「イズルトははじめてですか?」
燦々と照る陽光に目を細めるリュイへ、エレノアは声をかけた。
小さな島々が連なってできるサウスガンドは大陸ほど聖寮の支配が及んでいない土地だ。エレノアも勿論それを知っているので、物珍しそうな目を向けるリュイに対してそう言ったのだろう。実際、彼女の予想は当たっていた。
「ええ。サウスガンド自体はじめてです」
メルキオルはロウライネで姿を消したきりどこへいるとも知れない。同じ相手を追っていたはずのザビーダも、もうここにはいなかった。彼とはどうあっても相容れることができないらしい。いまこうして集っている自分たちだって志を同じくしているとは世辞にも言えない間柄なのに、ここまで行動を共にしているというのは奇妙な話だ。リュイはそう考えて少し自嘲的な気持ちになる。
エレノアがリュイに向かって明るい声を作るのは、そんな彼の心情を敏感に読み取ったからだった。
「ここはサウスガンドいちの港町ですから、活気がありますよね!」
二人の暢気な雑談をベルベットは非難めいた目で睨む。イズルトを訪れたのは人探しのためだった。
マギルゥと知己である、グリモワールという女性なら古文書の解読ができるという話だ。ちょっと前にこの島から手紙が届いたのだと、それだけの情報を頼りにこれからその相手を虱潰しに探す必要がある。
遊んでいる時間がないことはエレノアも重々承知である。ベルベットの非難は正しく、彼女は誤魔化すようにわざとらしい咳払いをした。
「聞き込みをするのなら、一度解散しませんか? そのほうが効率もいいはずです」
「それはまあ……そうね」
効率重視の考えなら、ベルベットが却下する理由はない。仲良く観光するという状況でも関係性でもないので、エレノアの提案は難なく受け入れられた。
「それじゃ……、また後程」
「はい。お気をつけて」
去り際にエレノアは少々名残惜しいような視線を向ける。そんな彼女の背が見えなくなってから、リュイはようやく深い息をついた。
ロウライネでの一件はリュイにそれなりの疲弊を齎していた。別種が業魔に転じるのを見るのは離宮で大司祭がそうなったとき以来だ。聖隷でさえ、そうだった。その絡繰りをおそらく聖寮は知っているのだ。
(気を遣わせてしまったな……)
ローグレスの石畳とは違う木材独特の感触を踏みしめながら、グリモワール探しの名目を果たそうとリュイは町を見回した。
エレノアの言う通り、船着き場の近くは水揚げされたばかりの魚介などを売る市場となっており、あちこちから呼び込みの声が耳に届く。情報を集めるにはちょうど良さそうだ。そう判断したリュイの目にきらりとした輝きが反射した。その店先に並べられているのは魚介や果物などの生鮮食品の類ではない。そこでは装飾品や陶器が陽光を受けきらきらと輝きを放っていた。
「ご店主、人探しをしているのですが……」
それらに目を奪われそうになりつつ、リュイはそう声をかけた。店主は質問に快く応じたがグリモワールについてはなにも知らないようだった。店主の関心ごとはそれよりも今日の売り上げだ。
「対魔士のお兄さん、気になる品があるのかい? うちは各地からの珍品揃いだよ!」
協力してもらった以上、無下にするのも不作法だろう。もともとリュイは物欲というものが薄い。それは彼が幼少のころなんの不自由も覚えなかったことに起因するのかもしれないが、聖寮からの支給品で賄える生活、雑事を担いたがる部下なども手伝って、買い物すら数えるほどしかしたことがなかった。
「ほう。悪くない趣味だ」
と、予告なく低音が降ってくる。
驚きを最小限に抑えてリュイがそちらを確認すると、いつの間にか背後に現れていたアイゼンが彼越しに店先を覗き込んでいた。
「グリモワールはどうしたのです?」
「俺の台詞だな、それは」
苦言はそのまま自身に返された。リュイとてその目的を忘れたわけではないが、身が入っていなかったことは事実だ。おとなしく言い負かされるとアイゼンからは、「まあ、分からんでもないがな」という台詞が返ってくる。
アイゼンの鋭い目は、そのままリュイの視線の先へ向かう。数ある品物の中からリュイの目を奪ったのは一対のティーセットだった。アイゼンもそれらに思うところがあるようだ。
「赤い紋が刻まれているだろう」
その声に促されるまま、リュイはカップを手に取る。彼の言う通り、白磁には真っ赤な紋が繊細に刻み込まれていた。
「ムスヒ紋だ。聖主信仰が盛んだったころに火の聖主を祀る意図で編み出された紋が、長い時間をかけて意匠に落とし込まれて変容していったものだ。これが作れる職人は稀少だぞ」
「はあ……」
ああ、この男の悪癖がはじまった、とリュイは思った。旅をともにしているうちに、アイゼンに蘊蓄を語る嗜好があることはもはや周知のものになっていた。
そんな彼の見立てが本当なら、ここで売られているものは相当の掘り出し物ということになる。どこかから流れ着いたものが運よくここまでやってきたのだろう。しかもカップとソーサーがペアで、大きな損傷もなく揃っているときた。
だが、リュイの目を奪ったのはその由来や稀少性ではない。そう、これは……。
カップを見詰めたまま何も言わないリュイを放って、アイゼンはすっかりスイッチが入ってしまったらしく、広げられている品々の吟味を始めた。物好きな聖隷だ、とリュイは思う。目利き力は海賊の嗜みがどうこうと豪語するのは本人の談だが、彼の態度はその程度を越えているような気がした。
大きな身体をどことなく浮足立たせてアイゼンが物色している間も、リュイの脚は固まったままで動かない。
「なんだ。そんなに気に入ったのか」
リュイに骨董趣味があるなどとは思わず、アイゼンが意外そうな声をあげる。呼び戻され、リュイは瞬きを数度繰り返した。
「どことなく、覚えがあって……」
そう。リュイの目に留まったのはそれらが価値ある骨董だからではない。カップの佇まいを眺めながら、リュイは古い記憶を遡っていた。それはまだ彼が幼かったころ、ランバートの家が没してしまうよりも前のことだ。
彼の母は食器好きで、とりわけこのようなティーカップを愛していた。彼女の蒐集したものはどれも価値のあるものだったろうが、幼いリュイにもそれらを使わせることに寛容だった。一流のものを扱うということも教育の一環と考えていたのかもしれない。いまとなっては彼女の想いなど、分かりようもないが。
そんな彼女の蒐集品も、家が没するのと同時に好事家たちに買い取られていって、磁器の一片すら残されなかった。いま手にしているものが、その中の、母が気に入りだったものにとても似ているように思えたのだ。
「随分昔のことなので、根拠のある話ではないのですが」
手放した蒐集品と同じものが寸分違わず目の前にやってくるなんて奇跡に近い。むしろ別物である可能性の方がはるかに高いだろう。
大切にしまわれた美しいカップを取りだしながら、母は何と言っていただろう。情景を思い浮かべることは出来ても、その記憶の色は薄い。リュイにとっては数ある、なんてことのない日常だった。
「お兄さん、どう? 買うかね?」
リュイが歯痒い想いで自分の記憶を漁っていると、店の主人から声がかかった。もちろんそれなりの値が張る一品だ。しかし彼の身なりを見て、冷やかしではないと判断したのだろう。店主は満面の笑みでリュイを見ている。その視線を浴びて、リュイは考える。
聖寮から離反した彼の手持ち金は多くはない。ベルベットたちと行動をともにしてからは道中で得た資金はほとんど共有で、個人で金を使おうと思えば別途で金策を立てなければならない。そのうえ、いまの状況は明日も分からない旅の身の上だ。食器など、持って歩けるはずもない。自分の置かれた状況を思い返せば答えは一つだった。非常に残念なことだが、ここは断ろう。ひと通り思案した末にリュイはそう決めた。
すると彼の思考を遮るように、目の前に重量の詰まった革袋が落とされた。
「店主、勘定を頼む」
リュイの視界の真上で他人とやりとりをする無礼者は後にも先にもアイゼンしかいない。ジャラジャラと中身の金貨を取りだしながら慣れた手つきで数え終えると、店主はさっさとリュイの手からカップを奪っていってしまう。予想外の出来事にリュイは目を丸くするしかない。あれよあれよという間に取引は成立してしまい、包みに包装された一式の品が再びリュイの手もとに返ってくる。
まるきり訳が分からないリュイは混乱を隠すことができず、感情のままに声をあげた。
「え。あ、あの?」
「あー……。そうだな、あれだ。貸しだな」
アイゼンの唸り声はリュイの疑問への答えにはまったくなっていない。リュイの困惑は極まるばかりだ。
「待ってください、どうして……? だいたい貴方、あんな大金いったい……、いえ、それにしたって……!」
なにからなにまでリュイには納得できないことだった。突然そんな施しを受ける謂れがない。そもそもそれが善意であるのかさえアイゼンの仏頂面からは読み取ることができず、リュイは言葉を焦らせる。
「やるから黙って貰ってろ」
そんなリュイに対してアイゼンは僅かに何か考えるような表情を見せたかと思うとまた一方的な言動で彼を突き放した。
「貴方のそれ何なんですか、面倒なのかなにかは知りませんが伝える努力をするべきでしょう!」
その物言いについ、リュイの声も大きくなる。だってそうでもしないと彼は何も言わずにどんどん歩いて行ってしまうのだ。
しかしそれもむなしく、両手で大事に包みを抱えるリュイを置いて、アイゼンは立ち去ってしまうのだった。
「し、信じられない……」
「お連れさん、気前いいねえ」
少なくとも数日は売り上げのことを気にしなくて済むようになった店主のぼやきにはどこか含みがある。なにか関係を勘違いされただろうか?そう感じながら、言われていないことをこちらから否定するのも不自然だ。リュイは気まずそうな顔で閉口した。
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