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 一行の船出をテレサは急かしたが、暗い海の中を出て行くわけには行かず、結局ノースガンドを出港したのは一晩明けた早朝となった。
 登りつつある日の光を受けながら、エレノアは甲板の上で波間を見つめていた。対魔士になる前は大陸を跨ぐ移動などしたこともなかったが、いまでは大型船の渡航にも慣れたものだった。
 船員に声をかけていたらしいリュイが甲板へと上がってくる。見渡す海は穏やかで、気持ちがいいくらいだ。

「日没までにはミッドガンドへ着けるそうですよ」
「そうですか、有難うございます」
 この様子では予定を大幅に外れることもないだろう。エレノアは少し肩の力を抜く。それから自分より少しだけ高い位置にある同期の顔を見た。リュイ・ランバート。エレノアとは生まれから何から異なった人物だ。視界の後ろのほうで彼の部下たちはすっかり緩みきった様子で雑談に興じていた。彼らとリュイが一体どういった縁で連んでいるのかをエレノアは知らない。世辞にも優秀とはいえない彼らをリュイは子分よろしく連れて歩いていた。
「リュイ、王都への帰還はいつ以来になりますか?」
「三ヶ月ほどですね」
「私は半年振りです」
「単身で大陸を越えるなんて大変でしたね」
 リュイはそう言ってエレノアを労うように微笑む。確かに一般の感覚であればそうだろう。それでも使命あってのこと。エレノアがそれを苦と思ったことはなかった。対魔士の力を授かってからというもの、業魔にも引けを取ることはなかったし、むしろ一匹でも多くの業魔を屠ることは自分の責務だと思っていた。そこまで考えて、はたと思い当たることがある。どことなく浮世離れした彼の、明確に他と異なる部分。

「貴方は聖隷を所持していないのですね」
 そう。リュイにはどうも聖隷を連れている様子がない。聖寮の対魔士であれば、みな素養に応じた聖隷が与えられているはずである。それを有していないのは業魔との戦いで聖隷を失い、まだ新しい聖隷を充てがわれていない対魔士くらいだ。聖隷のいない対魔士など戦闘手段を持たないに等しい。だがリュイの様子には焦りなどは微塵も感じられない。なら、一体何故?エレノアの疑問にリュイは特に間を置くこともなく言葉を紡ぐ。
「ええ。元々そのようなものは付き従えていないのです」
「えっ、どうしてですか?」
 対魔士にも色んな人間がいる。元々腕の立つ者もいるが、同じ人間を相手取るならまだしも、業魔を相手にするにはどうあっても力不足だろう。筆頭対魔士クラスであれば話は別かもしれないが。

「お恥ずかしながら、聖隷を降ろす儀式がうまくいかなくて」
 曰く聖隷を持たないのではなく、持てなかったのだと彼は言う。そんなことがあるのだろうか。元々聖隷を扱う素養のあるものが対魔士としてその任に着くはずである。聖隷を持たない対魔士が対魔士といえるのだろうか?それでも彼の肩書きがそうである以上、他でもないアルトリウスがその在り方を認めたということだ。
「では聖隷と契約をしたことがないのですか? 一度も?」
「はい」
 それを聞いてエレノアは自分が聖隷を充てがわれたときのことを思い出す。十数人の対魔士候補が集められ、筆頭対魔士アルトリウス、特等対魔士メルキオルにより儀式は滞りなく行われた。なにも間違うようなことはないはずなのだが。そう、エレノアのときも何の問題なく儀式は終わった。普段使いの聖隷と、あの風変わりな聖隷と契約を……、

 と、つい、エレノアが回想してしまうと。
 彼女の身体から一筋の光が現れる。それは一瞬で終結し、一つの形を成した。

「不思議なこともありまフでフね~」
 訳知り顔で現れた小動物的な存在を、リュイは数回の瞬きで出迎える。何があっても大抵のことは憮然として調子を変えないリュイだったが聖隷ビエンフーの登場には流石に意表を突かれたらしい。

「勝手に出てこないでください!」
「エレノア、こんな聖隷も連れていたんですか」
「ええ、その……少々変わった聖隷なので、あまり他の人には見せたことがないのですが」
「ひどいでフ! エレノア様のお友達ならちゃんとボクにも紹介してほしいでフ~」
「……確かに、変わっていますね」
 リュイの視線はビエンフーに注がれたまま動かない。ビエンフーの姿はどこもかしこも規格外だ。聖隷は大きさ、外見など千差万別だが、この小さな彼は饒舌に言葉を話す。その様子は契約主であるエレノアの制御下にあるようにはとても思えない。自律してペラペラ話し、ひょこひょこ動く聖隷など、リュイも初めて目にするものだった。

「お兄さんお名前はなんて言うでフか?」
「これは失礼しました」
 ビエンフーに促され、リュイは名を名乗る。相手が何者であれ名乗りを告げないのは彼の矜持に反する。いくつか言葉を交わしてもなお、リュイは目を丸くしながらビエンフーを観察している。自分の契約した聖隷にここまで興味を持たれると思っていなかったエレノアは彼のらしからぬ様子に少し戸惑っていた。

 リュイとビエンフーの会話は続く。実はリュイにとっても何故自分のときだけ儀式が失敗したのか、まるで見当がついていなかった。別にそれで困っているわけでもないのだが、この聖隷がなにか知っているのだとすれば興味がある。
「ボクにも詳しい原因は分からないでフが、もしかしたらリュイの意志の問題かもしれないでフね」
「心の持ちようだと?」
「契約に必要なのは相互承認でフからね。リュイの中にボクたちを拒む気持ちがあったんじゃないでフか?」
──拒む。
 リュイは鸚鵡返しに繰り返した。そうなのだろうか。自分に問いかけてもいまひとつ真偽は判然とせず、首を捻る。

「貴方、適当なことを言ってリュイを困らせているんじゃないでしょうね」
 そんな二人をエレノアが疑いの目で見る。契約者である彼女はビエンフーのお調子者な性質もよく知っているからだ。
「でもそれくらいしか思いつかないっていうか~」
「それが適当だと言うのです!」
 そもそも聖隷を拒むという感覚もエレノアにはよくわからない。聖隷を得ることは力を得ること。リュイだって契約すればもっと任務を果たしやすくなるだろうに。それを深層心理で拒んだということであれば。
「まさかリュイ……、本心では戦いを望んでいないのでは……?」
 対魔士になった者には様々な志がある。みな人間のために、世界のために、身を犠牲にするのも厭わず力を尽くしているが、それができない者も中にはいるだろう。聖隷を扱う素養は戦う意思とは無縁である。それを拒否したとしてもおかしなことではない。エレノアの瞳が気遣わしげに揺れる。しかしその憶測をリュイはすぐに訂正してみせた。
「それはない……、と思いますが」
 リュイは自分が肉体派でないことは認めている。それでも暴力は手段として有効であり、必要あればそれを行使することも仕方がないと思っている。そのための覚悟も人並みにはできているはずだった。エレノアもリュイの戦いぶりは何度か見たことがある。そこに戸惑いや迷いがないことはすぐに思い出せた。そうすると、一体ほかにどんな理由があるだろう。いよいよエレノアには分からなくなってしまう。

「ひょっとして誰かに操を立てていたり?」
 そんなビエンフーの何気ない言葉に後方で顔を合わせていた部下たちがどよめいた。
「なんてことを言うの!」
 弾かれるようにエレノアがビエンフーを叱責する。
「あくまでもボクは可能性のひとつとしてでフね~! やめて~!槍でぐりぐりしたら駄目でフ~!」
「リュイ! 気を悪くさせたならごめんなさい」
「いえ、特に気にしてはいませんよ」
 そう言って、むしろエレノアの槍の柄で嬲られているビエンフーのほうへ同情の目を向けるリュイ。エレノアは善人であるが、不正や礼を逸したことに対する態度は人一倍厳しい。根っからの委員長タイプである。
「しかし、そうですね。そういったことももしかしたら……あったかもしれません」
「え」
 儀式があった日のことを思い出す。アルトリウスが従える、あの仮面の聖隷を目の前にして、強い違和感があった。
「それに、素性の知れない力に頼るよりは彼らのほうがよほど信用できます」
 直接の原因がわからないものの、結局はそこなのだ。リュイはそんなことを言いながら、こちらの方をチラチラと気にしている様子の部下たちへと目を向けた。

「ボクは素性の分からない聖隷じゃないでフよ! エレノア様!」
 リュイの言葉を受けて、ビエンフーが得意げに胸を張る。さきほど据えたお灸は大した効果がなかったようだ。
「貴方となら契約も成立したかもしれませんね」
「困りまフ、ボクにはエレノア様という方が~!」
「おや残念だ」
 冗談めかして笑うリュイだったが、エレノアはそんなことよりも彼の発言のほうが気になって仕方がない。しかしプライベートなことにどこまで顔を突っ込んで良いものか。
「リュイ、貴方にも、ろ、ロマンス的なことが……?」
「何か齟齬が生じているように感じますが……」
 残念ながらエレノアの期待に応えられるとは思えない。とリュイは判断する。
 しかしビエンフーの存在がリュイの記憶を思い起こさせるきっかけになったのは確かだ。それは、遡るにはあまりに古い記憶。顔も声も知らないが、確かにそこにあった存在。幼い自分には到底分かり得ることではなかったが、あれはきっと……。
「ロマンス……、ですか?」
「ロマンスではないです」