照明が落とされて、しばらく経てば夜目が利くようになってくる。一切の暗闇から徐々に輪郭が明らかになっていくこの感覚が俺は好きだった。
視界一面に再現された星空の中、彼の顔がすぐ真隣にある。ちらりとその造形を盗み見るといつもは伏し目がちな睫毛が宙を眺めているのが目についた。意外にも、このアングルで彼を眺めたことがなかったことに気付く。
ここ数日間の苦悩を思えばいまこうして十眞と星を眺めていられることが一層尊いことに思え、俺は静かにあの屋根裏でのやり取りを思い返していた。
「……やってしまった」
そう項垂れる俺に、家主は言葉を投げかけた。
「当たって砕けたか?」
メメントス調査のあと、リーダーである彼から声をかけられた俺は暁、モルガナとともに彼の住まいである屋根裏を訪れていた。
その日のメメントス調査は散々だった。新たに開かれた階層へ向かうにも関わらず、心ここに在らずだったのは俺の落ち度だ。襲いくるシャドウに反応が間に合わず、仲間への援護が遅れた。いつも通りにやれたなら、今日はもう少し先まで攻略を進められたはずだ。
「アン殿を怖がらせるなんて不届き者め!」
ぬいぐるみめいた二等身から、なんの変哲も無い猫に姿を変えたモルガナがにゃうにゃう叫ぶ。
何度めかの戦いのあと、杏が呟いたのは『祐介、何かあったなら相談乗ろっか……?』という台詞だった。どうやら杏には俺が思い悩んでいることが筒抜けだったらしい。彼女は何故か俺から一定の距離を取っていたが、その声色はこちらを気遣うものだった。
「俺が仲間を怖がらせるわけがないだろう」
「いやコエーから! ずーっと溜め息ついたりブツブツなんか言ってたらコエーから!」
モルガナとはこうして時々言い合うことがあるが、猫に捲し立てられる絵面の奇妙さはなかなか拭えないものだ。そんな俺たちの間に暁が割って入る。一丁前に言い合いをしていてもいまのモルガナは猫姿だ。前脚の間に暁が手を入れれば簡単に抱え上げられてしまう。
「例の相手と進展があったんだろ?」
当たって砕けたか?、とまた同じ言葉を繰り返す。
「……ひとまず、自分の気持ちの所在についてはよく分かった」
俺のたどたどしい報告を暁は頷きながら聞いている。
「で、相手の反応は?」
促されるまま、あの時の十眞の様子を思い出す。手に触れた体温。目を大きくしてこちらを見る瞳。そこに俺が映り込んでいる。彼にまっすぐ見つめられていることがわかり、それが俺に高揚を齎らす。だが。
「拒まれてしまった……」
覚醒しきったあとの十眞の拒絶はそれはもう全力のものだった。投げ飛ばされた際の鮮やかな手並みを語って聞かせる。
「そうか。屈強な相手だな」
そうだ。十眞は強い。しかし彼の肉体は強かなだけではない。突き立てた歯の感触を思い出し、俺は口を噤んだ。暁にそれを知られてしまうのはどことなく、もったいないことのような気がしたのだ。
「でもまあ、キスでそこまで本気の抵抗をされるのは確かに脈なしかなあ」
脈なし。抜き身の言葉が俺に突き刺さる。俺は十眞に拒絶されてしまったのだ。その事実がずん、と心を重くさせた。
「それに……、キスはできなかったのだ」
俺のさらなる告白に、暁は首を傾げる。そうだ、俺は当初の目的すら全く果たせなかった。それを暁は知らないのだ。
「寝ているところをつい、だな。目の前にある首筋にな。こう、ガッと……」
俺は身振り手振りでその時の状況を伝える。しかし改めて言葉にするとあまりにもひどい。安易に人に噛み付くことはモルガナだってしないだろう。
「一緒にすんなケダモノー!!」
モルガナが憤慨の声をあげる。四つ足姿にケダモノ呼ばわりされることには多少思うところがあったが、今の俺に言い返す権利はない。
「そうだぞ。モルガナは家で爪研ぎだってしないんだ」
「猫じゃねえからトーゼンだろ!?」
それは出会ってから変わらず一貫している彼の主張だ。それを聞き届けてから、暁は神妙な面持ちで告げた。
「とにかく、それはその場で絶交されなかったのが奇跡のレベルだぞ」
「なんと」
「俺だってモルガナに噛み付かれたらと思うとつらい」
「しねーけどな! ワガハイはケダモノじゃねえからな!」
絶交、と言う言葉が頭にのしかかる。それはまずい。それだけは避けなければならない。いやしかし、連絡の途絶えてしまったこの状況はすでに絶交状態といえるのではないか?そう思い至ると巨大な不安が胸を占める。俺は一体どうすれば。
とにかくいまは落ち込んでいる場合ではない。早々に何か対策を打たなければ。
「……十眞からだ」
縋る想いで携帯を開くと、なんと液晶は十眞からのメッセージ受信を告げていた。連絡を取るのはいつも俺からで、まさか彼から着信があるなんて思いもよらない。それもあんなことがあった後に。
信じがたい気持ちでアプリを開く。恐る恐る文面を確認すると、そこには。
「何て書いてあった?」
暁に訊ねられるまま、俺は応えた。
「外で会いたい、と……」
十眞の言葉は簡潔だった。瞬間、俺はあれほどのしかかっていた不安の存在を忘れた。あの一件で即絶交されたわけではなかったことへの安堵と、確かな期待。
これは。つまり。
「デートがしたい、という申し出では?」
「………………そうかもな」
半信半疑の俺の結論に、たっぷり間を開けてから暁が頷いた。
我らがリーダーから太鼓判を押されては間違いはあるまい。俺はこの世のあらゆるものに感謝を告げたいような気持ちになった。
「そうか、ふふ、そうか……! 有り難う暁、モルガナも。邪魔をしたな!」
こうしてはいられない。俺は行きより随分と軽快な足取りで屋根裏を後にした。
「あいつ勝手に立ち直って出ていったな……」
「恋は急に止まれないからなあ」
思うほど、あんなことをしでかした俺に対する十眞の懐の深さには感服するばかりだ。
渋谷の駅前で再会するとその有り難みは増すばかりで、なにしろ外光の中で見る私服姿の十眞は俺には眩しすぎるほどだった。いつものスーツや部屋着も好きだが、私服で落ち合うというのはいかにもデートという趣きがあっていい。とてもいい。こうしてカジュアルな服に身を包むと大人でありながらも若い男なのだ、という認識を改めさせられる。
思わず上から下から眺めてしまうとこちらを見つめる瞳と目があってしまう。じろじろ眺める俺を咎めるわけでもなく、急かすでもなく俺の出方を待っている。正直、十眞という男の鑑賞であれば時間の許されるまでいくらでも出来るのだが、いつまでもここで立ち止まっているわけにもいかないだろう。
会話をしながら、深めの襟ぐりから覗く首筋が目に入る。もうすっかりなくなってしまった噛み跡をどことなく惜しむ気持ちになってしまうのを、頭の中のモルガナが「ケダモノ!」と叫んで糾弾した。
俺の希望で訪れたプラネタリウムだったが、そんなことを考えているうちに上映は終わってしまった。辺りが少しずつ明るくなると十眞もゆっくりと椅子のリクライニングを元へ戻す。
「楽しめただろうか?」
「え、ああ。そうだな。こういうところ入るのは初めてだし」
俺の問いかけに応えつつ、十眞はどこか物珍しげに投影機に視線を向けている。初めて。十眞の口からそんな言葉が出てくるのは意外だと思った。何しろ彼は歳上で、彼の振る舞いの端々から感じられる豊富な経験差は無視できるようなものではなかったからだ。そうか。十眞は初めてか。それは胸中で反芻するほどなんだかこそばゆい言葉の響きだった。
俺が得もいわれぬ感情に襲われているなか、十眞は無言のまま席を立ち、顔を俯かせた。何事か考え込むような仕草に、俺は彼からの次の言葉を待つ。
「場所を変えよう」
どこか意を決したような面持ちで彼は言った。
外へ出ると、あたりは日が翳りゆく最中といった様子だった。夏が近づいているとはいえ、ごちゃごちゃと建物が連なる都会では日が沈むのは早い。十眞を連れ出したこの辺りは街の喧騒からは何本か通りを超えた場所にある。少し歩いた先で小さな公園にたどり着いた。ベンチとバネ式遊具が置いてあるだけのささやかな作りだ。
先を歩く十眞の足取りには迷いがなく、向かう道すがらで見たのを記憶していたのだろうなと思う。
十眞は入り口近くの自販機で缶コーヒーを買うとそのうち一つを俺に差し出した。それからベンチへ腰を預けるのを見て、俺もそれに倣う。木製の二人掛けのものだ。体ごと真横を向き、俺は十眞を見る。そんな俺の視線に敢えて応えず、彼は購入したばかりのコーヒーのプルタブを開けた。
「改めて聞くが、俺はお前にとって恋愛対象になるんだな?」
それは唐突に、核心を突く言葉だった。いままでの俺であれば狼狽えていたかもしれない。だが、もう俺は自分の心が分かっていた。問われれば応えねばなるまい。
「ああ。俺は十眞が好きだ」
それは彼への想いを自覚してからというもの、初めて口に出した言葉だ。その割にすんなり形になるので拍子抜けするほどだった。むしろ何度でも言ってやりたい。飴玉を口の中で転がしているかのような甘やかな言葉だった。
しかしここで終わってはただの自己満足だ。俺は外気との気温差で汗をかき始めている缶コーヒーをぎゅっと握る。
「……十眞も俺のことを憎からず思っているはずだ」
はず、というか、これは俺の希望だった。だが、全く根拠のないことではない。彼とのやり取りにはいつも温もりがあった。それは彼からの俺への情に他ならないだろう。十眞は善人だし、気が遣える男だ。それでも彼から受けた暖かさは万人に向けられるようなものではないと思う。そうなら良い、と。
「間違っているだろうか……?」
知らず、問う声が微かに震えた。
「あのな……、」
「ああ」
やっと聞こえた彼の声に期待して、上半身ごと彼の顔を覗き込む。それが良くなかったのか、俺と目が会うなり、ようやく出てきた声は再び喉の奥に引っ込んでしまったらしかった。こちらを向いた十眞の瞳が一瞬だけ、きらっと光る。斜陽が反射したのだ。ああ、日が沈む。
逸る気持ちを押し込め、十眞の次の言葉を待つ。
「そりゃ、お前のことは好きだよ。勿論」
──ズドン。
搾り出すかのような声が確かに俺の耳に届く。届くや否や、得体の知れない衝撃が胸のあたりを襲う。例えるならば重みのある何かで思い切り殴りつけられたかのような衝撃だった。しかし、それを上回って余りある幸福感。神よ、有難う。いや、いまは神よりも目の前の彼だ。まず彼にこの喜びを伝えるべきだ。
「十眞!」
「人として、な。でもそれ以上はない。それ以上は駄目だ」
感極まって喜びの声をあげる俺を、他ならぬ彼の言葉が釘刺しした。十眞は僅かに眉間を狭め、真面目な顔を作る。そういう顔つきも絵になる。好きだ。……好きなのに、好かれているのに、これ以上はないなどと切り捨てられてしまうのか。
「なぜだ?」
「いや、分かれよ……、お前とどうこうってのは普通にお縄だろうが……」
十眞の言っていることはおよそ真っ当だ。
なんてことだ。よりによって法が俺の邪魔をするのか。愕然とする俺の隣で十眞は更に弁を続ける。
「だいたい、お前は俺のことなんてほとんど知らないようなもんだろう。俺が本当にお前が思ってるような男である保証はあるのか?」
彼の言い振りは分かりやすくこちらを突き放すものだった。──しかしここで退いてなるものか。
牽制の目を向ける彼の眼前にずいと片腕を突き出す。手の中には当然、彼から貰ったばかりのコーヒーがある。俺の行動に、さっきまで険しい形を作っていた十眞は表情を驚きに歪めた。彼が静止しないのをいいことに、俺は力任せに飲み口を開けるとその中身を一気に飲み干してみせた。彼が選んだのは糖分がふんだんに含まれたカフェオレで、苦々しい想いも全てまとめて嚥下していく。限界まで傾けた缶を脇に置いてから、俺は思いの丈を吐き出した。
「さっき十眞は、俺にもコーヒーを買って寄越したな。お前はそれを当然のように行なえる男だ。そこに打算があるか? 偽りがあるか?」
十眞にとって、きっとそんなことは些細なことなのだろう。だが出会ったばかりの頃、俺の心からの救援信号に応えたくれたことも、いま俺のために頭を悩ませて言葉を探しているところも。
彼の言う通り、彼にはまだ俺の知らない部分がたくさんある。それでも俺は既にいくつも十眞の真実を知っているのだ。そして。
「俺はそういうところが好きなのだと言えるぞ」
衝動に従って、ほぼ一呼吸でそれを言い終えると十眞の様子が変わった。夕暮れのせいだろうか、目の前の瞳が、虹彩が、ぶわりと色を変える。
「悪い、そうだな、お前が誰に恋をしようと、それは自由だし、誰からも咎められるものじゃないよな」
珍しく、歯切れの悪い言葉節で彼は言った。そこからはやはり、嘘の匂いなんて少しもしない。一対一で、彼が俺に向き合ってくれている証拠だった。
「……でもな。見返りのない恋愛なんてつらいだけだぞ。俺は勧めない」
十眞はすぐにきっぱりとした口調を作り、僅かに顔を顰めた。
なるほど、一般的にはそういうものなのかもしれない。だが彼が俺の傷心を想いその表情を曇らせているうちは、つらくなるようなことなどなにもないように思えるのだ……。
.