ローグレスはリュイの生まれ故郷であった。
彼の家が没してから3年ほどが経つが、その後は聖寮へ所属することとなったため、物心ついたときから現在に至るまでの彼の記憶はほぼこの街で完結している。王国の中枢を担い続け、人々の溢れかえる街並みはふるさとと呼ぶには似つかわしくないようであったが、それでもリュイにとってはまぎれもない故郷だった。
ゼクソン港を降りたリュイたちはまっすぐ王都へ向かい、それぞれの役割のために解散となった。リュイに付き従っていた部下たちも、ひとたび王都へ帰ればその階級に見合った仕事が与えられる。
「リュイ! こっちだ」
一人となったリュイに声をかける人影がある。オスカー・ドラゴニア。ヘラヴィーサを統べていたあの女対魔士の片割れ。彼女の愛する弟だった。
オスカーは人好きのする笑みでもってリュイを迎えた。好青年を絵に描いたような容姿の彼であるが、その容貌の半分ほどは痛ましく包帯で覆い隠されている。姉の言っていた通り、負った傷は深いようだ。
「ヘラヴィーサでは大変だったようだね」
開口一番にさきの失態を指摘され、思わずリュイの表情が強張る。手堅い姉のことだ、先手を取って弟に文でも寄越していたのだろう。
「姉君からお聞きになりましたか」
テレサから送られた内容が、一体どれほど苦言に満ちたものであったかは想像に難くない。少々苦々しい面持ちでいると、オスカーはそれをも見透かしたように苦笑する。
「逃したことは痛手だが、ひとまずは大きな怪我がないようでよかった」
状況が状況であるだけに嫌味のように聞こえてしまうが、オスカーの言葉に含みはない。そのまっすぐな好意を受け止め、彼の言葉に耳を傾ける。
「あの女業魔は手強い。──だが聖寮は必ず業魔に勝利する」
オスカーは背筋を正してそう告げた。彼もまた、エレノアに負けず劣らずの熱血タイプだった。その熱を身近でひしひしと感じながらリュイが口を開く。
「オスカー、その業魔のことですが」
「なんだろうか」
「あれほど人の形を保ったままの業魔を、彼女の他に見たことはありますか」
業魔ベルベットの特異性は、一度でも業魔を目にしたことがあるものであれば当然抱くものだろう。彼女に同行していたロクロウという名の業魔もまた同じだ。あれほど元の人間としての形を保ったまま、おそらく人格すら凶暴性を潜めるに留めた姿は……。
対魔士となったリュイは大陸を跨いだ活動をしている。それでも業魔と相対した場数であればゼロナンバーを与えられているオスカーのほうが多い。ベルベットと相対したこともある彼が、彼女に一体どんな印象を持ったのか興味があったのだ。
「人型の業魔になら何度か遭遇しているよ」
凶悪な業魔相手に、“彼女”などという凡庸な呼び方をしたのは無意識だろうか。
リュイの物言いに僅かな引っかかりを感じながらも、オスカーはつとめて真摯に応える。
しかしそれを受けたリュイは不服、というような表情になってしまった。聞きたい答えではなかったということだろう。慇懃な態度で周りを煙に巻くところがあるリュイだが、こうして素直な反応を見せるのも、実は珍しいことではない。自分の感情に良くも悪くも素直なのだ……、とオスカーは理解している。
「……リュイ、君の純粋さは聖寮に必要なものだ。しかし対魔士は民衆を護るための剣でもある」
オスカーの意思を宿らせた瞳が煌々と光る。つまり、彼はこう言っているのだ。──お前の考えは甘いのだと。外見に惑わされて敵の本質を見失ってはならないと。
「業魔は業魔だ。元が人間であることに躊躇いがあるのかもしれないが」
理性的な声色でオスカーが諭してみせる。こういう一本筋の通った……、頑固なところは姉弟そっくりだと思う。リュイには兄弟がいなかったため、その辺りの感覚がよくわからないのだが。
「貴族社会は血統主義だが、真の高貴さは血脈のみに宿るのではない。それと同じさ」
リュイとオスカーはともに名門貴族の出だ。
家同士は特段仲がいいとも言えなかったが──寧ろ互いに互いを煙たがる関係だった──、歳の近い二人は幼いころから面識があった。やがてリュイの家が落ちぶれるとともに両家の親交がなくなっても、オスカーは変わらず貴族然としてみせるリュイの振る舞いに一目置いていた。
「しかしこうして無事に帰ってきてくれたんだ。いまは単純に、それを嬉しく思うよ」
まだ何事か考え込んでいる様子のリュイに、オスカーは明るい声を出して示す。あの女業魔は間違いなく強敵だ。逃してしまった失態は大きいが、何はともあれ互いの無事を確認し合えることは喜ばしい。それに……、
「君の恩人の晴れ舞台にも間に合ったことだしね」
穏やかな色で続けられるオスカーの声。どうやらアルトリウス筆頭対魔士のことを言っているようだ。彼はアルトリウスとリュイの関係を知っている。
あの、世界が変貌した〈開門の日〉、その数日後。憐れなリュイ少年は業魔が跋扈する館の中から助け出された。救出したのはローグレスを訪れたばかりの、のちの英雄アルトリウスだ。聖寮の対魔士といえど噂に戸は立てられない。オスカーでなくとも、リュイの生い立ち、そしてアルトリウスへの大恩は美談として語り草となっていた。その恩義もあり、家人を失ったばかりのリュイ少年はそのまま聖寮へ与することとなったのだが。
その時の出来事はもちろんリュイも忘れたことはない。
「では、式典の準備は滞りなく?」
「ああ。予定通り明日には執り行われるよ」
式が始まれば王都の全対魔士は定められた場所の警備に就く。もちろんリュイも例外ではない。
「再会を祝して食事にでも、と言いたいところだけど、明日の警備についての打ち合わせがあってね」
オスカーの口振りは心底名残惜しい、といった様子だ。オスカー・ドラゴニアは多忙の身だ。聖寮が宗教的組織でなく軍隊であったなら、腕が立ち、人望も厚い彼は騎士団長くらいにはなっていたことだろう。
「明日までにしっかり休養をとるといい」
「それはオスカー、貴方もでしょう」
怪我の療養が必要なのはどう見てもオスカーのほうだ。しかもこの様子を見るだに、王都に戻ってからも忙しなく仕事をこなしているようであるし。
「姉君がご心配されますよ」
それはもう、胸が張り裂けんばかりにご心配されるだろう。ともすれば、彼を働かせる周りの者のクビが危ない、と危惧するほどには。
テレサの顔が目に浮かぶようで、リュイは思わずそう返す。オスカーは無言のまま苦笑してみせるだけだった。
明日に備えて互いを労いつつ、オスカーと別れたリュイは再び一人、ローグレスの街並みを歩いていた。
この街は日が暮れてもしばらくは活気のあるままだ。行き交う人々の様子も昔と何ら変わらない……、ように見える。寧ろ聖寮が一丸となって街を護ることにより、以前よりも統制が取れ、暮らしやすい世の中になっているようにすら思えた。
(民衆を護る剣……、か)
貴族としての地位を剥奪された身ではあるものの、オスカーの考えはリュイには深く理解できる。持つ者が持たざる者を助けるのは当然のこと。それは貴族として生まれた者の責務であり、最も初めに身につけさせられる考えだ。そこに疑いを持ったことはない。
アルトリウスが幼い自分を救ったあの時から、彼の正しさは鮮烈にリュイの胸を刺し続けている。英雄が獣を屠る雄姿。それが頭から離れない……。
──来たる式典のその日。
リュイは特等席から目にした。導師の称号を冠した英雄に、食らいつかんとする女業魔の眼差しを。
彼女は塔の上から有り余る激情、殺気を滲ませてこちらを凝視していた。その眼光を目の当たりにして、リュイは理解せざるを得なかった。彼女は世界の英雄を喰らおうとしている。
民衆の歓声轟くなか、彼女の内なる咆哮が遠く立ち尽くすだけのリュイに届いたのは何故だろうか。そしてその激情から目を離すことができないのは、何故。
「放っておけ」
前方に控えるメルキオルが口を開く。それはほんの呟きにも似ていたが、間違いなくリュイに向けられたものだ。メルキオルはベルベットの存在に気がついている。分かっていて、取るに足らない感情の獣だと切り捨てているのだ。目線を眼下の民衆に向けたままのアルトリウスも、きっと彼女の殺気には気が付いていることだろう。それほどに剥き出しの、抜き身のままの殺意だった。
アルトリウスの演説は続く。しかしリュイにはその内容をしっかり受け止めることができなくなっていた。
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