暗い海に錨を沈めたバンエルティアの一室、いつのまにか彼が勝手に私室のように使っている部屋で、リュイはティーカップ一式に視線を注いでいた。
家を失ってからというもの、それからはずっと聖寮で生活をしていたので、いまのリュイに持ち家はない。ティーセットの行き場はしばらくこの船にしかないだろう。宝物庫に置いたっていいくらいの品らしいが、あくまでリュイは期間限定の同乗者だ。そこに入るだけの権限まではない。諸々を鑑みた末、結局リュイはそのカップたちをここで管理するように決めた。
(不可解だ……)
首を捻るのは勿論、昼のアイゼンの行動についてだ。度を超えた衝動買いに思えても、彼の、あの収集癖を満たすためならば何らおかしいことではない。だが、彼が目をかけた品はなぜかいまリュイの手元にあるのだ。
リュイは施しを与える側の人間で、誰かから無償のそれを受けることにとにかく慣れていなかった。端的に言えば、むずがゆく、心地が良くない。
いまは小休止と前準備のために留まっているが、明日にはまた奥地まで進む予定である。リュイはもやもやした気持ちを払うべく、一度部屋をあとにすることにした。
明るい時間ならまだしも、夜に聖隷を探すのは少々骨の折れることだ。ライフィセットは日ごろ健やかによく眠っているようだが、ことアイゼンが寝ているところなど見たことがない。彼にとっては夜中であろうと変わらず活動時間であるらしい。
「アイゼン、」
思い当たる部屋を訪ねて、ようやく彼が甲板にいることをリュイが付きとめると、アイゼンは意外そうな顔をした。
面と向かうのは昼ぶりである。あのとき、引き留めるリュイをまるきり無視したにもかかわらず、アイゼンの面持ちからはそのことなど少しも省みる様子がない。
「文句があるなら聞いてやる」
波の静けさを台無しにされるのはアイゼンだって歓迎はしないことだ。しかし、こんな夜に良い子のリュイが訪ねてくるのもはじめてのことだった。それほど自分に物申したいことがあるというなら聞いてやるのもやぶさかではない。
あくまで上から目線の態度にリュイは呆れを覚えたが、いまは大人しくそれを受け入れることにする。彼に話をつけたいことがあるのは確かだ。
「ここでは、ちょっと……。中で話しませんか」
これまた意外なことを言う。アイゼンがそんな感想を持つのも無理はない。何事もはきはきと物を言うリュイには珍しい淀みだった。
その物珍しさに惹かれ、素直に階段を降りたさきで、アイゼンはようやく、なるほどなと息をもらした。
「どうぞ」
リュイは少しぶっきらぼうにアイゼンを手招いた。これもなかなか見ない表情だ。勧められた先には彼が昼に購入したティーセットが並んでいた。
「なんだ、礼のつもりか?」
あえて、アイゼンからは皮肉っぽい声色が発される。
「そ、そうです」
にも拘らず、リュイはそれをあっさりと肯定した。
もともと彼は悪びれたり、誤魔化したりしない性格だ。これではアイゼンのほうがはるかに分が悪い。
捻くれた態度は早々に諦めて、アイゼンは腰をおろした。そしてリュイが勧めるままに、おそらく彼が淹れたのであろう紅茶に口をつけた。外にいたときとは比べものにならない沈黙が流れる。
「用はこれだけじゃないだろう」
ひと呼吸ののち、アイゼンは言った。やけに小さく座っていたリュイの背すじが伸びる。
「ロウライネでの件です」
リュイがあの塔で起きたことを引き摺っているのはアイゼンから見ても明らかだった。
メルキオルと対峙し、一行に成す術はほとんどなかった。策や技だけのことではない。聖寮にとって、聖隷がいかなるものか。聖隷を容易く使い捨てたメルキオルの行動はそれをなにより物語っていた。
業魔となった同胞を前にアイゼンの判断は早かった。それを止めたのはザビーダである。対して、アイゼンの拳に躊躇いはなかった。
「非難するか?」
「いえ……、」
自嘲を含んだ言葉を小さく否定され、アイゼンはあてが外れる。同族殺しはリュイの目にはさぞ非道な行いに見えただろうと思っていたのだが。そうでなくともリュイは業魔のことを等しく害のあるものとは認識していないのだ。
「貴方だって、自身で思われているほど冷たいひとじゃないでしょう」
そうでなければ説明がつかないことをいくつもリュイは経験していた。必要以上に悪ぶる傾向のある本人は認めたがらないだろうし、現にいま怪訝そうにしているが、ともかくリュイはアイゼンをそのように認識している。
だから、いくら冷酷な判断に思えても、あの場では殺すよりも他の策はなかったということなのだ。
「ああなっては戻す方法がないと。人も聖隷も同じですね」
彼の家族は業魔の姿のまま死んだ。ロウライネでのこともけして他人事ではないのだ。彼の口ぶりは俯瞰しているようでいて、表情からは悔いが窺えた。世界の仕組みを前に何を悔やむことがあるというのか。一介の人間には過ぎた思い上がりだ。アイゼンの口元に笑みが浮かぶ。
「傲慢なやつだ」
「貴方に言われると、心外ですけど」
ひと息の間もなく返される苦言なんかまさにそれで、アイゼンは余計に可笑しくて笑う。相槌の片手間、傾けるカップはもうほとんど空だ。その減り様を見て、リュイにはある気掛かりが湧いてくる。
「……それ、無理に飲まなくてもいいですよ」
向いに座る男がそれを一向に言及しないものだから、ついにリュイは自ら口にした。
今回、アイゼンに払わせた金額は小さな船であれば買えてしまうほど多額だ。手持ちのないリュイが易々と返せるものではなく、彼が苦肉で選んだ行動は礼と言うにはそれでも吊り合わない。それを傲慢と言うのならリュイは甘んじて受け入れる心構えだった。仲間内に大不評の料理を作っているときなどはむしろ生き生きとしているくらいなのに、今日に限っては妙にしおらしい。
リュイとて一流の味は経験から知っている。なので自分の用意した紅茶がいかに粗末な出来であるかは自覚しているのだ。アイゼンだってそのはずである。この男のこだわりが強いことは知っていて、ならば結果は予想できたはずだ。それなのに出してしまった。
いまごろいくら悔いたところでカップは奪い返せない。残った最後のひとくちには茶葉が沈殿しているのが見えた。
「まあ、たまには温い茶も悪くない」
それを苦々しげに平げてからアイゼンは言った。リュイが手間取っているうちに適温を逃したことも見抜かれている。
「誰かにきちんと作法を習います、ベルベットとか……」
「そうしたいんなら止めないがな」
アイゼンはいつになく寛容な物言いで述べる。それが情けによるものであっても、いや、そうなら余計に、甘んずるわけにはいかない。ベルベットがリュイの話に耳を傾ける確証はなくとも、いま彼が思い浮かべられる適任者は彼女くらいだ。しかしリュイに必要なのは技術だけの話ではないとアイゼンは考える。
「昼間の礼ってんなら、そんな辛気臭い顔で見てんな」
ロウライネでのことを話さなければならなかったのは確かだが、話題の選択だって適しているとはいえない。なにごとにもムードやシチュエーションは重要だ。アイゼンの指摘は真っ当だった。
「それは、その通りですね。失礼しました」
「今度は茶請けに焼き菓子でも作ってきてやる」
言いつつ、アイゼンにまともに作れるのはパルミエくらいである。リュイやベルベットたちにはまだ一度も披露していないが、最愛の妹からのお墨付きの品だ。
「焼き菓子ですか、貴方が……?」
そんなことは知らないリュイはひどく驚いたように、鸚鵡返しした。
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