アルトリウス万歳の歓声はしばらく続いた。
彼の演説により民衆は最早熱狂している、といって過言でないほどの盛り上がりを見せていた。その熱に応えることなく、第一王子と導師は場を後にする。リュイにはその後ろ姿がひどく印象的に思えたが、さらなるインパクトの再来によってその緊張感はどこかへ飛び去ってしまった。
「テレサ……、間に合ったようで何よりです」
遠い北の大陸で別れたばかりの聖女の姿がそこにはあった。
驚くべきことに、彼女はあの半壊滅状態のヘラヴィーサにて必要最低限の業務をこなしたのち、急ピッチで王都まで辿り着いてみせたのだった。恐るべき強行スケジュール。恐るべき執念である。
真面目な彼女のことだ。後続に任せられる限界まで現場に貼り付き、業務を完遂させたことだろう。その手腕にリュイは素直に感嘆していた。
「……途中のヴォーティガン要塞が落ちていたのは想定外でしたが」
よくよく見れば、いつも一分の隙なく美しく固めている彼女の装いに、今日はところどころの綻びが見受けられる。相当に無理を押して駆けつけたことが察せられ、リュイは閉口した。しばらくは姉弟水入らずの時間が必要だろう、と身を引こうとすると。
「お待ちなさい、ここまで無理を押したのはなにもオスカーのことだけではないの」
思いがけず声がかかり、リュイは意外そうに瞳を大きくする。
「私に用向きが?」
「勿論、オスカーが一番ではありますが。ええ、当然のことですわ」
少々ばつが悪そうな様子を見せるテレサの雰囲気はそれでいて柔らかいものだったので、用件はどうやらお叱りの類ではないようだ、とリュイは緊張を緩めた。
「ヘラヴィーサの状況報告ですが。建物や船の数隻に被害が出ました。それに巻き込まれて負傷者も数名出ています」
何の話を切り出されるかと思えば。確かにリュイも関わっていることなので事後報告は必要だろう。しかしそれだけならこうまで急ぐことではない。ましてわざわざ顔を合わせる必要すらない。書面で済ませればいいだけの話だ。
不思議に思い、テレサの言葉が続くのを待っていると、テレサはこほん、と小さく調子を整えてみせた。
「それでも死者は奇跡的に出ませんでした。……つまり、貴方の避難誘導が功を奏した結果で」
テレサの、どこか歯切れの悪い物言いにリュイはやっぱり吃驚してしまう。分かりにくい言い回しではあるものの、彼女は自分に礼を告げているようだった。
「それは何よりでした」
面食らったまま、言葉を返す。彼女の報告はリュイにとっても喜ばしいものだった。街が倒れてしまったとしてもそこに住まう人が残ればまだ未来はある。
「エレノアにも伝えてあげてください。きっと安心するでしょうから」
「そうね。そうします」
正直に言って、リュイはテレサから敬遠されているし、その自覚がある。それはテレサの普段の態度を見れば明らかだった。しかし、私情がどうであれ彼女は為政者としての義務を全うしたということだろう。聖寮に属する人間としては当然のことだ。それでも今日の彼女の態度はそれだけでない、血の通った暖かみがあった。
「言うべきことは言いました。もう行って結構ですよ」
と、ツンとした口振りも面白みがある、とリュイには思われた。
「では、僕からもお礼を」
一部始終を見ていたオスカーがリュイに向けて恭しく一礼してみせた。その表情はいつになくにこやかだ。姉の喜びは自分の喜びである、とでも言うようだった。
「やはり貴方と姉上は相性がいいようだ」
チームを組めばきっと大きな成果をあげられる気がする、とオスカーの言葉は続く。
自信たっぷりにそう言われても、当事者のリュイとしては全くそんな気にはならない。というより、むしろ……。
「もしそうなったら貴方妬くでしょう」
「ははは」
思ったままに指摘すると、オスカーは笑顔を浮かべたまま笑い声を返した。肯定の笑みだ。この姉弟、つねの振る舞いから姉の弟に対する過保護ぶりばかりが目についてしまうものの、実のところその愛情の天秤はぴったり釣り合っているのだ。そこに他人であるリュイが入り込む余地などあるはずがない。
……全く、滅多なことは言わないでいただきたい。
その後オスカーから食事の誘いを受けたが、それはまた今度の機会に、ということになった。
彼としては昨夜の仕切り直しの意味があったのだろうが、その辺りはテレサの預かり知らぬところだ。テレサは口には出さないまでも弟との再会に気持ちが上向いているようだったし、オスカーにしてもそれは同じだろう。それだけでリュイがその場を遠慮する理由には十分だ。それにリュイには誘いを断るだけの大義名分もあった。
「離宮へ?」
「ええ。例の儀式まではまだありますから」
アルトリウスの導師拝命の式典、その数日後に控えられた儀式もまた、世界の命運が懸かった重要なものだ。集められた対魔士たちもそれが無事に終わるまでは王都を離れることはない。
「あまり根を詰めすぎないようになさいな」
テレサは苦言の形を取ってリュイを労った。
ローグレスの城には離宮がある。王家所縁の建物であることに違いはないのだが、いつしかそこは聖寮のために使用されるようになっていた。そこには聖寮の対魔士たちのための共同スペース、修練場、会議室などが詰まっている。豊富な図書資料が収められていることも特徴としてあげられるだろう。
リュイが離宮へ赴くと、対魔士たちは快く彼を迎えた。みな大概が知った顔だ。その中にいつも侍らせている部下の顔は見当たらない。軽く周囲を確認したのち、目的の場所へと向かう。
リュイの目的はこの建物に備えられた書庫だった。
この国には図書館やそれに準ずる施設はない。書物を読み漁ろうと思えば個人の蔵書に頼る他ないのが現状だ。
リュイの生家にはそれがあった。それなりの蔵書数を誇っていたと記憶しているが、家ごと失ったときに手放した。実のところ、そのうちの数十冊は聖寮に寄贈するという形でこの一室に収められている。対魔士であれば誰であろうと閲覧できる場所のため、本にとっては寧ろ良い結果になったのではないか、とリュイは思っている。
さて、この場所を訪れたのはなにも懐古の情に浸るためではない。当然調べ物があってやってきたのである。
大陸の数千年に渡る歴史、業魔病や聖隷についての記述を知るには離宮の文庫ほど適した場所はない。
(業魔病……、か)
考え込みながら、リュイはそれなりの重みを持った本を広げる。どうせしばらくは王都に缶詰めを命じられてるのだ。勝手知ったる本棚の森にリュイは腰を据えることにした。
そんな時間が続いた、それは二日目の夜のこと。
ガタ、と硬質な物音が響いた。
石造りの部屋ではこのような音はよく響く。不自然だったのはその物音が扉ではなく、部屋のさらに奥から響いたように聞こえたことだ。反射的に物陰を振り返る。何人かぶんの衣摺れの音。靴音。聞き間違いようがない。何者かがこの部屋に侵入せんとする雑音だ。
くせ者一行を見極めるため、リュイは思わず声を潜めてそちらを凝視する。
目に入ったのはくるりとカーブを描いた金色の和毛。小さな背丈の少年聖隷。その曇りなき瞳と目が合う。
「あっ、」
「貴方は……」
──テレサの元にいた……、
それが口から出るより先に、リュイの口元は何者かに抑えられた。その力が存外荒く、粗雑であったがためにリュイはその勢いのまま背後の本棚に頭を打ち付けてしまう。机の上の本が大袈裟な音を立てて崩れ落ちる。
それでもいまは痛みに構っている時間はない。この無礼者の正体を暴かないことには。
じろりと未知の相手を睨みつけると、真上から睨み返してくる光がある。吊り上がった鋭い目だ。
「──声をあげてみろ、それが断末魔になるんでいいんならな」
そんな分かりやすい脅迫が浴びせられる。地響きにも似た、低い男の声だった。
(この私に、脅しをかけようなど……!)
男のあまりに無礼な言動に、リュイはつい、カッとなりそうになった自分を抑えた。屈辱的なことに先手は取られてしまったのだ。まずは状況の把握が先決だろう。
他にも仲間がいるはずだが、周りを確認しようにも、自分に詰め寄る身体が邪魔で何も目に入ってこない。相手の背は大きく、リュイの視界は完全に埋まってしまっていた。そもそもリュイを抑え込む手だって大柄な男のそれで、無骨な掌によってリュイの顔は口はおろか、目もとまで覆われてしまっているのだ。そう思うとやはり我慢ならず、リュイはもう一度相手を睨みつけた。涼やかな目線が返ってくる。それが腹立たしい。
「……まあ、当然対魔士はいるよなあ」
「まったく、いい子ちゃんが起きててよい時間ではないというにのう」
不意に、談笑するかのような気やすい声。聞き覚えのある声が二人分聞こえてきた。
剣士の業魔ロクロウと、それに同行していた珍妙な格好の少女のものだ。それに加えて、さきほど目に入ってきた少年聖隷はテレサのもとから奪われた聖隷の片割れ……。と、そこまでくれば“彼ら”の首謀者も自ずと絞れる。何の因果か、彼女たちと自分は相当縁があるらしい。
「……はあ、」
ついで大きな溜め息。これは女業魔ベルベットのものだろう。それを聞いてか、リュイを抑えつける男の力が僅かに緩まる。途端空気が流れ込んできて、リュイは思わず何度か咳き込んだ。
「なんだ、知り合いか?」
聖寮に知り合いが多いな、と男はぼやく。さきほどまでの張り詰めた空気は幾分か萎んでいた。
「知り合いなんてもんじゃない。なんせ刀を交えた仲だ」
それ以上の間柄などあるまい、と言い張るロクロウ。
「へえ、お前の刀を受けて?」
すると男はいかにも意外そうに首を傾げてみせた。自分の自由を奪ったまま繰り広げられるのん気な会話にリュイの苛立ちは募る。
「いい加減に、離しなさい、無礼者……!」
「おお、おお。噛みつきよるわ。威勢の良い対魔士サマじゃの~」
ピンクと紫色の何かがちょこまかと動くのがかろうじて見える。
侵入者の男は瞳の奥で何か思案すると、ようやっとリュイを解放した。相手の上背に合わせられていたせいで、若干足が浮いていたリュイは僅かなふらつきを見せたものの、すぐにしっかり地に足をつけて相手を見据えた。
対する男は悠々と腕など組んで、品定めでもするようにリュイを眺めている。
──なんなんだ、この男は。
リュイは息を整えつつ、一行を見回す。女業魔ベルベット、業魔ロクロウ、テレサの使役していた少年聖隷に、戯けた様子の老獪な少女は人間なのだろうと思われる。
そして、さきほどまでリュイを拘束していた、この大柄な黒尽くめの男。この男の正体は……、恐らく聖隷だ。この場に人間であるのはピンク色の少女のみ。であればこの男は彼女の使役聖隷であろうか?しかし見れども見れども、そんな様子はない。男の行動に誰か他人が口を挟む隙はないように思われる。
(──まさか、自律行動をしているというのか。)
視界の隅で少年聖隷が床に落ちた本を拾いあげている。その行動も、誰かの命令によるものとは思えない。あまりに自然な、自由意志によるもの。リュイの目にはそのように映った。
エレノアの所持していた聖隷のふにっとした二頭身フォルムが脳裏に思い出される。そう。自由意志で行動する聖隷は確かに存在するのだ。自分はそれをすでに知っているではないか。
ベルベットは相変わらずこちらを睨みつけている。……いまは多少の疑問は横に置いておく必要がありそうだ。
いま明らかにするべきは仲間を増やした業魔一行の目的だ。ベルベットがいるということはその最終目的はあまりに明確ではあるが。しかし。
「……ここに、筆頭退魔士殿はいませんが」
疑問のままに口に出すとベルベットは眉根を寄せた。
「知ってるわ。狙いは大司祭よ」
もはや彼女のデフォルトの顔となりつつある、不機嫌な表情のまま目的はあっさりと吐かれた。──大司祭。確かにそれなら目的地はこの離宮で間違いない。
果たして彼女の目的はアルトリウスだけでなく、教会という組織そのものであるのだろうか。……いや、彼女のあの殺意は個人に向けられたものだったはずだ。それがどうして大司祭の暗殺ということになるのだろう。
「詳しく事情をお聞かせいただいても?」
「その義理はないわ」
そう言って一刀両断するベルベットの言うことはもっともだ。一触即発の雰囲気は脱したものの、彼女たちにとってリュイが敵であることに変わりはない。
しかし、リュイはこう考える。
──これは、チャンスだ。
自律する聖隷、人としての形を保つ業魔。いまの常識では考えられない存在たち。自分の耳に届いた、女業魔の怨みの咆哮。
(知りたい。私はきっと、知らなければならない)
「案内、いたしましょうか」
侵入者全員の目が、もれなくリュイへと注がれた。
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