ある聖隷の回想

 いまよりほんの少し前の話だ、そう回想するのは長い時を生きる聖隷の尺度にすぎず、実際には十数年前のことだったりする。
 人々の信仰は色褪せ、聖隷は不可視の存在。これは世界がまだ「正常」だった頃のことだ。

 聖隷アイゼンは自ら「呪い」と称す己の業を解くために旅をしていた。そもそもこの忌まわしき業を解く術などあるのかも分からない、そんな宛てもない一人旅である。
 人の往来が多く、情報も日々更新される王都ローグレスを根城にしてしばらく経つが、その業故か眉唾の情報を掴まされてばかりいた。

(ここも、ハズレだな)

 アイゼンは独り言ちる。
 ローグレスで古くより名を受け継ぐランバート家、その大層立派な邸宅に彼はお邪魔していた。勿論招待などされているはずもない。……人の目に見えない存在というのはときに便利なものである。
 ランバート家の歴史はそこそこに古く、現在の王家であるアスガードがウェイストランド統一を成す際、その一助となったとして貴族称号を得た一族だ。初代のランバートは聖隷を従えない退魔の力「呪術」を扱う呪術師であったらしい。

 聖主信仰も失われつつあるいま、その呪術を受け継ぐものがいるようには思えない。それでも先祖の残した文献など、なにかの手がかりは残されている可能性はある。そう思い、こうして忍び込んだのだが。

(ひどい穢れだ)
 広大な屋敷を守る民兵、忙しく働く侍従……目に入るおよその人間は全て業魔化していた。それでもある種の均衡が保たれているのか、屋敷としての機能はギリギリ保たれているようだった。
 敷地全体に広がる穢れに顔を顰めながらアイゼンは思案する。この様子ではここが滅びるのは時間の問題だろう。アイゼンは人の業魔化を留める方法を持っていないし、そもそもここの人間を助ける義理もない。憐れではあるがそれがこの世界の仕組みだった。これほどの穢れはアイゼン自身にとっても猛毒だ。さっさと立ち去ってしまおう、と元来た道を引き返すことにする。

「──ええ、父さま」
 不意に彼の耳に微かな声が届く。鈴が転がるような清らかな声だった。その音色に導かれるまま、廊下を進んでいくと信じられないものがそこにあった。

 ──少年だ。線の細い子どもが業魔と対面して会話を交わしている。どういうわけか、不浄な気が蔓延するこの屋敷にいながら少年だけは未だ人の形を保っているらしい。それはまさに奇跡的なことだったが、だからこそ一層憐れでもあった。霊応力のない彼には家人が全て業魔になっていても、それが分からないのだ。一度業魔に転じてしまえば戻る術などないというのに。

 その態度と風貌から判断するに、少年はこの屋敷の子息なのだろう。故郷に残してきたアイゼンの妹よりも背丈は小さい。聖隷である妹とは異なり、人間の年齢で言えばまだ生まれてからせいぜい5、6年といったところだろう。幾千年の単位で生きるアイゼンら聖隷にとっては赤子同然だ。

 業魔の付き人を下がらせて、しっかりとした足取りで少年が踵を返す。
 アイゼンはその背を追った。大柄な彼が数歩足を動かしただけで、すぐ少年の背に追いついてしまう。あまりに小さい歩幅だ。
 その歩幅が妹を思わせたからだろうか、アイゼンは人間の形を保ったその存在に妙に惹かれているのを自覚していた。
 こちらに気づくはずもない少年の歩みは、どこか招き入れるような振る舞いで大廊下の突き当たり、地下へと降る階段を降りた先のひっそりと佇む扉の前へ向かっていった。

(ほう……、これは)
 その部屋の中を見て、アイゼンは舌を巻く。
 四方の壁にずらりと敷き詰められた本の数々。書斎というには大きすぎる規模の蔵書はプライベートな図書館とでもいうべきか。軽く背表紙を眺めただけでも様々な年代の本が収まっていることが分かる。思わずアイゼンが目を奪われていると少年は慣れた手つきで扉の内鍵を閉めてしまった。
 アイゼンとて実体のない幽霊とは違うので、鍵くらいは自分で開けられる。しかしそれをやってしまうと、聖隷が見えない人間の目にはひとりでに扉が開くという心霊現象に映ってしまうだろう。無用な騒ぎは起こすべきではない。そう判断したアイゼンはしばらく少年の動きを待ってみることにした。
 それにここならアイゼンの「呪い」に関する手がかりがあるかもしれない。

(偶然とはいえ、このガキに感謝しねえとな)
 自分ひとりきりだと思っているであろう子どもは、いやに大人びた表情で机に向かっている。ひとりきりでいるときくらいは年齢相応の顔をすればいいものの、そんな様子は微塵もない。
 熱心に読書に勤しむ彼を一瞥し、アイゼンは蔵書をざっと見回す。上質な絨毯は踏みしめたところで靴音が響かないので存分に本棚の前を歩き回れた。

 本の量は膨大で、その日からアイゼンは日がな一日中書斎に入り浸った。
 思惑通り、呪いに関連する本が多い。古文書ともいえるほど年代の古いものも少なくはなかった。もともとアイゼンは知的探求心の旺盛な質だ。思うまま本を取りだし、ページをめくってそれが求めるものと違うことが分かっても、そのまま最後まで読み耽ってしまうこともしばしば。

 そんな生活を送る中、少年もほぼ毎日そこへやってきた。日が沈みきってから眠りに就く前の数時間は必ずここを訪れる。初日と同じく鍵を閉め、大人しく本のページをめくる。
 彼がやってくるとアイゼンの行動も自ずと制限されることになる。少年の目の前でポルターガイストを起こすわけにはいかない。そんなものだから、熱心なことは結構だがここまで毎日通うことないんじゃないか、など八つ当たりのように思ってしまう。

(まあ、勝手に入り浸ってるのは俺のほうなんだがな)
 すっかり自分の書斎であるかのような己自身に自嘲の笑みが沸く。

 と、同時に少年が顔を上げた。
今まで一度も文面から目を逸らすことはなかったのに、だ。

 どういうわけだか、少年の視線は寸分違わずアイゼンのいるほうに向けられていた。思わず背筋が伸びる。少年は横目で扉の方を一瞥すると持っている本の表紙をアイゼンのほうへ示してみせた。立派な装丁の本には見覚えがあった。それから数冊本を続けて取りだしてみせる。
(──なんてこった)
 何てことはない行動に思えるが、アイゼンには少年の意図がすぐに理解できた。彼が取りだしてみせる本は全てここ数日でアイゼンが手に取ったものだった。呆気に取られていると少年は悪戯が成功したときのような顔をして笑っていた。
 少年がなにげない仕草で本から金メッキ製の栞を手に取る。分厚いページ数のそれらには確かにそれと同じような意匠の栞がもれなく挟んであった。刻まれている紋章はおそらくはこの家の紋なのだろう。栞のひとつひとつにまでそんな刻印をするなんて大層なものだ、と思ったのを覚えている。無作為のページに挟まれているだけに思えたそれをまた無作為な場所に挟んでおいたのだが、どうやらそれが仇になったらしい。なんてこった。アイゼンは胸中でもう一度繰り返した。

「ようこそ。ここは気に入っていただけましたか?」
 少年が鈴鳴りのような声色で言葉を発した。明らかにこちら側に誰かいることが念頭に置かれた物言いだ。唖然としていると少年は小さな背を折ってお辞儀までしてみせる。

「僕はリュイ・ランバートです。あなたはかみさま……ですか?」