一行は月明かりから身を隠すようにして離宮をあとにした。大司祭暗殺という目的は意外な結末によってあっさりと果たされた。
業魔を食う業魔が、離宮の地下に繋がれていたのだ。計らずも、隠匿された聖寮の暗部を覗き見ることとなったのは偶然だろうか……。
その晩、見張り番をしていた衛兵はベルベット一行に同行する対魔士・リュイを見て、兜の中で確かな動揺を見せた。彼が血翅蝶のメンバーであることは、身につけた赤いスカーフが示している。
賊に手を貸したことが聖寮にまで知れればたとえ血翅蝶の一員であってもただではすまない。ベルベットたちの目的は血翅蝶の男も知っていた。それが何故対魔士連れで出てくるということになるのだろうか。そんなことはこちらが聞きたい、と仏頂面で考えたのはベルベットだが、そう考えてるのはなにも彼女だけではない。
ベルベットを始め、一行の視線が自然とリュイへ注がれる。
巨大な鳥業魔が繋がれた地下から逃げる際、有耶無耶のまま連れてきてしまったのだ。ベルベット達からしてみれば勝手に付いてきた、だが。当のリュイはそんな非難めいた目線を受けても涼しい顔を崩さない。彼の言い分はこうだ。
「……聖寮から糾弾される立場であるという意味では──、」
一行を一瞥し、衛兵へと目を向ける。
「──私もこの方と境遇は同じです。このまま連れていっていただけると助かるのですが」
などと、臆面もなく言ってのけるので、一行はそれぞれ、めいめいに呆れ顔を作るしかなかった。
なにしろ一晩中暗躍したあとだ。それを突っ込むだけの余力を残した者はいなかったのである。
そうして一行が一時の拠点である酒場へ戻ると、店主であり血翅蝶のリーダー、タバサは柔らかな物腰のままベルベットたちを出迎えた。出発するときはいなかったはずの対魔士の姿を見ても彼女は調子を崩さない。むしろ、それさえ予定調和である、とでもいうかのような態度だ。
タバサはベルベットと得た情報を交わし合うと、やっとその視線をリュイへ向けた。
「貴方たちが行動を一緒にするなんて、シナリオとしてはちょっと出来すぎね」
「……失礼、どこかでお会いしたことがあったでしょうか?」
リュイは意外そうな顔をして彼女に尋ねる。タバサの口振りはまるで自分と面識があるかのようだったからだ。
リュイにとっては大衆酒場などまるきり縁がない場所だった。記憶を浚っても、この嫋やかかつ怜悧な雰囲気の老女に覚えはない。自分の方へ向き直るうら若い紳士を一瞥し、タバサは目を伏せた。
「貴方のお父さんもお母さんもこの街の出身だもの。よく知っているわ」
それきりの言葉で、リュイは自分の言葉が愚問であったことを知る。ベルベットたちの態度を見るに、血翅蝶という組織は暗闇に根付く情報屋のようなものなのだろう。
「でも一方的に知っているのはお行儀が悪いわね。タバサよ。そう呼んで頂戴」
「リュイ・ランバートです」
礼儀正しく名乗りをあげるのはリュイにとってはもはや半ばクセのようなものだ。既に知られている相手に対して、改まって名を告げるのは、はたから見れば少し滑稽ですらあったが、リュイはそれを平然と行った。そんな彼の姿に、タバサの目は何かを懐かしむような色を見せる。
「貴方はどちらかというとお祖父様に似ているわね」
「祖父をご存知でしたか」
「ええ。かつて取引をしたこともあったわ」
これもまた意外なことだった。取引、という言葉を使ったからには酒場の客として訪れただけではなかったということだろう。自分の知らない身内の一面に、にわかに興味を持ったリュイだったが、タバサは取引内容を易々と口外するような人間ではないように思われた。
ベルベットたちはタバサとリュイのやり取りを気に留めることもなく、各々好きに寛ぎだしている。そんな一行を横目に見ながらタバサは少し声を落としてこう告げた。
「貴方に渡したいものがあるのだけど、いいかしら?」
そう言ったタバサの声色は優しいもので、リュイは穏やかなまま首肯した。
「ロクロウ。貴方、心水がお好きでしたね」
この面子で、こんなお堅い言葉を使うのは新参の彼だけだ。
目を向けずとも、自分を呼び止める声の主は十分に判別できる。しかしその内容を推し量ることができず、ロクロウは首だけ動かしてそちらを見る。予想通り、そこには痩身の白装束、リュイが立っていた。手には琥珀色の瓶が携えられている。シンプルながら品の良い酒瓶だ。ロクロウほどになるとその見てくれだけで中身のクオリティまで想像できるというもの。知らず喉が渇きを訴える。業魔の身なれど、こういった欲は消えることがない。
「ああ、肴もあれば言うことないな」
「……そうですね。店の者に何かないか尋ねてきましょう」
いまにも舌舐めずりしそうな表情のロクロウに提案され、リュイは素直に店の厨へ消えていく。酒場はとっくに閉店時間のはずだが、血翅蝶としての活動時間に制限はないらしい。店の奥からはこちらを窺うような数人の気配があった。
少し待つと、店員に持たされたらしいグラスと小皿を持ったリュイが戻ってくる。
「一体どうしたんだ、こんな酒」
明らかに高価そうな意匠のラベルをしげしげ見つめてから、ロクロウはその封を開ける。目先のご馳走に夢中な彼は一切遠慮する素振りがない。その様子に気を悪くすることもなく、リュイは心水を注ぐ男の慣れた手つきを見ている。
「分かりやすく、賄賂です」
「はは! そうか、そりゃ分かりやすくていい」
この心水が良品であることは分かるが、正直に言ってリュイ一人では持て余すものだ。離宮の道中でロクロウが心水の話をしたことを思い出し、であるならばと誘いを投げかけたのである。
思惑通り、ロクロウは相当な酒呑みらしい。分かりやすいのは彼の方だ。どんどん上機嫌になっていく。
「おお、これは盃が進む」
「そのようですね」
「応。お前も見てるだけじゃつまらんだろ、呑め呑め」
そう気前よく言ってのけ、ロクロウはリュイの手にしたグラスへとろりとした液体を注ぐ。
一人で呑むのも十分楽しいが、他人と盃を酌み交わすのにはまた別の愉しみがある。この、なかなか腹の中を明かさない男を酔わせてみるというのも面白い。と、少々悪戯じみたことを目論みながら酌をしたロクロウだが、そんな期待を焦らすかのように、リュイは手元の水面に目線を落としたまま口をつけようとしない。
「なんだ? もしや下戸か?」
「あ、いえ、いただきます」
ロクロウに促され、リュイはようやくグラスを傾ける。
──しかし、それは突如現れた手により奪い取られてしまった。頭上からやってきた掌にリュイは大変覚えがある。つくづく不躾なことしかしない掌だ。リュイは眉を寄せた。グラスの行方を追って真上に首を動かす。
「あっ、」
抗議を述べようと開いた口からは不測の声が漏れる。アイゼンがグラスの中身をたった一口で煽ったのだ。あまりに身勝手な行動にリュイは反応が追いつかない。
「……ああ。確かにいい心水だな」
そう満足げな声で告げるアイゼンの言葉は己の行動を省みるどころか、リュイに向けられたものですらない。やがて唖然としたままのリュイの視線に気がつくと呆れた風に肩をすくめてみせた。呆れ返りたいのはこちらのほうだ、とリュイが思うのは当然のこととして。アイゼンにそんな態度を取られる理由がひとつしか思い当たらず、リュイは瞠目する。
「危ないところだったなロクロウ、こいつは未成年だ」
「は?」
二人の遣り取りを端から見ていたロクロウが驚きの声をあげる。
「……冗談だろう?」
見た限り己と同年代のようにしか見えないが、とロクロウ。その目測は的外れというわけでもない。リュイの実年齢を言い当てるのはまず初対面では無理だ。それはリュイ自身が自分を若輩者に見られないよう装っているからに他ならない。寧ろ見破られたのはほとんど初めてのことと言っていい。
「……本当です」
「お、おおう……」
「これ以上こいつに余計な罪状を増やしてくれるな」
いまだに半信半疑、といった様子のロクロウを前にアイゼンが嗜めるような声色を使う。そのまま手酌を始めてしまう彼にリュイはまた信じられないものを目にしている、と目を丸くしてしまう。だって、リュイはロクロウには酒を勧めはしたものの一度だってこの男に許可した覚えはないのだ。
「そこだ。それが分からん。ロクロウを誘っておいて俺に声をかけないのはどういう了見だ?」
ベルベット、ライフィセット、実年齢はともかくとして年若く見えるマギルゥ相手ならいざ知らず、アイゼンの外見は大人の男である。一行の中では一番歳上に見えるし、実際の年齢は歳上の言葉の範囲を大きく逸脱するほどだ。
「だって、貴方は聖隷でしょう」
リュイの常識では聖隷は心水を嗜まない。それにアルコール飲料は未成年のリュイからするとどことなく俗っぽく、悪いものであるようにも感じられた。そのイメージと聖隷のイメージがうまく結びつかなかったのだ。
「まあ俺も心水を好んで呑む聖隷はこいつの他に会ったことがないな」
「そうでしょう?」
「くだらねえ」
リュイの言い分を飲み込み、ロクロウも同調する。二人ぶんの視線に、むしろ反発するようにアイゼンはまたグラスを一口煽った。
「安心しろリュイ。アイゼンは聖隷の中でもかなり不良の部類だ」
「そのようですね……」
そもそも業魔たちと行動を共にしている時点で規格外の聖隷には違いないのだ。
しかしそれにしたってこの聖隷の振る舞いは勝手すぎる。未成年であることを敢えて明かさずに心水を飲もうとしたことはリュイに非があるのだとしても。
「不良聖隷の口にも合うようでなにより」
「ああ。いい趣味だ。お前の祖父さんの趣味か」
棘のある言葉を使ってもアイゼンにはあまり効果がないらしい。上物であることに違いはないらしく、心水の効果か、彼のいつもの眼の鋭さはいくらか鳴りを潜めている。
アイゼンの言う通り、このボトルは祖父がこの店に取り置いていたものだ。祖父が亡くなったことで引き取る相手がいないのだと、リュイがタバサからその所有権を譲らせてもらったのだった。おそらくはそんな二人のやりとりを聞いていたのだろう。
「琥珀心水自体はそれほど希少なもんでもないが、これは産地がいい。熟成具合も言うことない」
「はあ。そういうものですか」
「まあ、ちとオヤジ趣味だけどな」
軽口で横やりを入れるロクロウを睨んで、アイゼンはいつになく饒舌な口を閉ざす。だんまり状態になってしまった男を横目に、ロクロウはリュイへと向き直った。
「しかし、死んだ祖父さんの形見とは。そんな大事なもんを貰っちまってよかったのか?」
そう。ロクロウは風来坊めいた風体とは異なり、意外にも義理堅い質なのだ。リュイはロクロウへの評価を上方修正した。言いつつ、手酌を止めないのは愛嬌として受け入れよう。
「構いません。実は取り置いてあったのはこの一本だけではないのです」
──だから遠慮することは。リュイがそう言う前にロクロウは早合点して、そうかそうか!とグラスを飲み干してしまう。
一般的な酒飲みの酒量はリュイには分からないが、それにしても大層な呑みっぷりである。
「うん。生きる理由は多いに越したことはないからな!」
ロクロウの言葉はアルトリウスと敵対する日を念頭に入れた発言だ。ベルベットたちの道連れを望むリュイの行く先は決まっている。勿論命の保証はない。誰も口には出さないが、勝てる見込みの少ない賭けだ。
(そうだ。彼の言う通り、みすみす命を捨てに行く気はない)
あの、絶対的実力者であるアルトリウスに相対しようというのだ。勝算の見込みはない。リュイの目的が刃を交わすことではないにしても、ベルベットのいる手前、戦闘は避けられないだろう。それでもその場に立ち会うのは、アルトリウスと面と向かって話すことができる機会はそれを逃しては二度とこないだろう、と確信していたからだ。これから起こること、自分が聖寮と袂を分かったことを考えれば……。
「よし、リュイ! 乾杯だ」
不意にロクロウがグラスを掲げてみせる。促されるまま、同じ位置にグラスを持っていくと、ロクロウの持つそれと重なる。空の杯は鈍い音を立てた。
「奢ってもらったからな、俺はお前の目的も応援するぜ」
「驚くほど単純ですね」
「業魔だからな、細かいことまで考えちゃいられん」
そう言って心水を呑む姿は単純ではあるが、明快で気持ちがいい。浅慮なわけではなく、敢えて単純な仕組みを好む質なのだろう。こんな業魔もいるものか、と思い知らされる。
「アイゼンも。賄賂、受け取っちまったもんな?」
「まあな」
意地悪く笑うロクロウにアイゼンは唸るような声を返す。
「お前の祖父さんの顔を立てて、これ一本分程度なら付き合ってやる」
……業魔と比べてなお、この聖隷の態度の大きさはどういうことだ。
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