「こんにちは、エレノア。ご機嫌麗しく」
「どうしたんですかその怪我は!?」
聖寮巡察官エレノアは同僚との思わぬ再会よりも先にその怪我の量に驚くことになった。正確にはリュイではなく、彼の部下である対魔士たちが、である。リュイのほうはというと不自然なほど無傷だ。一体どんな凶暴な業魔と戦ったというのだろう。
「まあ、この有様でも加減はされたようですがね」
リュイが沼窟の中に潜入している内、部下の三人はその入り口で待機していた。実のところ、業魔討伐の際彼らに待機命令が下ることは珍しくなかった。その意図はリュイにしかわからないことだったが、基本的にリュイの成すことに部下三人が異を唱えることはないため問題になったことはない。
「エレノア、貴女もヘラヴィーサへ?」
「いえ、正確には先程立ち寄ったのです。テレサへ一言挨拶を、と思ったのですが」
降雪が厳しいこの辺りで都市として機能している場所といえば、テレサの治めるヘラヴィーサくらいしかない。ビアズレイのことが過ぎり、エレノアは一瞬顔を曇らせたがすぐに対魔士としての顔を持ち直した。
「いまテレサは業魔を捕らえることで頭がいっぱいのようでした。監獄島を襲った業魔が近くに潜んでいるそうです」
エレノアの報告を受けて、リュイが部下たちと顔を見合わせる。てっきりヘラヴィーサから逃亡してきたトカゲ業魔のことを言っているのかと思えばどうやら違うらしい。監獄島が襲われた、などというのもリュイたちには初耳だった。
「監獄島ということは、相手は元囚人ですか」
あの堅牢な港が突破されたとは考えにくい。わざわざ業魔が苦労してたどり着くような場所でもないだろう。であるならば、内側からの強襲であると考えるほうが自然だ。元より聖寮の問題ごとを存在もろとも押し込めているような場所だ。囚人の何人かが業魔に転じることくらいはあるかもしれない。
エレノアは見聞きしたことをリュイ一行に詳細に言って聞かせる。テレサはヘラヴィーサ付近に潜伏中の業魔の仲間を捕らえ、囮に使う気らしい。非常に合理的なやり方だ。
「業魔にそんな手が通用するでしょうか……」
そうぼやくエレノアの真意はこうだ──わざわざ危険を冒してまで仲間を助けるという情が業魔ごときにあるだろうか?
「しかしテレサがそこまで躍起になるとは」
「……オスカーが絡んでいるのです」
「ああ。明快でいいですね」
で、あるならば彼女のその業魔に対する本気具合も自ずと知れてくる。そしてその業魔というのがリュイの思い描いている彼女なのだとすれば。
「あの業魔は必ずヘラヴィーサに向かうでしょう」
仲間のためか、王都への近道のためかまではリュイにも分かりかねるところではあるが。エレノアも半信半疑ながら、ヘラヴィーサを襲うかもしれない恐ろしい業魔の脅威を思っているのだろう。いずれにせよ、街に誘き出されてしまうのでは民間への被害は計り知れない。いくらヘラヴィーサの自治が厚いとはいえ、だ。
「エレノア、協力してくださいますか」
雪の都ヘラヴィーサは物々しい空気に包まれていた。広場で聖隷を従え、テレサが表に立っている。彼女の隣で囚われの身となっている妙ちくりんな格好の少女が業魔の仲間ということだろう。エレノア、そしてリュイ一行はその様子を遠くから見ていた。
「やはり流石ですね。街の中はしっかり警備が敷いてある」
「テレサに加勢はしないのですか?」
テレサから身を隠すような動きにつられ、エレノアも物陰から市内の様子を窺っている。
「部外者が加わることで逆に統率が乱れるということもあります。ここはテレサに任せましょう」
と、リュイはあっさり広場を離れようとする。確かにテレサの部下の統率は優れたものと記憶しているが、であれば自分たちは何のためにここへ来たのだろう?エレノアは頭上に疑問符を浮かべる。
「彼女たち……、業魔は港を目指すと言っていました」
街中では一般市民の姿は見えなかった。おそらくテレサから直々の外出禁止令が出ているのだろう。しかし港の方では変わらず商業活動が続けられていると見える。もし、本当に業魔が目指すところがそこなら水夫たちの身が危険だ。
「まさか、貴方たちが傷を負わされたのはその業魔なのですか!」
エレノアが弾かれるように言うと部下たちは揃って面目なさそうな顔をした。業魔の行動パターンなど分かるはずもないが、業魔自身がそう言っていたならば間違いないだろう。港が危ない。なるほど、合点がいった。
「港で業魔たちを迎え撃てばいいのですね!」
ぐっと手の中の槍を握る力を強めるエレノアに、リュイは曖昧な笑みで応えた。
一行が港へ着くと、予想通りそこでは市民たちが活気よく働いていた。商船組合はいまだに活動に制限をかけられていたが、ダイルの一件も片付いたことでほとぼりが冷めれば日常に戻るだろう。ヘラヴィーサの産業はこの港が担っているといって過言でない。船乗りたちもその自負があるのだろう。聖寮から業務再開のお達しがくるのをいまかいまかと待っているようだ。
「ヘラヴィーサの皆さん! いますぐ安全な場所に避難してください!」
着くなりエレノアがよく通る声で、辺りに報せる。船乗りたちは顔の知らない対魔士の登場に目を丸くした。役所仕事の染みついた聖寮の性質上、通常であれば対魔士が他地区の管理に干渉すること自体が珍しいのだ。
「あんたたち誰だ?」
「私は聖寮巡査官エレノア・ヒュームです! こちらに業魔がやってくるとの情報がありました。ですので……、」
「いきなりそう言われてもなあ……」
下手をすれば命が関わることであるのに、彼らの反応は芳しくない。
「俺たちにとってはここにある船が財産だ。ここを放って逃げる場所なんかないよ」
「ですが……、」
エレノアは歯噛みする。彼らの言うことも理解はできる。ここを統治してきたテレサへの信頼も手伝って、船乗りたちは互いに顔を見合わせるだけでその場を動こうとしなかった。しかしそれでは命の保証ができないのだ。なんとか退去してもらうことはできないだろうか……。焦るエレノアの傍らでリュイは港をざっと見回していた。
「いまここに停まっている船は全て貴方がたのものですか?」
穏やかな声色は船乗りへ問いかける。
「そうだが……」
全て、出航をいまかいまかと待っているかわいい船たちだ。商船の遣り取りが止まっていることもあり、他の港からの船舶もない。
「そうですか、それはまずいですね」
そういうリュイの言葉は穏やかさを保ったままで、とても切迫した様子がない。エレノアはもどかしい気持ちを堪えてリュイへ向き直る。
「何か気がつくことでも?」
「ええ。てっきり業魔たちには足があるものと思っていたので、そこまでの経路を固めればよいかと考えていたのですが」
「え」
女業魔ベルベットは王都を目指すと言っていた。お育ちのいいリュイは彼らにも船があると当然のように考えていたようである。
「私たちのこの人数では守れる範囲は限られます。困りましたね」
「なんて暢気な!」
エレノアは外聞もなく絶句した。リュイは元来頭の切れる人物だ。用意された情報で最善の策を生み出し、部下を率いる姿は軍師のようだと称されることもある。しかし。天性の貴族体質故か、感覚がどこか他の者とはズレているのだ。彼の中では船を奪ってまで退路を確保するなんてことは考えもしないのだろう。呆れ果てるエレノアの視界の隅でリュイの部下三人は、リュイ様はそういうところがある、と言わんばかりに頷いていた。彼の信奉者であるこの男たちにまともな反応を期待しても無駄だろう。
「というか、その業魔たちは王都を目指しているのですか!?」
むしろエレノアとしてはそちらの方がより聞き捨てならない。王都の善良な市民たちを脅かそうというならばなんとしてもここで食い止めなければならないではないか。
「そのようですね」
「ですね……って、一大事でしょう!」
「彼女たちの目的は略奪や殺戮ではないように見えましたよ」
「業魔にそんな崇高な目的があるものですか!」
突っ込みを通り越して怒りの域にまで達さんばかりのエレノアをリュイの部下が三人がかりで宥める。そんな遣り取りを見せつけられていたヘラヴィーサの男たちの顔色がだんだん曇ってきた。
「これ、本当に逃げないとまずいんじゃないか?」
「ああ。なんだかだんだんそんな気がしてきたな」
自分たちを守りにきた対魔士が目の前で漫才を繰り広げていれば不安にもなるだろう。渋々ではあるものの、一人また一人と屋内へ移動していく。すかさずリュイは部下たちに指示を出し、その群れを安全圏へと誘導させた。
「やはり、話せば分かってくれるものですね」
「失望されたんですよ……」
そう言って毒気のない表情で微笑むのでエレノアも船乗りたち同様に呆れるしかない。
背後から爆発音が響いたのは突然のことだった。
エレノアの萎びた空気が一瞬にして戦闘モードに切り替わる。リュイも自分の武器に手を掛けた。
──突風とともに人の形をしたものが飛び込んでくる。
漆黒の髪を振り乱し、やってくる姿にはエレノアも覚えがあった。しかし、その左手は間違いなく異形のもの。
「貴女は……! 業魔だったのですね!」
「涙目対魔士!」
「エレノア!リュイ! その者を捕らえなさい!!」
相対するエレノア、ベルベット。更に背後から追跡してきたテレサの声が響く。
「昨日振りだなあ、鞭の対魔士!」
「御機嫌よう」
軽い口調で応じ、リュイは小刀の強襲を受ける。昨日出会ったばかりの業魔の一人、ロクロウが得物を手にしていた。背負った大剣ではなく小振りの双剣。リュイはそれを無駄のない動きで防いだ。
「ロクロウ! 真面目にやりなさい!」
「刀相手じゃないとどうもモチベーションがなァ……、せめて刃がついていれば話は違うんだが」
「言っておる場合かー! 命が懸かっておるのじゃぞ!」
小柄な少女がいやに古めかしい口調で喚く。さきほど目にした人質だ。混乱に乗じてちゃっかり救出したらしい。
「おっと、それは困る!」
軽口のままロクロウが刀を振るう。その剣筋は迷いなく、素早い。
「リュイ!」
テレサが苛立ちを多分に含んだ声で叫ぶ。思わずロクロウは苦笑してしまう。異種武器で繰り広げられる鍔迫り合い。
「おお怖い、気苦労察するぜ」
「ええ、お互いに」
「はは、違いない!」
リュイが太刀筋を払った、その反動を使ってロクロウは空中へ飛び上がる。見た目にそぐわぬ身軽さで、そのままリュイの背を飛び越えてしまった。見ればもう一人の業魔もエレノアを掻い潜り、埠頭へ突っ走っていく背。その先ではトカゲ業魔の姿も見える。
──かくしてリュイたちは卑劣な業魔一行を取り逃がしてしまったのだった。
.