ところどころ油が焦げたような臭いが漂い、リュイは顔を顰めた。ただでさえ風通しの悪い坑道で業魔の鍛冶師が刀を打っている。
クロガネが根城にするくらいだ、武器を作るのに良質な資源がまだこの坑道には残されているのだろう。それなのにこうも人気(ひとけ)の感じられないのは彼が棲みついたからに他ならない。
アルトリウスから命からがら逃れてきた先で出くわしてしまった流離の対魔士・シグレにより、次の目的地である港は封鎖されてしまった。話を聞くだにシグレの実弟であるというロクロウと彼とには並々ならぬ因縁があるようだった。かたや聖寮一の剣士と名高い対魔士、かたや夜叉へと身を落とした業魔とは。立ったまま坑道の岩肌に寄りかかることもせず、リュイは静かに目を伏せた。
なにはともあれ、いずれは避けられないシグレとの戦いに向け、クロガネの鍛冶師としての力を借りることで一行は合意していた。道を急いだところで聖寮の包囲には間に合わないだろう。シグレの並外れた実力は対魔士であれば誰もが知るところである。
「理解できません……。兄弟同士でわざわざ殺しあうなんて……」
エレノアの吐露は薄暗い坑道の闇に溶けていった。
「そうですね。私は兄弟がいなかったのでよく分かりませんが」
「貴方、よく平然としていられますね……、私なんて、なんだか頭がめちゃめちゃ……」
彼女の吐いた言葉は特段誰に向けたものでもない。しかしこのメンバーで彼女の言葉を積極的に拾うのはリュイくらいだ。人気(ひとけ)もない坑道で時間を潰せるものなどあるはずもなく、彼は見るからに手持無沙汰といった様子だった。
「業魔のすることに、そう気にすることもないのでは?」
「そう思うべきなのでしょうね……。でも、彼らの持つ熱意に、人間的とも感じてしまって」
そう言って、エレノアはベルベットの後ろ姿に目を向けた。彼女の戸惑いはリュイにも他人事ではない。業魔については分からないことだらけだが、幸いというべきか、リュイたちはその業魔と行動をともにすることになっている。見定める機会はこれからもあるはずだ。
「ひとまず、いまはおじさまの仕事が終わるのを待ちましょう」
クロガネはロクロウとともに坑道の最奥にある自分の工房にこもりきりだ。刀を一本造り上げるのにいったいどれほどの時間がかかるか、リュイには見当もつかない。それを考えながら視線をあげると、目をまんまるにしたエレノアが彼を見ていた。
「おじさま……って、それまさか、クロガネのことですか」
その声色はいかにも強張っていて、角がある。その不審たっぷりのまなざしにリュイもはたと気が付く。なにしろ、クロガネと征嵐にまつわる怪談めいた逸話が残されているくらいだ。人間であったときを含めると、少なくとも100年は生きているはずの相手である。そうであるなら若輩者としてはそれなりの敬意を表すべきである、とリュイは考えた。だがそれは他の者──とりわけエレノアから見れば違和感のあるものだ。いつのまにか待機組全員の視線が注がれていたのも、彼の発言の異様さを物語っていた。
「無知というのはカワイイもんじゃのー? アイゼンおじちゃま?」
薄暗い坑道にマギルゥのケラケラ笑いが響く。相棒であるビエンフーを港に使い走りに出しているため、彼女はいま非常に時間を持て余しているのである。底意地の悪い笑みを顔全体で表しながらアイゼンを肘で突くような仕草をした。どうやら知らず知らずに魔女に笑いの種を提供してしまったらしい。彼女の台詞の真意を求めて、リュイはアイゼンに目を向けた。彼は苦虫を潰したような顔をして黙り込んでいる。
言われてみれば、聖隷の寿命などはあらためて考えたこともない。業魔でそうなら聖隷だって人間の尺度に則っているとは限らないだろう。リュイの視線を真っ向から受けて、アイゼンは重い口を開ける。
「……聖隷は数千年は生きる」
まさしく桁違いの告白にリュイのみならず、エレノアも、当事者であるはずのライフィセットさえも驚く。聖寮による聖隷の支配はここ数年のことだ。それを把握している者はごく少数だろう。
いままでのやりとりを思い返せば、アイゼンの言動はところどころ年季を感じさせるものがあった。だがそれにしても。そうなのだとしたら。リュイの純粋な感想が彼の口から放たれる。
「そのわりには……それで、その精神性なんですか……?」
「泣かすぞクソガキ」
不意をつかれたらしいマギルゥが今度は思い切り吹き出した。いつもの人を食ったような芝居がかったものじゃない。勿論笑われている当人たちにとっては愉快なものではなく、リュイとアイゼンが同時に奥歯に物が挟まるような表情になったところで、小さな物陰が飛び込んできた。
「大変でフ! 大変でフよ~!」
泣き声をあげながら戻ってきたのは、正体を確かめるまでもなく偵察に出ていた筈のビエンフーである。しかし港から戻ってくるにはいささか時間が早すぎる。彼が持ち合わせる雰囲気のせいでいまいち緊張感に欠けるが、彼はどうやら緊急事態を伝えているようだ。ビエンフーがやってきた道の先に一同は目を向けた。
目に飛び込んできたその光景にエレノアは小さく息を呑んだ。そこにいたのは数人の対魔士、聖寮の制服に身を包んだ者たちが立っていた。その物々しい雰囲気からは濃厚なまでの敵意が漂っている。シグレはこの先の港で待っていると言っていた。出会ったその場で業魔一行を殺すだけなら慣れたものだろうが、敵を包囲するとなれば人手が要る。周辺の対魔士に声がかかってもおかしいことではない。それでもこの場にやってきた数人はシグレの作戦とは関係が薄いだろう、とリュイは理解した。対魔士のなかに見慣れた男がいたからである。
「やっと見つけましたよ、リュイ様!」
と、声をあげたのはリュイの配下として日々付き従っていた男だった。エレノアにも覚えがある顔だ。年頃は30歳前後の、中肉中背の男である。リュイが聖寮を抜けるに当たって、なし崩し的に王都で別れてきた者たち、聖寮ではランバート隊と呼ばれている者たちが揃っていた。
「カルロス、何故こんなところに……」
リュイが意外そうな顔をするのにはわけがある。彼には王都の守護という仕事が任されていたはずなのだ。それがこんな薄暗い坑道で再会するなどとは思ってもみなかったのである。
「何故もなにも、凶悪な業魔一味にかどわかされたと聞いてご救出へ参ったに決まっているでしょう!」
「え、聖寮ではそんな話になってるんですか……?」
エレノアが不審そうに尋ねると、ひどく取り乱した様子のカルロスを押しのけて別の対魔士が彼女の疑問に答える。
「そんな馬鹿な主張をしているのはランバートの部下だった者だけだ。我々は裏切り者二名に粛清するためにきた」
聖寮の裏切り者とは、言うまでもなくリュイとエレノアのことだ。
「ちょうどいいわ、今からでも遅くないから可哀そうな人質役やりなさいよ。そしたらあんたを引き換えにして脱出するから」
「私、もう御座で導士相手に結構戦ってしまいましたし、無理じゃないですか?」
「な、なんと……!」
ベルベットとの非情な軽口にカルロスは頭を抱え、ショックな様子を隠さない。その様子に魔女の口元がいやらしく吊り上がった。
「あ~そういえば暴力だけでなく、導士サマ相手にご立派にタンカも切っておったかのう!」
「わあああ! でもやる!リュイ様はそういうことをされる!」
「業魔の口先で乱されるな貴様! 戦う意志があるのか!」
けたけた笑うマギルゥは対魔士の目にはさぞ邪悪なものに映っただろう。先頭の対魔士が鞘から剣を抜く。仲間内の士気がどうあれ、裏切り者にその命でもって償わせることが対魔士に与えられた任務なのだ。対魔士が業魔の手に落ちることなど許されざること。律することの難しい、強い憤りが対魔士の武器を握る手に宿った。その敵意を感じ、エレノアは悲しみに顔を歪めた。
本来、味方同士であるはずの相手と刃を交えるなど、エレノアには耐えがたいことだった。業魔たちと行動するというのはこういうことなのだ。エレノアは考えが及ばなかった自分を恥じる。そしてそれは自分の部下と対峙することになっているリュイにはもっとつらいことだろう。
戦いになることを覚悟しながら、エレノアはそっとリュイの様子を窺った。カルロスとリュイはなおも何事か話し込んでいる。
「心配してくださったことは感謝します。ですが自身の仕事を放ってまでどうしてここへ?」
「それは、だって、何も仰らなかったのはあなたのほうだ……あなたがいなくなっては、我々は一体どうすればよいと言うのか!」
男は切羽詰まった声で言った。救出にきたのだという殊勝な言葉はなんだったのか、まさしく縋りつくような声だった。
「教育が必要なようですね」
リュイが一歩ずつ前へ出ると、そのぶんカルロスは彼より大きな背を丸めて後退した。年若いリュイに圧されている姿はあまりに情けない。
「戦うのですか、リュイ」
「エレノアは下がっていて結構ですよ。──貴方がたがどう歩むべきか、教えてほしいのならかかっておいでなさい」
もとから多勢相手はリュイの得意とする場である。彼の術は相手に一切気取らせない。身体の自由が利かなくなると意識したときにはもう抗うすべはない。対魔士の攻撃の軌道を操り、いなすと、最後の最後にカルロスの背へ鞭を思い切り叩き込む。制御を失いつつも、まだ戦いの意思を見せる残りの対魔士たちもベルベットたちが加勢すれば次々に倒れていった。エレノアも負けじと武器を構える。
「はは、すっかり全快みたいだなあ! リュイ!」
さらに対魔士たちには悪いことに、業魔一味にさらなる加勢がはいった。打ちたての小刀の一撃が対魔士を襲う。ロクロウは相変わらず場に見合わない朗らかさを持った声で言った。
「借りは返したぞ、エレノア」
「は……、」
倒れる対魔士の身体。エレノアは力をなくし、しゃがみ込みそうになるのを必死に耐えた。──ロクロウの加勢がなければ、あの対魔士と殺し合いになっていたかもしれない。弱気な言葉がエレノアの脳裏に走る。
(あの業魔がこなければ!?私は何を思ったの!? 自分の手を汚したくないから、業魔が手を下してくれて良かったなんて!)
自らの考えに怖ろしくなり、横たわる対魔士を確認する。ロクロウの一太刀は的確で、確実に戦意のみを削ぐ急所を知っているらしい。対魔士は荒い呼吸をしながらもその出血量は太刀を浴びたにしては少ないものだった。
結局彼女は同士を前にして本気で槍を振るうことはかなわなかった。ベルベットの視線がエレノアに突き刺さる。ライフィセットの器になった以上はともに行動していかなければならない。これからの旅路で足枷になりはしないかと、彼女はエレノアを試しているのだ。
「少し甘やかしすぎたようで、お恥ずかしいところをお見せしました」
「で、こいつら殺していいわけ?」
ベルベットの冷たい目が今度は倒れた対魔士たちへ注がれる。
「必要ないでしょう。しばらくは動けないはずです」
自分の言葉を裏付けるかのようにリュイは静かに武器を収めた。反逆者たちからすれば、この後の逃走を確実にすることは敵の生死よりも大事なことである。しかし、ベルベットはアイゼンと一度目配せをすると業魔手を引っ込めた。理由はどうあれ、それを見たエレノアはほっと息をついた。
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