったのだろう。いまはそこを蒸し返すよりも重要なことがある。
「貴方はいままで聖隷と契約したことがないはずじゃ……」
「ですが、この中では可能性があるのは私だけです」
きっぱりと言ってのけるリュイの言葉に促され、エレノアはいま一度顔触れを見回す。この場にいるのは、自分たちとベルベットを除いてあと一人。なぜかリュイを抱えたまま現れた長身の男に改めて目を向けて、エレノアは思わずギョッとする。このいかにも無法者そうな男の正体は聖隷だ。意外すぎる事態に目を剥くエレノアだったが、アイゼンの鋭い目つきに射抜かれると顔ごと目線を逸らしてそれを回避した。
エレノアは状況を理解した。……つまり、この場には自分たちを除いて人間はいない。そしてその役割を敵方である自分に任せることはないとすると、やはり名乗り出たリュイのほかに適任者はいないのだ。
本来聖隷が宿るものは清浄なものでさえあれば人間でなくとも構わない。しかし地脈という閉鎖された空間内で、条件に合うものが見つかる見込みは薄いとリュイは判断したのだろう。それにはエレノアも同感だ。なにより、そんな都合のいいものを探しているだけの猶予もない。
すべて鑑みた上での結論に、リュイは迷いはないようだ。その様子からは脱出のため以外の理由があるようにエレノアには思われた。思えば、リュイは対魔士たちと相対したあの時から、契約者であるテレサから少年聖隷を庇うような仕草を見せていた。きっとリュイは単純に、この小さな存在を守らんとして名乗り出ているのだろう。それを思うと、エレノアは少し自分を恥じ入る気持ちになった。
「ライフィセット本人に意識がないうちに決めてしまうのには問題があるとは思いますが、事態が事態ですからね。許してもらいましょう」
言いながらも悪びれる様子を見せないのが実に彼らしい。口早に告げるリュイに、ベルベットは苦々しい顔を作ったが、迷っている時間がないことは彼女もよく理解していた。
「あんたに任せるのは正直不安だけど、いまは仕方がないわよね……」
ベルベットの言葉は半ば自分に言い聞かせるようでもある。
「ご理解いただけて助かります」
ベルベットの許可が降りたところで、リュイは先ほどからだんまりを決め込んでいるアイゼンへ目を向けた。薀蓄屋の彼が口を出してこないのは珍しいように思えたからである。
彼は悠然と腕を組んだままこちらを静観している。その様子からはどことなく不服そうな空気を纏っているのが感ぜられるが、口を開かないのをいいことに、リュイは彼の無言の訴えを退けることにした。そして今度はエレノアへ向き直る。
「エレノア」
「え、は、はい!」
「今から契約を行いますが、サポートを頼めますか」
不意をつかれたらしいエレノアからは必要以上の反応が返ってくる。まさかこのタイミングで自分に声がかかるとは思わなかったのだ。
聖隷との契約においては、経験者であるエレノアのほうが先輩だ。契約相手に立候補したものの、聖隷との契約はリュイにとっても出たとこ勝負である。万全を期すには術者は多い方が成功率はあがるだろう。
「ええ、勿論です」
気付けば、二つ返事でエレノアはそれを承諾してしまっていた。ベルベットからの視線を背に感じつつ、少年聖隷の傍へ膝をつくリュイの向かい側に彼女も収まる。
(この子の名はライフィセットというのね……)
エレノアの胸に浮かんだ名前は、ついさっきリュイが口にしていたものだ。本来であれば聖隷の名は契約者が与えるもの。ならばそれはテレサが与えた名なのだろうか?……いや、そんなことはない。テレサが己の使役聖隷を敢えて番号で区別していたのをエレノアは知っている。
ライフィセットは浅い呼吸を繰り返し、苦しみからだろうか、唇からは僅かに呻きがもれている。この小さな身体で、どれほどの苦しみと戦っているのだろう……。
エレノアは裏切りの聖隷相手に、いつしか心を寄せてしまっている自分に気がついた。
ただ、本人が自覚していないだけで、それはエレノア自身の本質である。対魔士としての非情なあり方よりも、もっと彼女らしい潜在的な部分。
意図せず、本来の“らしさ”を取り戻した彼女は、改めてリュイを見る。ライフィセットの容態は言うまでもないが、彼の状態も良いとはとても言えない。リュイの負った傷は命に関わる部類のものだったはずだ。オスカーの太刀筋は容赦なくリュイの身体を貫いていた。白亜に広がった血溜まりは、簡単には忘れられないものだった。
冷静になってしっかり観察してみれば、ライフィセットに視線を落としたままのリュイの顔色は随分悪いように見える。傷を塞いだだけでは失った血までは戻ってこない。いつも通りの表情を装ってはいるが、本来は安静にしておかなければならない身体だ。
そんなリュイを前にして、エレノアの胸にある決意が宿る。いま自分が出来ること。なすべきことは、なにか。
「──原始の泉に生まれし者よ……、」
エレノアの言葉に応じて、どこからともなく光が降り注ぐ。
その光はライフィセットの身体を包み込み取り込んでしまった。ベルベットには契約に際する一切のことは分からない。しかしその光は、対魔士が聖隷を使役する際に何度も目にしたものと同じだ。なのでライフィセットの姿が消えたことにはさしたる驚きはなかった。
だが、ライフィセットとひとつになった光が、エレノアのほうへ向かったように見えたのは見過ごすわけにいかない。
「……契約はどうなったの?」
堪えきれず疑問を吐くベルベット。その言葉に応えることなく、リュイはエレノアに目を向けたまま固まっている。様子がおかしい。にわかに理解していく嫌な予感。ベルベットの猜疑心をよそに、エレノアは一呼吸置くとまずリュイへ言葉をかけた。
「ごめんなさい。これは貴方の覚悟を無碍にする行為です」
エレノアの言葉節は毅然としている。彼女の言葉はベルベットに向けられたものではない。それでもことの顛末を知るには十分だった。よりによって、敵であるエレノアがライフィセットとの契約を完了してしまったのだ。
「何勝手なことしてんのよ!」
エレノアに向けて吐いた言葉には怒りが含まれていた。ベルベットからすれば、敵であるエレノアにライフィセットを預けるなんてあり得ないことだ。エレノアは勿論、目の前でむざむざとライフィセットを奪わせたリュイにもベルベットの怒りは向けられる。そんな鋭い視線を向けられて、やっとリュイは己を取り戻した。
「ライフィセットの容態は?」
エレノアがこちらを欺いたことはリュイにとって意外なことだった。だが、いまはそんな感傷よりもライフィセットの安否が先決と考えたようだ。
「心配ありません。いまは私の中で眠っています」
返事をするエレノアの表情は穏やかなものだった。予想外の結果になったとはいえ、ライフィセットの無事はひとまず確保されただろう。一息つくと、途端に身体の力が抜けていく。リュイはなんとか身を支えながら近くの岩場に腕をついた。
「ほら、やっぱり。立つのもやっとなのでしょう?」
そんなリュイの体たらくを見て、エレノアは少し眉を下げる。
「さきほど言った通り、貴方の覚悟は理解しています。でも、その身体では無茶ですよ。聖隷との契約には、成功したとしても想定外のことが起こる可能性もあります。契約後に高熱に襲われたというケースもあるんですから」
「その事案については、そうですね……、ええ、報告は受けていますよ」
くどくどと長文で正論をぶつけられ、リュイのよく回る口が途端に歯切れ悪くなっていく。聖隷との契約に関してリュイは当事者になったことがなかったが、実際契約した同僚の話くらいは色々と聞いているのだ。そのリスクを度外視したわけではないのだが、それをエレノアに主張しても聞き入れてはくれないだろう。
「まあ、妥当な判断だな」
それまで傍観に徹していたアイゼンがやっと口を開く。彼がそのリスクを知らないわけはない。それを知ったうえで敢えて口を出さなかったということだろう。さきほどのだんまり顔の理由はそれだ。
負傷したリュイを抱えてやってきたくらいなのに、なぜ彼の無茶を止めなかったのか。アイゼンの行動はエレノアには整合性が取れていないように思われた。だが、アイゼンの思考回路はより明快で。
「こいつが決めたことなら他が口出しすることじゃないだろう」
……ということである。
聖隷の身の上でありながら自己主張の強い物言いに、エレノアは唖然とする。彼女が感じているであろう気持ちに非常に覚えがあるリュイは達観したような、半分呆れたような声色で補足を付け足した。
「エレノア。この方、相当規格外なんです」
「それはなんとなく察してます……」
その後、契約に納得していないベルベットとのやり取りがあり、紆余曲折として、エレノアは業魔一行に同行することとなってしまった。けして聖寮を裏切ったわけではない。新たに命じられた任務のためならば業魔に手を貸す屈辱にも耐えてみせるつもりだ。
そうだ。自分のした選択に悔いはない。あの場では出来る最善のことを果たしたと自負していたし、何より、容態の安定したライフィセットとリュイの様子はエレノアを勇気付けた。
しかし、それでも身に起こったことに対する不安は無視できない。地脈を抜けた先で合流した仲間も、見れば見るほどこちらの不安を煽る人物像だったことが追い打ちにもなっていた。
(私、本当にこの中でやっていけるの……?)
歩きながら、エレノアはつとめて心の内のみで懊悩する。
そんな彼女の苦悩は、本人が思うよりもよっぽど外に漏れているのだが、いまはそれを敢えて指摘する者はいない。
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