手ごろな岩場を見つけると、リュイは懐から取り出した筆記具でバンエルティアに向けた手紙を書きだした。
「リュイ、こっちの岩の方が平たいよ」
「ありがとう」
いちはやくそれを察したライフィセットがリュイに声をかける。凹凸した場所で文字を書く難しさは小さな彼にもよく理解できるものだ。リュイだって本来は行儀悪く岩場に身を屈ませたりなどしないが、緊急時にはそうも言っていられない。
「ベンウィックたちに伝えるの? 律儀ね」
「ええ。彼らを安心させてやらねばね」
時折、目の前に広がる雄大な自然に目を向けながら文字を綴っていくリュイの姿からは緊張感は微塵も感じられない。自分の仕事の気配を感じ取ったシルフモドキがそわそわと彼の筆運びを見守っている。
「お仕事を頼みますよ。まずはこっちを渡していただいて、日が沈むころになったらもうひとつのほうを渡してください」
そう言って、リュイは書き終えた二通の手紙をシルフモドキに手渡した。
一つ目はアイゼンと合流したことを簡潔に伝えるもの。もう一通目にはこれからロウライネに向かうことが詳しく書いてある。わざわざ二段構えにすることに、アイゼンは合点がいったようで憮然としたまま口を開いた。
「妥当だな。場所まで伝えたらすぐにでも船を出すだろう」
「それもこれも貴方が勝手な行動するからですけどね?」
これから少なくともメルキオルと対面することになるのだ。その場に仲間たちが居合わせることが悪手であることはアイゼンも同意見だった。そもそも彼の行動が原因で海賊たちに無用な心配を与えていることについては、反省する気を持ち合わせていないためほぼ黙殺される。
そんな態度にいちいち噛みつくほど子どもっぽくもないので、リュイがおおいに呆れを含んだ顔になるだけで会話は終えられた。
聳える塔をリュイは見上げた。先史時代の遺物であるというのも頷ける巨大な塔だ。
「ここに、メルキオル様が……」
同じく見上げるばかりのエレノアからぼやきが聞こえる。その心中は察するにあまりある。彼女がここで訓練を積んでいたころとは状況はあまりに変わってしまった。まさか自分が業魔と行動を共にしているなんて。彼女の表情からはそのような想いが読み取れた。
使役聖隷を持たないリュイも一般の対魔士と同じく、ここで適正試験は受けたので勝手知ったる場所ではある。中へ入ってもろくに対魔士のいない状況というのは彼にとって違和感のあるものだった。それでいて何者かの気配だけがするのであっては、余計に。
「……特等対魔士殿について、お話しておいたほうが?」
内部を見渡す一行にリュイは口を開いた。先の導師襲撃のこともある。ほぼ確実に穏便な話し合いにはならないだろう。それを見越して、より生存率をあげるための行動を彼は選んだ。
「あーなんか見るからに只者じゃない爺さんだったよな」
対魔士たちによる手荒な歓迎を期待していたロクロウはやけに間延びして言った。
「私が知る限りで、彼以上に聖隷術を使いこなす者はいません」
武力で競うなら、アルトリウスやシグレに軍配が上がるだろう。しかしメルキオルの実力は単純な強さとは毛色が違う。戦力差でなんとかできる類のものではないのだ。それを、とくにロクロウには了承していてもらわなけばならない。
リュイだってこれまで聖寮を相手取ったことはなく、特等対魔士ともなるとその実力を目にする機会も一般対魔士にとっては多いものではない。それでもその実力はなにより特等という立場が証明している。並みの練度ではない彼の術は、誓約によって長らえた時のなかで繰り返し磨かれ、洗練されてきたものだろう。
「厄介ね」
先を進みながらベルベットは相槌を返した。というより、そう返すしかないのだ。ベルベットには平凡な聖隷術ですら理解の範疇を越えるのだから。しかしそれでも、それが彼女の立ち止まる理由にはならない。道を急ぐ一行の最後尾で、マギルゥがこれから起こることに人知れず凪いだ表情を浮かべていた。
導かれるようにたどり着いた広間の奥では男が磔にされていた。周りには他に人影はなく、不自由なはずの男はただ静かにそこに四肢を繋がれている。
「アイフリード……」
開けた空間に響いたアイゼンの声で、リュイはその男こそがアイフリードであると知る。探し求めていた相手だ。しかしあまりに唐突な出現に彼らの脚は止まる。辺りが静かすぎる。その中でアイゼンだけは悠々とその脚を先へ進めた。
「アイゼン……久しぶりだな……」
その接近に気が付いて、アイフリードが顔をあげる。この場でその男と面識があるのはアイゼンだけである。だがその名を呼ぶ口振りはあまりに自然で疑う余地はないように思わせた。リュイは視線だけで周囲を確認する。ここで何か仕掛ける気なら、自分たちの様子は相手に筒抜けであるはずだった。
――突然、アイゼンが磔の男を殴りつけた。
その瞬間を見逃したリュイは急いで前に視線を戻す。どうやら彼は用意されたアイフリードが本物でないことを見抜いていたらしい。空間を僅かに歪ませて、磔の男は姿を消す。幻術だったのだ。存在感からなにまで、実物と何ら見分けがつかないものだったが、メルキオルにとっては造作もない術であろう。
仲間の姿を騙る者に静かな怒りを滲ませるアイゼンの前に別の人影が現れる。
「……!」
途端、アイゼンの目が驚愕に見開かれる。それは意外なまでの動揺だった。彼の視線の先で、少女が華奢な手で日傘をくるくると回す。日傘に隠されて、その顔はリュイのほうからは見ることができない。アイフリードの登場でも揺さぶられなかったアイゼンの平静を崩すだけの相手に違いない。しかし、そんな相手が突然現れることがあり得ないのはアイゼンの驚きようが証明していた。
そのとき、不意に何者かが高所から身を乗り出すのをリュイは視界の端で捉えた。
(ザビーダ!)
物陰から顔を出したのはザビーダが遺物の銃口を日傘の少女へ向けた。放たれた弾丸が着弾すると、少女は姿を消す。やはり彼女も幻術だったのだろう。姿が消えて、ようやくそれは実感として一行に理解された。
「おとり役、助かったぜ! 副長!」
そんな声が降ってきたかと思うと、ザビーダはリュイたちのいる場所まで勢いよく飛び降りた。やはり、ザビーダはメルキオルと対立しているのだ。方法は分からないにせよ、ザビーダがしたことは明確にメルキオルに対する妨害だった。
「特等対魔士殿は!?」
「だから『囮』なんだろうがよボウズ。……おら出てきやがれ、ジジイ!」
リュイをボウズ呼ばわりするのを改める気はないようだ。ザビーダの咆哮が轟くと、どこからともなくメルキオルが姿を現す。御座で目にした大帽子と白装束の老人。
「――儂の二重幻術を破るとはな」
その言葉からは何の感慨も感じられなかった。問答もそこそこに使役聖隷を繰り出す。が、様子がおかしい。現れた聖隷はメルキオルの指示を聞いていないようだ。しかし対魔士の制御を離れた聖隷に対し、メルキオルの選択は非情なものだった。
禍々しい色の光弾が聖隷を襲う。見る間に人型は姿を変え、飛竜、ワイバーンと化す。
「聖隷を業魔に!」
「まさかそんな!」
ベルベットとエレノアがほぼ同時に声をあげた。業魔化した聖隷たちをけしかけて、メルキオルは姿を眩ます。しかしそれを追えるような状況ではない。
得たばかりの羽を羽搏かせ、ワイバーンがひと鳴きした。それだけで耳を劈くような音になる。
大型の、それも飛行する相手に翻弄されるばかりのなか、リュイがひとつ前へ出た。彼の呪術は聖隷だろうと業魔であろうと無差別だ。ばらばらに飛び回る三体を纏め上げんと指示を送る。彼の先導に何体かが気が付いた。しかし正気を失ったワイバーン相手にコントロールを得るのは難しいことらしい。ワイバーンの動きは何度もリュイの意図する軌道からは逸脱したが、格段に動きが鈍った敵をベルベットたちは追い詰めることに成功した。
リュイは彼女たちのサポートに徹しながら前線でワイバーンの動きを躱していく。鉤爪を鞭で絡めとる。が、力の強さではかなわない。重力と勢いを利用してそこを器用に立ち回る。翻る羽に気を取られるうち、背後からワイバーンの尻尾が襲う。それはリュイにとっては完全に死角だった。
「摩天楼!」
その一撃でワイバーンの巨体が撃墜される。
「アイゼン!」
「よくやった、退いてろ」
アイゼンはそう言うと、リュイを押しやって前へ出た。その腕力でもつれかかった脚をなんとか立て直しアイゼンの背を見遣る。あ、と思ったころには、彼の視線のさきで横たわるワイバーン目掛けて最後の一撃を食らわせんと拳は振りかぶられる。
「やめろ!!」
とどめを刺すベルベット、アイゼンをザビーダのペンデュラムが阻んだ。僅かな隙をついて、遺物の銃弾を浴びせると一体のワイバーンが羽に力を入れなおし、そのまま空高く飛び去った。
「あっさり殺しやがって! それがてめえらの流儀かよ!」
三体いたうち飛び去ったのは一体だけだ。残る二体は彼らの手で殺した。ザビーダの怒りにリュイは武器を握る手の力が弛緩するのを感じた。ザビーダの不殺の精神は筋金入りらしい。ベルベットとアイゼンにはない考えだ。それが少し前まで聖隷の姿をしていたとしても、アイゼンはそれで手を緩める男ではない。
「ザビーダ、あんたメルキオルはっ!!」
ザビーダの怒りはベルベットにとってはお門違いもいいところだ。それよりも、ザビーダがメルキオルの身柄を放ってしまったことのほうがはるかに重要だった。
「心持つがゆえの不完全さよ。ランバートの小倅」
メルキオルは言いながらザビーダの手にある遺物へ何らかの術をかける。そしてその行動の正体も分からぬままに姿を眩ませた。
弾かれたようにザビーダがそれを追いかける。一拍遅れてベルベットたちもそれに続いた。
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