7月2日

 なんと、この時期になってもいまだ祐介との名前のつかない関係は継続していた。あんなこと(注・噛みつき事件)とそんなこと(注・真っ向からの愛の告白)があったにも関わらず、なお続く彼からのラブコールを俺はどうにも拒絶しきれないままだ。

 初対面の際に取り違えたままになっていた距離感を少しでもまともな形に戻そうと。一度だけ仕事帰りのファミレスで落ち合ったことがある。
 未成年をまさか居酒屋やその類に連れて行くわけにもいかない。だったらいっそ、こっちから学生たちの領分に出向いた方が罪悪感はいくらかマシだろう。

 夕食どきを過ぎても渋谷に店を構えるそこは客足が弱まることがない。学生グループの喧騒があちこちから耳に入る。いまや懐かしいざわつきを肌で感じながら、俺は向かいの席を見た。祐介だって男子高校生なのだから、本来ならここへ同席するのは俺じゃなく、ああいった同年代のほうが自然であるはずだ。
 そうは思うのに、当の祐介は談笑し合う学生たちとは打って変わり、ひたすら黙りこくっている。およそファミレスのメニューに向けられるものではない真剣な眼差しが何を思案しているかはだいたい察しがつく。俺と一緒のときくらい金銭面の心配なんてすることはないのだが。そう言うと祐介はいっそう真面目な顔を作って返した。
「そういうわけにはいかない。匂いだけ持ち帰らせてもらうとする。大丈夫だ、どうやら水はタダのようだし……」
「いいから好きなの頼め」
 頭の中でなにやらとんでもない作戦を講じていたようなので、実行される前にこちらから念を押す。彼の異常なまでの節約癖は相当切羽詰まった生活苦からくるものらしい。けして本人がしたくてしていることではない。そのことは、これだけ付き合えば流石に理解もする。
 なんとか一食分の飯を食わせると外聞もなく大袈裟に有り難がり恐縮しだすので、祐介と外の飲食店で顔を合わせるのはそれきりになった。

 しかし飯の一食でそれだけの反応を返されてはこちらの心配は増すばかりで、機会があれば俺は自宅で飯を与えてしまっている。
 ただでさえ祐介の図体では燃費は悪そうだ。普段の食生活のことを思うだけで彼の線の細さが果たして生来のものかどうかさえも怪しく思えてくるし……。

 そんな流れで、気付けば関係性はまるきり例の“噛みつき事件”の前に戻ってしまったのだ。

 このなんとも言えないどうしようもなさを反芻していると、流し台から当の本人がやってくる。独身男の手料理であれ、祐介の食に対する感謝の意は変わらないらしい。食事後の後片付けを任せると彼の中の罪悪感も多少は落ち着くらしく、最近ではそうさせている。
「ん、ご苦労さん」
「食洗機に遅れは取らんぞ」
 濡れた手をしっかり拭き取ってから俺の隣へ腰掛けるいい子の祐介は実に誇らしげである。
 ノートパソコンの前で持ち帰り仕事をチェックしている俺を覗き込む。何か他にできることがないか窺っているのだろう。いつも重たそうにしている、横に流した前髪がまぶたにかかる。出会った頃にくらべ随分髪が伸びたようだ。新陳代謝が活発なのはいいことだ。いいことではあるが。

「……髪、伸ばしてたりするか?」
「いや、特には」
 思いつきの言葉に祐介はすぐに応える。実を言うと飯のときからこの長さが気にはなっていたのだ。祐介の髪質は癖がなく、彼が何度掻き分けてもすぐに重力に従った形に戻ろうとしてしまう。
 俺は一拍考えてから席を立った。洗濯したばかりのバスタオルに櫛、それとペン立てに刺さったハサミを手にして戻る俺を祐介は座ったまま見上げている。不可思議そうに見つめる彼の隣へまた座り直し、俺は一つ提案を持ちかけた。

「即席でよかったら切ってやるけど……」
「俺の髪を? 十眞がか?」
「毛先整えるくらいな、あまり期待するな」
 唐突な申し出に、祐介は当然躊躇いの色を示す。普段使いのハサミじゃさすがに大雑把すぎただろうか。しかし祐介とのこれまでのやり取りを思えば、彼の生活費では散髪代もままならないのだろう、と想像に難くないので。
 そう思っている間にも、目を丸くする祐介の睫毛に前髪が絡みついていく。
「では、頼む」
 祐介はどこか気の抜けた声で了承した。言質を取った俺は彼の後ろに回り込み、広げたバスタオルを持たせる。何もかも即席揃いだがなんとかなりそうだ。
 おもむろに髪の間に指を入れると驚いたのか、祐介の背筋がびくん、と伸びた。するとちょうど弄りやすい位置に頭が来るので、これ幸いと俺は作業に取り掛かる。

「よし、そのまま動くなよ」
「あ、ああ」
 刃物持ってて危ないからな。祐介の動きは結構予測不能なのでいまだけは抑えてもらわなければ。
 俺はちょうどひと月前くらいの祐介の襟足の長さを思い出しながら、頭の中の切り取り線に見当をつける。おそらく放置されるままだった毛先は肩に触れるほどの長さにまで達しているが、それでも少しの歪みもない直毛を保っている。それがなんとなく持ち主の心根を表してるようで少し面白い。
 するりとした手触りの祐介の髪はいくらか湿気を含んでいる。そういえば今日は雨だった。七月になったというのにここ数日は悪天候が続いている。また長いこと俺の帰りを待っていたりしたのだろうか、と憶測が過ぎる。
 学生と社会人ではどうしたって生活サイクルに差ができる。いくら彼が望んだこととはいえ、いつも一方的に待たせるばかりなのはやはり気がひけるものだった。この辺りのことも、この関係性が続くようであれば考えていかなければならないかもしれない。

 さく、さくとハサミの小気味良い音が立つ。動くなとこちらが指示した通り、祐介は身動ぎひとつせず黙ったままだ。なるべく不恰好にならないよう毛先を整えて、櫛を差し込むと櫛歯は一度もつっかえることなくうなじまで到達する。頭髪に関しては無頓着ですらあるようなのにこのキューティクルはすごい。何回か寝泊まりさせたが寝癖が立ってるところなんて見たことがないもんな。それなりに満足のいく出来になったので、いよいよ彼自身鬱陶しそうにしている前髪に取り掛かることにする。

 祐介は律儀に固まったままだ。移動して彼の前へ座り込み、重たい前髪を指で避けると。
「……」
 真正面からばっちり目が合った。瞬きすらする様子がないのは、動くなという俺の要望を必死に守っているようだ。
「危ないから目、瞑ってろな」
「わ、分かった」
 俺の言葉をこれまた素直に聞き入れた祐介はあれほどかっ開いていた瞼を今度はぎゅう、と閉める。素人に顔の目の前でハサミを使われてはそりゃあ怖いだろう。
「……前は自分でやるか?」
 祐介の様子を見て思い直した俺がそう提案すると、
「な……ッ! 勿体ない!」
 と、即座に謎の抗議があがった。勿体ないってなんだ。髪がか。
「いや、大丈夫だ、俺は大丈夫だから一思いにやってくれ……!」
 などと、まるで介錯待ちのような様相である。せめて早めに終わらせてやろう、とすみやかにハサミを入れる。祐介が再び黙り込んでしまったことで、雨が窓を叩く音が僅かに耳に届く。この調子なら、今夜は一晩中降るだろう。一度外へ向いた意識をまた目の前の祐介に戻す。後ろと違って前髪は失敗すると取り返しがつきにくいので、邪魔な部分を除いてしまったあとは少し調整しただけで刃を下ろした。目に見えてすっきりした見た目に一仕事終えた気になる。

「これでよく見えるな」
「そうだな……よく、見える……」
 声をかけ、作業が終わったことを伝えるとぱっちり開いた瞳が顔を出す。
 手鏡などがないので、これまた即席で携帯のカメラモードに男前を写してやる。なかなか悪くない出来だと思うんだが、祐介の瞳はこちらを向いたままで液晶を追おうとしない。手にしたスマホが目的を失い、行き場をなくす。同時に手持ち無沙汰にもなってしまったので、俺はもう片方の手に持ったままだった櫛で目の前にある前髪の流れをまた整えた。

「ま、待ってくれ、十眞、待ってくれ」
 すると壊れた機械かなにかみたいに、祐介が声をあげた。
「その、俺はお前が好きだと言ったよな?」
「え」
 何を言うかと思えば祐介は突然そんなことを尋ねる。

 俺の頭に、あの日の夕暮れ時のことが思い起こされる。確かに彼は俺にそう告げた。誤解のしようもない真っ直ぐな顔つきで。
 そんなものだから、祐介からの申し出をきっぱり拒絶するつもりだった俺の心持ちはあっけなく鈍ってしまったのだ。その気になったわけではない。ただ、相手が子どもだからと言って個人の意思を他人が否定するのは大きな間違いだと。気付かされたのは大真面目にこちらに体当たりしてくる祐介がいたからだ。
──そうだ、彼の気持ち自体には何ら罪はない。
 だが、彼の想いを肯定することには危険がつきまとう。俺がそれを拾い上げてしまった途端に意味合いがガラッと変わってしまうからだ。それだけは避けなければならないし、譲ることはできない。
 どうあれ結論だけはシンプルだ、俺が応えなければいいだけの話なのだ。

「ああ、聞いたな」
「そうか。良かった、お前があまりにも……、つまり、その。よもや忘れてしまったのかと」
 勿論忘れてなんかいない。あんな告白、そう易々と忘れられるものでもない。だが確かにいまこの瞬間にそのことが頭から抜けていたのも事実だ。彼が感じた不安は正しい。

 祐介は挙動不審気味に呟きながら、切ったばかりの前髪を指先で弄る。そんな彼の姿を見て、俺は自らの行動を省みる。さっきまでの行動は祐介からすれば自分が片思いしている相手から無遠慮にべたべた触られたという状況だ。俺の意識がどうあれ、祐介からすれば、そうなるのである。悪いことを、した。
「忘れていないのならいいんだ」
 祐介は心底安心したようにそう言った。その空気にあてられ、なんだかこっちまで気恥ずかしくなってきたものだから本当にどうしようもない。