「もう我慢なりません」
初めに口火を切ったのはエレノアだった。
それは彼女が魔王御一行に同行するようになって、少し経った頃のことである。
聖寮から追われながらの旅は想像以上に不便なものだ。海賊を仲間に引き入れたことで海路の足はあるものの、街から街へ向かうためには基本的には陸路を使う。その間、山を森を道ならぬ道を抜けていくのだから当然野宿も必要になる。
一般的な対魔士であればサバイバルスキルだってお手の物なわけで、その辺りに関してエレノアには不満はない。問題はその生活の質だった。何しろまともな食事をもう数日は口にしていない。この食への無頓着ぶりは、そもそも人間とは異なり、必ずしもそれを必要としないメンバーが多いせいもあるだろう。
生活感が皆無であるマギルゥをさておくと、エレノアの頼みはリュイに託される。彼女から送られる視線の先で、当のリュイはというと、街で買い置いた簡易の保存食を都度消費しつつ飢えを凌ぐというサイクルを繰り返していた。携帯食料などいかにも縁がなさそうな彼はとくに何の感動もなくそれらを口にしている。彼にとってそれは最低限の補給に過ぎない行為で、食事の範疇にすら入っていないのだろう。エレノアも初めのうちは余計なことにまで気が回る余裕がなく、そのままその状況を受け入れていたが、本日ついに限界が訪れたのである。
「リュイ、缶詰ばかりでは栄養が偏りますよ! 貴方はもっと太ったって良いくらいなんですからね!」
突如エレノアに名指しされ、リュイはいままさに缶詰に手をつけようとしていたのを止める。エレノアの眼差しはリュイと、その傍らのアイゼン、ロクロウを行ったり来たりしている。彼女に悪意はなくとも、大柄な男たちと自分の体格を見比べられたのは明らかだった。リュイは無言で数歩男たちから距離をとった。
「そう保存食にばかり頼らずとも、川には魚がいますし探せば食べられるお肉だってあるはずです」
「お、なんだなんだ。エレノアがなんか作るのか?」
いち早く楽しげな予感を嗅ぎつけたロクロウが口を挟む。その暢気な顔を見て、エレノアはいっそう真面目な顔で、仁王立ちのまま言った。
「何を言うんですか! こういったものは平等に当番制にするものでしょう! ねえ、リュイ?」
「はあ……」
彼の場合、いままでは何かと甲斐甲斐しい部下たちがいたため食事に際して困った経験がない。つい気のない声を出したリュイの返事をさして気にする様子もなく、エレノアはすっかりやる気だ。
「そうと決まればさっそく順番を決めましょう」
「勝手に決めてんじゃないわよ」
そこまで沈黙を貫いていたベルベットがようやく口を開いた。エレノアの口振りは業魔も聖隷も例外なく、当然のように巻き込む勢いだ。味覚すら失ったベルベットにはもう人間だったころの感覚を思い出すことは難しい。いまはそんな些細な感慨よりも優先すべきものがたくさんある。エレノアの様子から察するに彼女はそれなりに料理に心得があるようだが、はたしてこのメンバーでまともな食事を作れる者が何人いるだろう。いくら喰魔の身といえど、見えている危険まで冒したくはない。
「確かに業魔になってからろくに料理してないから腕が鈍ってるかもしれんな」
「あんた、料理なんて繊細なことができるの?」
「応。魚を捌くのは得意だぞ」
「ほう、それは手並みを見てみたいもんだ」
「もう随分と魚以外のものを斬ってばかりだがな!」
ベルベットの心配をよそに、ロクロウはいつの間にか会話に入ってきたアイゼンを相手にからから笑っている。彼女の不安は募っていくばかりである。
「大丈夫、料理未経験者はしっかり経験者がサポートします!」
「あんた独裁者?」
結果から言うと、事態はベルベットが心配するほどの大事にはならなかった。
彼女も長年家族の食生活を任されてきた身だ。味覚をなくしたとしても作られたものの完成度くらいは分かる。包丁の持ち方すら覚束ないライフィセットはベルベットが手助けし、そもそもやる気のないマギルゥはエレノアがきっちり指導したおかげで事故は防がれた。エレノアの発案から数日が経ち、ようやく順番も一巡しようとするころに事件は起きてしまった。
「初めてのことでしたが、なんとか形に出来るものですね」
完成した大皿越しにリュイは満足げに微笑んだ。その穏やかな表情からは想像できないほど、彼が煮込み料理だと主張するそれは危険な見た目で一同を圧倒している。
まず不必要なほど丹念に煮込まれたせいで素材の姿は見る影もなく、ほとんど液体と化している。その得体の知れないエキスは一目見ただけで異様にどろどろとしているし、全体の紫色が本能的に食欲を減退させる仕上がりだ。
一番警戒すべきはこの世間知らずのお坊ちゃんだったのだ。ベルベットは引き攣った笑みを浮かべるエレノアを睨みつけた。
「エレノア、あんたがついててなんでこうなるのよ!」
「そ、それはその、彼は自信があるようでしたし、まさかこんな結果になるとは……」
手際だって初めてとは思えないくらい良かったんですよ!、とエレノア。そう、これがリュイの記念すべき処女作である。リュイの事前での口振りからそれを理解していたエレノアは買い出しから同行し、面倒見よく付き合っていたのだ。街の市場を眺めながらリュイは彼女に言った。
「昔、家の書庫でレシピを見つけて読んだことがあります」
「意外ですね。貴族の方も料理をするんですか」
彼の旧家が悲劇に見まわれたことはエレノアも知っている。その時のことを話題にするのは無神経なように思われたが、思い出を話すリュイの瞳は懐かしむようで、エレノアも穏やかな心持ちで耳を傾けた。
「いえ、家族が炊事をしていたのを見たことはありません。膨大な蔵書に紛れていただけかもしれませんが」
その真偽はいまとなってはわからない。しかし、だからこそ彼の初陣にこれほど相応しいものもないだろうとエレノアは思った。是非それを作るべきだ、と推したのは彼女だ。リュイの頭の隅にはレシピが詳細に記憶されているらしく、迷いなく食材は選びとられた。
「こういうのは儂の担当じゃろ。キャラ的に」
エレノアの回想をマギルゥの冷え切った声が遮る。彼女の言う通り、目の前の、ご親切にも全員分の量はしっかり用意されたそれは魔女がぐるぐるかき混ぜている汁に似ている。
「どうしてこうなるまで止められなかったのよ?」
「わ、私もそうは思いましたがご家族の思い出の品と言われるとあまり強く出れなくて……!」
その結果がこれである。一同の視線が再び謎のスープに向けられる。リュイは相変わらずちっとも悪びれず微笑んでいた。
「だからって……! 味見くらい教えなさいよ、初心者ならなおさら……」
「させました! させてこれなんです!」
ベルベットの詰りがいつになく正論だからこそ、エレノアの返事の音量は大きくなる。
「……いや、このスープはこれで正解なんだろう」
どうすんのこれ、という空気が漂う中、アイゼンが重々しく口を開いた。いつになく真剣な面持ちだ。たかがスープごときで。
「リュイ。その本、漢方学書とか書かれてなかったか」
「よくご存じですね。そうです」
的確な言葉に驚きながらもリュイはすんなりと答えた。漢方。つまりこれは。
「いや薬ではないかーい!!」
マギルゥの軽快な突っ込みがあがる。ランバート家は呪術師の家系だ。そんな家に収集されていた本が平凡なレシピ本であるはずがなかった。考えてみれば当然のことである。
「薬……? 元気なときに飲んでも大丈夫なの?」
賢いライフィセットが不安げな声をあげた。
「こういったものは薬膳というんです。健康体でもきっと効果てきめんですよ」
すかさず解説をいれるリュイの口振りは明るい。作るのが初めてでも、使われたそれぞれの野菜、薬草の効能はよく知っている。はやく効果が見たくてたまらないといった様子だ。味の方はしっかり承知のうえで考慮に入れてないらしいので性質が悪い。
「とにかく、食材を無駄にするわけにはいきませんね……」
どうやら勇気あるエレノアが先陣を切るようだ。リュイの暴走を止められなかった負い目もある。料理の工程の一部始終を思い返し、なにもおかしなものは入ってないはず、と己を勇気づける。取り分けられたスープを受け取り、スプーンでひと掬い。
「ウッ……!! にっ、苦いです! なんですかこれ!」
見た目の悍ましさのわりには人間の耐えられるレベルの苦みではあるようだ。だが、エレノアの苦手な食べ物はホウレン草である。植物ベースの苦みは彼女には酷だろう。仲間が苦しむさまを見てもリュイはにこやかな表情のままで言ってのける。
「よかった。良薬の証ですね」
「これで悪意がないのはバグじゃろこいつ!」
「苦みって体にいいの?」
「はい。いわゆる大人の味ですよ」
「大人の……!? 僕頑張って食べるよ!」
「ライフィセットに変なこと吹き込まないで!!」
「くぁーーー!! 苦すぎて腹が立ってきたわ! 小僧ちょっと殴らせろ!」
阿鼻叫喚のなか、リュイは記憶機能の良すぎる脳内で次の料理当番のために本のページをめくった。
◯リュイ特製薬膳スープ:味と仲間内からの信頼を引き換えに、それぞれのステータスをランダムに上昇させる。
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