大手検索エンジン曰く、子どもの噛み癖は精神的な欲求不満が原因である可能性があるのだと言う。
俺は長椅子に腰掛けながら何とはなしに自分の首筋に触れた。くっきりと残されていた歯型は数日かけて、もう跡形もなく消えていた。ようやく緩めることが可能になったネクタイを、しかし勤務中であるいまはおとなしく定位置に戻す。
検索してヒットした記事をぼんやりと読み進めてから思う。……これ対幼児向けの内容だな?
「……十眞さん、お子さんいるんですか?」
「うお、」
すると、厭に訝しげな含みで少年の軽やかな声が俺の思考に割って入ってきた。現役高校生探偵明智吾郎はその目立つ外見とは裏腹になかなかに神出鬼没だった。芸能人顔負けの風貌で、探偵なんて地味な仕事が成立するのかと常々疑問だったが、このスニーキング技術があればそれも可能なのかもしれない。
だが職業が何にせよ、断りもなく他人の携帯画面を覗き込むのは褒められたことではない。
俺は投げかけられた問いに敢えて応えず、携帯を懐にしまった。まさか、自分と同年代の少年から強引な接触を図られたことなど、露ほども明智少年には知られるわけにいかない。
「君が現れるタイミングが、どうも俺には読めないな」
「探偵にとっては褒め言葉ですね、それ」
俺の率直な感想に、明智少年は冗談めかして笑った。メディアでもお決まりの笑顔は物事を煙に巻く手段にもなっている。ついさっきスタジオで見かけたばかりの表情だ。
──悪人の心を“更生”させてくれる怪盗団がいる。
そんな噂話はいつのまにか日に日に大きくなり、ついにはテレビで特集番組まで組まれるようになった。子供たちの間で広まるだけならまだしも、大の大人が大真面目に──その大半は半信半疑であろうが──怪盗団なるものに対して是非を論じ合っているのはあまりに現実味がないことだった。
「では、怪盗は単なる出まかせだと?」
「そう呼ばれてるもの自体はあるだろうさ、こうも証拠が出てればな」
怪盗、と自らを称するだけあってか、何者かはご丁寧に予告状なんてものまで現場に残すらしい。実際に見たことはないが、今日の討論でもその存在は指摘されていた。自己顕示欲のお高いことである。あるいは、世の中への警鐘のつもりだろうか。
実際、各メディアの動きも怪盗団の実在にああだこうだ述べては、詰まるところ「いまの若者は社会に絶望している」だのと、社会不安の煽りや現政権への攻撃手段にしたいだけなのだ。
「そういうの、若い連中にも見透かされると思うけどな」
「まさにさっきまでそういう番組に出ていた身としてはなかなかにコメントしづらいです」
「そうだな、君には立場があった。いまのは忘れてくれ」
つい、祐介なら大人の欺瞞などすぐに見抜いてしまいそうだな、と思ったのだ。ただの一般高校生である彼と明智くんでは立場が違う。意図しないところで意地の悪い言い方になってしまったことを反省する。
それはそうと。そうだ、祐介だ。日常にかまけて、先送りにしていた問題を思い出す。多少重たい気持ちになり、俺は雑談もそこそこに立ち上がり、その場を後にしようとする。
「あの。まだ僕の質問に対する答えをいただいてないんですけど?」
ああ、忘れていた。てっきりその場の話の取っ掛かり程度のことだと思っていたんだが、明智くんからするとそうでもないらしい。しかしこれは勝手に他人の詮索をしようとした彼に対する小さな意趣返しでもあるのだ。
「身辺調査は手慣れたもんだろう」
探偵だもんな、と彼自身の台詞から引用してそう言った。結婚歴だってないのだから、少し考えればわかることだ。隠すほどの情報でもない。この場で解答を得られなかったことが意外だったのか、明智くんは閉口する。
「……簡単に言いますけど、何も趣味でやっているわけじゃありませんよ。僕だってプロなんですから」
だが黙り込んだのはほんの一瞬で、そこからはすぐに攻勢に転じてみせる。あからさまな苛立ちさえ滲む言葉節からは彼の隠れた気の強さが窺えた。
彼の言うことはもっともだ。いまや売れっ子探偵である彼に仕事を依頼するなら然るべき手続きを踏んだところで何ヶ月待ちになることやら。あまりにもっともなので、誰にだって分かることだろう。俺の身辺なんぞにかまけている暇なんて明智吾郎にはないということが。彼ほど多忙な人物が目的もなく俺の前に現れるのは、やっぱりどう考えようと不自然なことだった。
ついでにこれ以上俺のことには構わないでいてくれると有り難い。まだ何か言いたげな彼を残して俺は無事その場から脱した。
さて、あの一件以来、祐介からの連絡は途絶え続けている。
そのことに俺はむしろ漠然とした安堵を感じていた。ぱっと見の繊細な印象からは想像がつかないほどに、祐介は一直線の猪突猛進型だ。そんな彼でもあれだけのことをすれば流石に気まずくなったりするんだな、と。この安堵はそういった類の感心なのだ。
まあ、人のことを襲っておきながら臆面もないようでは困るが……。そこまで考えて俺はようやく自覚に至る。
(……襲われたのか、俺……)
その事実は俺を愕然とさせた。あまりに想定外すぎて、実感がわかないままだったのも仕方がないことだと思う。
(だって、俺と祐介だぞ。)
どこをどう取っても俺があいつに組み敷かれる謂われはないように思われる。
再三言うが、祐介は一直線の男だ。しかしそれはけして理性的でない、というのではない。ただ真面目すぎるのだ。あれはきっと真剣に考えて考えた末によく分からない方向に舵を切ってしまうタイプだ。
祐介の抱えている想いが何であれ、はっきりした落としどころを示してやらなければならない。中途半端ないまの状況では、祐介は俺との関係について飽きもせずに悩み続けることだろう。こう言うと自惚れのように聞こえてしまうかもしれないが、そうではない。俺がどうこうというよりは彼自身の性質の話だ。あいつはきっと自分の中に沸いた疑問をそのままにできない。
こんなことに男子高生の貴重な時間を無為に費やすことはないんだ。数日経って多少頭も冷えたことだろう。スケジュールと照らし合わせながら、俺は祐介にメッセージを送ることにした。少しも誤解を与えないように話をするには会ってやり取りするのが一番だろう。
しかし、曲がりなりにもこちらは一方的に襲われた身である。そんなことがあったのに何も対策を打たないというのも癪だ。敢えて予防線の一つくらいは見せておいた方がいいだろう。
送った文面に、俺は『外で会おう』と付け加えた。
6/18(夕)
大まかな時間と集合場所のみで落ち合うことができるのは現代の強みだ。奇しくも休日の午後。渋谷は人の往来で溢れている。
別に直接会えれば場所はどこでも良かったんだが、一定の心的距離を保ったまま話すには、気兼ねない場のほうがいい。互いの行動圏でありながら中立的な場所。渋谷を指定したのはどちらともなくだった。
さて、連絡でも取るかとポケットに入れたままの携帯に触れたところで、景色の中に見慣れた姿を見つける。
驚くほどに縦に伸びた作りの身体は、人垣のほうを眺めてなにやら忙しなく立ち位置を変えている。平均より大きな背丈と、独特の動きがあるせいで目に留まりやすい。何事かに夢中になっている様子の彼に、声をかけるのは憚られた。しかし横目で確認した時計盤は待ち合わせの時間を示しているので、俺は思い切ってその人物に接近を試みる。
「祐介」
名前を呼ぶと、祐介の身体は大袈裟な反応を見せた。
「十眞!」
指で囲いこんだ四角形の中から祐介と目が合う。祐介の取っているポーズはいわゆる、構図を切る、というやつだった。絵描きや写真家が同じポーズを取っているのを見たことがある。
物珍しさに思わず、じっと見てしまうと咎められているとでも思ったのか、祐介は顔の前の四角を早々に取り払った。いつも通りの憂い顔が現れる。
「あっ、その。もう傷はいいのか……?」
「流石にな」
祐介がまず目を向けたのはしばらく噛み跡が残されていた俺の首もとだった。俺からすればそれは傷とも言えないほどの跡だったが……、なかなか消えなかったことからそれなりの力で噛み付かれたのは察せられるので敢えてフォローは入れてやらない。
「あの時はどうかしていた。本当に、すまない」
俯きながら祐介はそう言った。人混みの中でも聞こえるはきはきとした声だ。
「それでもまたこうして会ってくれて嬉しい。有難う、十眞」
そう言って、祐介は後悔と喜びが綯交ぜになった表情を浮かべた。いや、こうして見る限りでは、どうやら喜びのほうが大きいようだ。
(まあ、いつまでも気に病んでいてほしいわけじゃないからな……)
勿論、反省は十分してもらいたいんだが。しかし、こうも喜びをあらわにされると、如何ともしがたい。それ以上何も言わなくなってしまった俺に、祐介は構わず言葉を続けた。
「どこか行きたい場所はあるのか?」
と、その口振りに微妙な違和感を覚えたのは確かだ。駅前は相変わらず人でごった返している。いつまでも人の往来で留まっているわけにもいかない。ゆっくり腰を据えて話せる場所が必要だろう。
「いや、特には……」
「ならば俺に任せてくれ」
祐介の様子はいつになく張り切っているようにも見える。
思えば、この時沸いて出た違和感をもっと意識するべきだったのだ。連れられるままにたどり着いた場所に、唖然としながら俺は思う。
繁華街とは一線を画した場所に建つ複合施設。その中に収まるプラネタリウムの受付前に俺たちは立っていた。
「……イメージ通りというか、そういう種類の納得はあるんだが」
祐介とプラネタリウムの組み合わせには一切違和感がない。ポスターに目を輝かせているのを見ても、ああ、そういうの好きそうだもんな。と納得できる。それは良い。だが、何故、いま、ここ?
「これはあれだな。きっと齟齬があるな」
「ちょうど上映が始まるところだな、タイミングが良かった」
いや、だから、話聞け?
どうも祐介の様子から察するに、今日の目的が相手には全く伝わっていないようだ。ほら、だから直接会って話さないと誤解が生まれると思った通りだったろう。いや、でもまさか落ち合う時点で既に食い違いが発生してるだなんて。
「祐介、なんか誤解させたようでそれは悪かったんだが」
「誤解?」
祐介は喜びでいっぱいといった様子で、そんなネガティブな言葉を耳にしても上向いた機嫌は全く降下する気配すらない。分かりやすく浮かれている。なんだ。何がそんなに嬉しいんだお前は。
「それは、十眞から誘ってもらったのが初めてだったから」
少し口の中でもごもごとさせる発音の仕方は彼にしては珍しく、普段の憮然とした態度からは想像できないほどあどけなく、子供っぽい。祐介はそれがまるでとてつもなく素敵で、素晴らしいことであるかのように語った。
しかし、それが誤解なのだ。ただ俺はお前とは一度しっかり話をつけるべきだと。外を指定したのも警戒心があったからで、人目のある場所でおかしなことはしないだろう、と判断したからなのだ。それを。
(こいつ、デートかなにかだと思っている……!?)
いや、ここに来るまで気付かずのこのこ入っていった俺も俺なんだが!
「じゃあなんだ、俺たちがいままで会ってたのはあれか、家デートか?」
「そうか。そうなるな!」
いまのは完全に失言で、自棄っぱちの言葉は祐介を喜ばせるだけだった。
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