シグレは聖寮に属する人間らしからぬ男である。己の興を優先させるような行動は聖寮の掲げる人間像からはかけ離れたもののように見える。にも拘らず、あまりに混じり気のない純粋な力を体現する姿は清廉ささえ感じさせるのだった。彼はあえてロクロウの命を絶つことはしなかった。それは血のつながった者へ対する恩情だろうか?、そうではない。より高い力を求めるが故の行動だ。なんにせよ、一行はシグレを退けることに成功し、ようやく海賊船バンエルティア号へ乗り込むことができた。
「アイゼン、ひとつ聞いていただけますか」
御座での戦いからここまでほとんど連戦続きだった。ようやくひと心地つける、といった雰囲気のなか、リュイが船へ乗り込もうとするアイゼンを引き留めた。
改まった珍し気な物言いに、アイゼンは視線だけで彼の言葉を促す。
「私の部下たちも同乗させてもらえませんでしょうか」
リュイが申し出る合間にも、船員たちが出航の準備のためせわしなく船着き場と船を行ったり来たりしている。坑道できつく灸を据えられた男たちはいつのまにか港まで追いついてきたようだ。エレノアにはよく知った顔の部下三人たちである。
硬派な海賊が対魔士をそう何人も船にあげることが正しいことだろうか。アイゼンの目つきはいつになく険しい。さきほど同乗を許したクロガネとはわけが違うのだ。
「掃除でもなんでも、させてやってください。それくらいの役には立つ者たちです」
「何故そこまで面倒を見る必要がある」
彼らはいずれもいい大人だ。放っておいたって好きに生きていくだろう。リュイが責任を感じることではない、と言うアイゼンに、リュイはささやかな声色を返した。
「彼らとは少し境遇が近しくて……」
口にしたそばから海風に溶けて消えてしまうほどの声だった。
「勝手にしろ。空き部屋は言うほどないからな」
そもそも最大の決定権をもつアイフリードはいま船にいないのだ。アイゼンから素直でない快諾を頂戴すると、リュイの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう。ベンウィックにも話をしてきます」
お前、そんな顔できるのか、と。アイゼンが思うころにはリュイは速足でベンウィックを探しに行ってしまった。彼のその表情はあまりに希少なものだったらしく、部下の男……自らをランバート隊と公言する男、カルロスは信じがたいものを目撃した顔でアイゼンを凝視した。そしてそれは非難たっぷりの目に変わっていく。
感謝されることはあってもそんな目で睨まれる筋合いなどなく、アイゼンは売られた喧嘩とばかりに睨み返す。死神の異名を持つ聖隷を前に丸腰の男は無謀にも怯む様子を見せず、仁王立ちで応戦してみせた。
「何の真似だ?」
歴戦の気配を窺わせる、ドスの利いた声で牽制しても男は体を震わせながら殊勝にもアイゼンを見上げ続けている。
「わ、わたしはリュイ様親衛隊隊長である! 海賊ごときがリュイ様と対等に接せられるなどと思わないことだ!」
「あ?」
カルロスの胸ぐらが掴まれたのはほとんど反射的なことだった。アイゼンの腕力にかかれば大の男一人ぶんは容易に宙ぶらりんだ。
親衛隊だかなんだか知らないが、外野に自分の在り方をずけずけと指図されてアイゼンは心穏やかでない。リュイとはもう何度も戦いをともにした仲である。それを知りもしない男の思い通りにしてやる義理はない。
「たかが部下がそんなところまで気にするのが仕事かよ」
男の言い分に苛立つのは、能天気さを口ぶりから察したからだった。少なくともリュイの生き方には、親衛だなんだとそんな浮ついた私情が挟まる余地はないように思える。そこまで考えて、さきほどのリュイの言葉が気にかかる。こんな男でもリュイは自身との間になにか親近感を覚えているようだったのだ。
「わたしにはリュイ様の幸福を見届ける必要があるのだ」
そう言い放った男の顔には単なる崇拝や浮ついた感情とは違った色があった。それを見定めたアイゼンは男を解放した。埠頭の固い床に投げ捨てるかたちで。
しかし軟弱そうには見えてもやはり対魔士か。すぐに立ち上がると辺りを小さく見回す。これ以上の話は場所を憚るということだろう。アイゼンは大きく舌打ちした。
「船へあがれ。言い分くらいは聞いてやる」
ほどなくして、バンエルティア号は港を出航した。アイゼンはカルロスを適当な船室へ通すと手短に済むよう話を促した。
「貴様にどこまで話すべきかは分からんが、」
「いいから早く言え。海に捨てるぞ」
男がまず語ったのはリュイの生い立ちのことだった。業魔として処された一族のこと。それはリュイ自身がアイゼンに語って聞かせたことだった。
「わたしの妻も業魔だったのです」
と、男は言った。気立てのいい妻だったらしい。それがある日化け物と化してしまったのだと。妻だった業魔は男が住んでいた村の人々をつぎつぎ食っていった。二日目の晩、対魔士がやってきて、業魔は退治された。妻が殺された悲しみは当然あった。だが男の記憶には凶悪で恐ろしい化け物への恐怖心がこびりつき、それは妻を失った悲しみを覆いつくすほどだった。
「リュイ様だけがわたしの妻を弔ってくださいました。彼が村へやってきて墓を作って……、初めてわたしは妻を心の底から悼むことができた」
男の言うことには、ほかの部下たちもリュイへ似たような恩を持った者たちなのだという。確かにリュイならそれができるだろう。同じ経緯で家族を失った彼なら。そうした者たちが身を寄せ合うのは当然のことだった。
「──だから親衛隊を作ったのだ」
「飛躍しすぎだろ」
「しておらん! リュイ様に素行の悪い虫がついてはならんのだ!」
リュイの、時折顔を出す世間知らずの一面はこいつらのせいなのでは……。アイゼンが呆れていると、部屋の戸が乱暴に叩かれた。
「アイゼン! 急いで甲板へ来てください!」
なにやら急いだ様子でリュイが部屋へ飛び込んでくる。彼が声を荒げるのは平時ではありえない。
「カルロス、こんなところにいたんですね。なにも体に異変はありませんか?」
「え? ええ。ピンピンしておりますが……、」
「……何があった?」
ぽかんとするカルロスへリュイが駆け寄る。心配されてなにやら嬉し気な気配を漂わすカルロスへ再び苛立ちながらアイゼンは問いかけた。
「船内で病人が……! 船員たちは壊賊病ではないかと言っていて、」
「なんだと?」
壊賊病、ときいてアイゼンの様子が変わる。その病は海へ出るものにとっては誰もが知っているべき病だ。業魔病について文献を読み漁っていたリュイもよく知った名前だった。何しろ世界三大奇病という枕詞のついた病なのだ。アイゼンは弾かれたように廊下へ出て、船内に指示を出した。
「進路を変更する。リュイ、被害状況は分かるか」
「現時点では倒れたのは三人です。私、彼らの状況を見てきます」
壊賊病には特効薬がある。逆に言えばそれ以外は治療法がない。アイゼンが真っ先に進路の変更を指示したのは薬へのあてがあってのことだろうとリュイは判断した。アイゼンはまた舌打ちすると船員を彼へ任せて甲板へ向かった。
リュイは急いで来た道を戻ると、荒い息をして倒れる船員のもとへ駆け寄った。
「しっかりなさってください」
仲間を心配して集まった何人かの人だかりを分け、リュイは彼に声をかける。リュイには回復術は使えない。それでも病に冒され苦しむ者の前にしゃがみ込み介抱するかのような素振りを見せる。突然現れた、まだまだ得体のしれない対魔士相手に海賊たちは怒りすらこもった目を向けた。それらを一切気にするふうもなく、リュイは倒れた男へ声をかけ続ける。
「私の目が見えますか? そう、そのまま息をして、見つめたまま……」
病人は抵抗もなく、リュイに言われるまま、身体を操作する。そして数秒後には気を失ったように目を閉じた。
「てめェッ聖寮野郎!! 何しやがったッ!!」
大事な仲間の命がかかっているのだ、海賊たちは途端に殴り掛からんばかりの怒りをあらわにした。それにすらリュイは少しの動揺も見せない。
「彼には眠っていただきました。薬が手に入るまでは安静にしておいた方がいいでしょう」
冷徹に思えた言葉節はとたんに頼もしいものへと変わった。催眠術はリュイにとっては初歩の術だ。
「お、おう……、なんだ、寝てるだけかよ……ビビらせやがる……」
「みなさん、油断なさらないで。少しでも異変を感じたら伝えてください。いま、アイゼンたちが対抗策を考えています」
ほとんど涙声の船員もいるなかで、リュイは冷静に呼びかけた。アイゼンの名を出せば、男たちは海の荒くれ者としての顔を少しずつ思い出していくようだった。
「お前だって感染するんだ。おとなしくしてろ」
しばらくして甲板から降りてきたアイゼンが、状況を眺めてから言った。曰く、進路を変えた先のレニードで特効薬が入手できるらしい。レニードであれば運が良ければ一、二日で到着できる。不幸中の幸いといえた。しかし、安堵に息を吐くリュイとは違ってアイゼンは渋い顔のままだ。
「楽観的に考えるな。順当にいけば二日だ。俺達には《死神の呪い》があることを忘れるな」
アイゼンの忠告に、船員たちは一様に気を引き締める。死神の呪い。彼らにはよほど実感のある言葉らしい。
「上でエレノアも休ませている。お前も来い」
「でも、貴方だって」
「聖隷は病にはかからん。業魔もだ。魔女は知らんがな」
アイゼンは反論の余地も与えず、矢継ぎ早に言葉を放った。人間であるリュイにはそんなこと、当然知る由もない。たしかに業魔が病気になるなんて聞いたこともなかったが。
「なんだか、ずるいですね……」
「作りの問題だ」
だから言うことを聞け、と。このままではアイゼンが自身を力尽くで連れていってしまう気配を感じ取り、リュイは言われる通り甲板へ向かうことにした。
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