──気持ちが昂ぶって仕方ない。
ここ一週間の出来事は俺の人生を大きく変えるものであり、俺の信じてきたものを根本から覆すものだった。
あまりに様々なことが起こりすぎたのだ。思考の処理が追いつかず、俺は奪い返した<サユリ>を眺めながら一日を過ごすようになっていた。過ごしながら、ふと思い出したように共犯者たちにチャットで状況報告をする。といっても報告できることはさほど多くない。斑目はあの日以来塞ぎこんでしまい、同じ家にいながら顔すら合わせていない状況だった。
そこまで考えて、俺はまた<サユリ>へ目を向ける。
事態がどうなるかはまだわからないが、間違いなく俺は斑目と袂を分かった。今後のことも考えていかねばなるまい。この<サユリ>をどうするかということも……。
携帯の振動音がなり、意識が浮上する。気付けば部屋は常闇に沈んでいた。いつの間にか夜になっていたようだ。
俺は瞼を二、三瞬かせ携帯を点ける。何時間も動かずにいたからだろう。たったそれだけの動作にひどく身体が軋んだ。ほぼ無意識にチャット画面を開くと、案の定着信は怪盗団からだ。だが着信マークが点いているのはグループチャットではなく個人チャット。怪盗団リーダーたる男から送られたメッセージには簡素な文章でこう綴られていた。
『祐介、メシは食ってるのか?』
指摘されて初めて空腹に気が付く。
個展が終わるまでにはまだ時間がある。全てを見届けるまで倒れるわけにはいかないだろう。手持ち金はまだ幾らか余裕があったはずだ。出来合いのものはあまり好かないが、そんなことは言っていられない。生きるためにひとまずなにか摂らねば。俺はこの顛末を見届けるのだ……、そう思うと脚を動かす気にもなれた。俺は財布ひとつ引っ掴んで気配なく静まり返ってしまった棲家を後にした。
斑目邸は住宅街の中にあるため、一番近いコンビニに向かうにも少し歩かなければならない。建て付けの悪い扉を引くと大袈裟な音をたてたが、それがよく手に馴染む。ずっとここが唯一の居場所だと、そう思い込んで生きてきた。あの歪みきったパレスを見たあとではこの慣れた棲家がどことなく異様なものへと変質してしまったようにさえ思える。なるほど認知の歪みというのは怖ろしい。
鼻から呼吸が漏れる。それは自嘲の笑みだった。
(大丈夫だ。俺はまだ歩ける)
駅に近いとはいえ、この辺りは静かだ。ここから更に何本か通りを抜ければいつものような喧騒があるのだろう。勿論そちらへは向かわず、ぽつんと明かりを灯した店に向かう。白色の人工的な光が目に痛い。車を停めるようなスペースすらない小さなコンビニの扉まで歩を進めるとそこに落ちている物体に気が付く。
正確には扉の前ではなく、電灯を避けた暗がりに、なにかが。
──僅かな心境の変化だ。
精神も肉体も疲弊している自覚はある。不必要な情報などに割く余力はない。以前の俺であれば、まずその存在が視界に入ることすらなかっただろう。そう、怪盗団の連中に出会う前の俺ならば。だが俺の足は目的の扉を遠ざけ、暗がりの方へ向く。
ごみでも野良猫でもない。もっと大きな背が蹲っている。それは人間だった。
「おい、大丈夫か」
声をかけても反応がない。となると次はより強い刺激を与えるしかない。
路上に膝をつくのも構わず、蹲る肩に手をやる。促されるまま男が顔を上げる。カチリ、目が合った。
あ、と出た間抜けな声は果たしてどちらの喉から発せられただろうか。
その瞳が俺から当初の目的を奪い去ってしまった。空腹もすっ飛ぶほど鮮烈に胸を刺す。男は眼をどこか虚ろにさせながら、それでもまっすぐに俺を見つめ返していた。
歳は二十代半ばといったところか。所々よれたスーツ、赤く滲む口の端。何があったかは分からないが、それが人為的な外傷であることはすぐに察せられた。
「警察を呼ぶか?」
問うと男は一度だけ首を横に振った。言っておきながら自分が携帯を持ってきていないことに気付き、俺は男が自分の提案を否定してくれたことに胸を撫で下ろす。そんな心中など知らないだろう男は促されるまま俺の肩に身を預け立ち上がった。
都会の空はただ暗く、街灯だけがうすぼんやりと俺たちを照らしていた。
意識が急速に浮上し、目を開く。ギシリ、と軋むスプリングの感覚が慣れず、何度か瞼を閉めたり開けたりする。一体ここは。
「……どこだ?」
浮かんだ疑問をそのまま口に出すと視界の端の気配が笑った。
「おはよう」
見慣れない男が立っている。
いや、よく見れば昨夜拾った男だ。スーツを脱ぎ、だいぶラフな部屋着姿になった男は雰囲気も柔和に微笑を浮かべる。確か昨夜は身に着けていなかったはずの眼鏡をかけている姿は完全に在宅モードといった風体だ。混乱しつつも観察していると、こちらの動揺など分かり切ったように男は言葉を続けた。
「その、なんだ。いろいろとあるが……、まずは礼を言わせてくれ」
──ありがとう。
単純な言葉はすんなりと耳に届く。男の声は不思議と耳触りがよく警戒心を抱かせない。偶然知り合っただけの名も知らない人間であるにもかかわらずだ。
それだけではない。どうやら自分は見知らぬ男のテリトリーで眠っていたらしい。上半身だけで起き上がると貧血のようなふらつきが襲った。そういえばしっかり眠れたのはいつ以来だったろう。
不明瞭な記憶を漁っても昨日のことはうまく思い出せない。自分が寝かしつけられていたベッドは男一人分の広さしかなく、布団の乱れ方から察するに昨晩ここに入ったのは俺だけのようだった。怪我人を運んできておきながら、家主を放って堂々と眠りこけるとは我ながらたいした度胸である。
「どうぞ、恩人くん」
おおざっぱに状況を理解した俺に家主はカップを差し出す。状況を飲み込むと今度は腹の奥がキュウ、と悲鳴を上げる。そうだ。確か昨晩は何か食べようとして外に出たのではなかったか。一晩眠って緊張がほぐれたからか、無性に腹が減ってきた。
「恩に着る」
「おいおい、それじゃ立場が逆転しちまうよ」
所在なく、ベッドに腰かけたまま手渡されたものをいただくことにする。中身はコーヒーだった。牛乳が多分に含まれたそれは男の大人っぽい雰囲気からは離れているように思えたが、いまはこの柔らかさが胃に染みる。コーヒーの飲み方にはもとよりこだわりはない。
家主は踵を返し、また一定の距離を取る。さりげない行動だがその仕草からはこちらに気を遣っていることが窺えた。相手にしてみても自分が見知らぬ人間であることは同じだ。
その背中を目で追いながら部屋全体を見渡す。最低限のもののみで構成された簡素な部屋はいかにも男の一人暮らしといったところか。それに先ほどから仄かに香って胃袋を刺激するこの匂いは。
「……パンの焼けた匂いだ」
「食うか?」
「いただこう」
反射的に即答で返すと男はどこか安堵したように破顔した。しかし昨日拵えた傷が痛んだのだろう、上手く笑みを作ることができず失敗する。昨晩隔てるものがなかった瞳は眼鏡のフレームが邪魔をしてよく見えない。
促されるまま連れられるとそこには朝食一式が整然と並べられていた。今しがた焼きあがったばかりのトーストに、ベーコンエッグ。ささやかながらサラダまでついている。机に並べられたのはどう見積もっても二人分だ。向かい合わせに配置された皿。栄養価の高そうな食卓に俺は感動しきる。
「これは……、健康食だな」
「なんだ? 普段野菜食ってないのか」
まあ若いうちはそんなもんかもな、そう苦笑しながら男はさっさと着席してしまう。
「どうぞ。簡単なもんだけど」
「いや、トーストなど久方ぶりだ」
素直な返事を返すと向かいの顔は奇妙そうな造形を作ったが、すぐに元に戻る。バター、マーガリン、蜂蜜の瓶が等間隔に並んでいるさまを見定めながらカップを傾ける。
「冷めるぞ」
家主に簡単な言葉で促され、俺も食事に取り掛かる。こんなにしっかりした食事はここ数週間摂っていない。
──昨夜男を拾ってからというもの、予想外の展開ばかり起こっている。
見知らぬ男の家で一晩眠り、こうして朝食まで相伴に与るとはなかなかに稀有な体験ではないだろうか。そうは思うものの、ここ最近は予想外のことが起こりすぎているのでこの程度のことでは驚かない自分もいる。無言で飯を食らう俺に構わず、男は落ち着いた様子でテレビなど点けている。知らない奴なのに、歳だって離れているのに、名前すら聞いていないのに。俺たちの間に流れる空気は妙に自然だった。
何故こうも居心地がよいものか。
視界の隅で朝のニュースが誰かの不祥事を報じている。それを見て俺はやっとここが現実であることを思い出した気がする。
(そうだ、この男が俺のことを何も知らないから)
俺は疲弊していた。絶望はない。あの気のいい仲間たちから、抗うための力を与えられたのだから。しかし長年斑目の支配下にあった己は自分が思っている以上に脆かったらしい。現に部屋に籠りきりで食事すらままならなかった。なにより堪えたのは絵に筆が乗らなくなってしまったことだった。色をひとつ乗せるだけでも思うようにいかない。手を動かすより先に邪魔な思考が立ってしまう。こんな経験はいままで味わったことがなかった。
そのときひとつの考えが頭を過った。
ここで俺が名乗らなければ、この男は俺が何者であるか知ることはないだろう。斑目の弟子である自分。真っ直ぐに芸術と向き合うことができなくなった自分……。たった一時でもそこから逃れることはひどく魅力的だった。
男と目が合う。
いつの間にか俺は男の方を凝視していたらしい。不意に衝動が生じる。それは喉から出ていき、形を成した。
「祐介だ」
目の前の瞳は驚いたようにこちらを見る。昨夜目が合ったときを思い出す。確かあの時も衝動的な何かが生じた気がする。男の瞳は色素が薄いらしく、珍しい色で光る。
「名前?」
「ああ。喜多川祐介だ」
俺が男に告げたのは己の名前。それだけ。それだけ伝われば十分だろうと思えた。男は一度目線を外し、何か考えたようだった。それが何であるか汲み取るより先に視線が戻ってくる。
「兎田十眞。よろしく」
男からは俺が渡したのと同じ分だけの情報量が返ってきた。それが律儀にも思え、誠実なやつなのだろうな、という印象を濃くする。
このとき、俺は兎田十眞という男との出会いに何か期待をしていたのだろうと思う。
それゆえに目の前の彼にばかり気を取られ、せっかくの栄養食をあまり味わうことができなかったのは惜しいことだった。
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