7月某日

 扉を開けると中は真っ暗だった。廊下の光源が差し込み、その一筋だけが中の様子を伝える。何のことはない、代わり映えのしない俺の住まいだ。その光のなくなるところまで視界に入れて、ようやく俺は明かりをつけることを思い出す。簡素なスイッチに触れると光熱費のことが頭を過ぎった。学校からの支援がなくなることを想像すると背筋が薄寒くなるのですぐに頭から考えを排除する。
 のろのろと踏み出す足元に何かがぶつかる。乾いた音を立てたのは俺が放置したままになっていた習作の数々だった。暁や怪盗団メンバーとの交わりにより、もう一度画業に向き合う決心をしたからには生半可なやりかたでは駄目だ。単純にキャンバスに向かう時間だけは増えたと思う。しかしその結果は……。考えながら、俺は不要となってしまった紙の束を屑籠に突っ込んだ。

 暁の手を借りながら見つめ直しはじめた己の画業について、展望はいまだ見出せないままだ。苦悩や懊悩の類は尽きない。生活のことだってある。いつまで特待生の地位に居座ることができるだろう。そもそもそれすら、いまの俺には到底似つかわしくない肩書で、周りの評価を裏切っているような気さえする。焦りはさらなる息苦しさとなり、俺の胸へ襲う。

──今日はもう何も食べずに眠ってしまおうか。
 倦怠感のなか、ついそんなことを考えてしまう。今までの俺ではそうしていたことだろう。しかし、そんな思考のさなかあるものが目に入る。
 窓際にぽつんと置いたままの少々元気のない大根の切れ端は十眞の家から譲り受けたものだ。大根の葉は水を与えるだけで健気に数ミリずつ背を伸ばしている。捨てるだけだった部分を思い切って十眞に強請ったところ、彼は固く表情を強張らせてから、煮物を詰めたタッパーと一緒に持たせてくれた。それがまだ一食分ほど残っていたはずだ。眠っている場合ではない。
 俺はいそいで食事の準備に取り掛かることにした。といっても冷蔵庫の中はたかが知れている。日分けして量を管理している米ともやしはメインである煮物のささやかな供となった。十眞の料理はどれもうまい。それを伝えると、彼は「独り身だから一通りはな、」と謙遜を述べる。慎ましい男だ。ルブランの食事もそうだが、美味いものを作れるというのはそれだけで尊敬に値すると思う。手製の煮物は日を置いたことでより味が染みて奇跡かとも思われる美味さへ昇華されていた。
「生かされている……」
 しみじみと呟いた独り言は大袈裟なものでもなんでもない。俺の生活はいまやすっかり彼に支えられてしまっている。

 十眞は俺の告白に首を縦に振ることこそなかったが、極めて誠実に俺との付き合いを続けてくれている。
 そう、彼との関係は良好だ。ときに良すぎる、と思うほどに。前髪を指で小さく払う。つい数日前の夜、ここに彼が触れていた。

 それを思いだすと胸が落ち着かずそわそわとする。性別や年齢からか、十眞は元から俺に対して驚くほど警戒心というものを抱いていない。
 俺自身の過失で一線を超えてしまった直後はさすがにそれなりの距離が保たれるようになったが、それも数日のことで、会ううちにまた気兼ねない距離感が戻っている。……俺が言えた義理ではないのは重々分かっているが、自分を襲ってきた相手をまた家にあげ、あまつさえ寝泊りまでさせるというのは一体どういうことだろう。まさか他にもこうして世話を焼いている相手がいるのではないだろうな。それに思い至ると俺は無性に心配になり、十眞の家に訪れるたび他の人間の気配がないかそれとなく見渡したりしている。いまのところそういった痕跡は見られないが……。

 十眞が隔たりなく接してくれることは嬉しい。彼の行動に他意がないのも理解できる。
(だが他意がなさすぎるというのも考えものだ)
 そう、問題はそこなのだ。あの日、躊躇いもなく俺の髪へ触れた彼の指先を思い出す。
 頭なんて、普段他人に触らせるような場所でもない。そこへ何度も往復する温度。俺は心地いいやら落ち着かないやらでシャドウ相手もかくやというほどの大混乱に陥った。しかし目の前で作業に打ち込んでいる男はそんな俺の動揺などまったく意に介する様子がないのだ。
 それがわかると、今度はある不安がどんどん頭を占めてくる。だって、こんなの意識しない方がおかしいのに。
 同じソファに腰掛けた十眞が、俺の方へ身体を寄せ、こちらを覗き込んでいる。不意に向かい合った身体の、彼の膝が俺の脚へ触れて、布越しでたいしてわからないはずなのに明確すぎる体温が伝う。耐えきれず俺は声をあげた。「俺はお前に好きだときちんと伝えたよな?」と。

 それを確認したときの反応といったら!十眞はきょとんとわずかに目を大きくして、それから「あ、そうか。そうだよな、」とやっと遅すぎる焦りを滲ませたのだ。

(あれは、完全に頭から抜けていた顔だった……!)
 これは良くない。なんと言ったらいいかわからないが良くないということだけは分かる。俺は十眞をどうしたいんだ。保護者代わりにしたいわけではないだろう。でも警戒させたいわけでもない。願望のままに襲いかかってしまったのは間違いなく反省すべきことだ。だが全く意識されないというのも、今後のことや俺の精神状態を考えると。いや、だが、しかし。
 ぐるぐると、思考がめぐる。しかしこの悩みはおのれの内だけでどうにかなる問題ではない。状況を打開するには行動を起こすのみだ。

 

7月7日(夜)

 

 と、そんな葛藤の末。仕事帰りの十眞になんとか予定をこぎつけ、俺は彼を四軒茶屋の駅前へと呼び出していた。家の外で彼と会うのは久々だ。わざわざ足労させたことをまずは詫びなくてはならない。
「いや、それは全然いいんだけど……」
 俺の言葉に十眞はすぐにそう返した。けど、と言ったきり彼の言葉は喉の奥へ消えてしまう。どうしてここへ呼び出されたかを計りかねているのだろう。俺や、ほかの怪盗団メンバーにとっては四軒茶屋に降りる目的などひとつしかないのだが、彼がそれを知るよしもない。

「ぜひ、来てほしいところがあるんだ」
 誘う台詞に熱が入る。十眞からの態度を考えるにあたりまず問題だったのは、彼にとって俺がいつまでも保護対象の域を出ていないということだった。相手は地にしっかり足が付いた大人だ。対等な関係を、と望んだところで烏滸がましいというものだろう。しかしそのバランスを少しでも傾けることはできないだろうか。そうでなくても彼からの無償の好意で食いつないでいる事実があるのだし、それに報いるべきだ。
 そこまで考えたのはいいものの、一人分の生活でいっぱいいっぱいな俺に妙案など浮かぶはずもなく……。

 十眞を連れて歩きなれた道を進んでいく。時刻は九時過ぎといったところだ。このあたりは夜を過ぎればそれほど人通りは多くない。個人経営の飲食店がいくつか連なる通りに入れば目的地はすぐである。
 喫茶ルブランの扉には手筈通り閉店を告げる札がかけられていて、それを目にした十眞はわずかに首をかしげた。いまはまだ疑問符を浮かべるばかりの十眞がいったいどんな反応を返すだろうかと、想像するだけでわくわくしてくる。俺一人では途方に暮れるばかりだったことも、いまは協力してくれる仲間がいるのだ。
「閉まってるみたいだが……」
「ああ、今夜は貸し切りだぞ!」
「ええ?」
 戸惑う様子の十眞を促し、店内へ入るとすぐさま黒い毛玉が俺たちの前へ飛び出してきた。

「来たな! ユース……ケ?」
 どこから跳んできたのやら、猫の跳躍はあなどれない。モルガナは俺の肩まで悠々と前脚をかけると俺の身体越しにまじまじと十眞を見た。
「邪魔するぞ、モルガナ」
「……男だ」
 モルガナは彼を凝視したまま分かりきったことを言う。そんな声がしっかり意味を伴って聞こえるのはこの場においては俺とリーダーだけだ。突然出てきた小動物に見つめられて、十眞は固まっている。どうやらあまり動物慣れはしていないようだ。
「オマエが連れてきたいって言ってたのって、こいつのことか?」
「ああ。今日は世話になる」
 俺が頷くと顔のごく近くでモルガナが、にゃにゃ?と声をあげる。これは俺にも猫語にしか聞こえない。モルガナがときどき発する感嘆符は猫ネイティブだ。
「ええと……、俺、警戒されてる?」
 モルガナの声は聞こえずとも、彼の雰囲気を察したのだろう。十眞は遠慮がちにそんなことを言った。とんでもない。ただモルガナはこう見えて少々気むずかしいところがあるのも事実だ。

「案ずるな。お前のことは事前に伝えてある」
 そのあたりに抜かりはない。そう。ルブランへの招待こそが今日の俺の目的だった。
 十眞からの施しに報いるとはいったものの、俺にできることは非常に限られている。言うまでもなく、何かを贈る資金もない。思案しながらじっと冷蔵庫を見てもそこにあるのはパンの耳ともやし。あまりに貧相だ。せめて俺にも暁ほどの料理の腕があれば、と悔いたのは一瞬で、すぐに俺は彼に協力を取り付けることを考え付いた。そうだ、ルブランの食事を振る舞うというのはどうだろう。むしろそれより他に方法はない、とまで思えた。
 そんな俺の頼みごとに暁は二つ返事で了承してくれたのだ。持つべきものは友である。そのうえ、暁とモルガナは俺と十眞の事情を知っている。協力者としてこれほど頼もしい相手もいないだろう。

「事前にって……猫だけど……」
 十眞とモルガナは顔を合わせながら互いに奇妙そうな表情を浮かべていた。
「すみません。そいつ、祐介と仲がいいもんで」
 人見知り、十眞に至っては猫見知りだろうか。店の奥から暁の柔らかい声が届くと、ようやく俺たちは促されるまま入り口をくぐった。落ち着いた暖色の電灯と、コーヒーの香りが迎え入れる。

「いらっしゃいませ。好きな席どうぞ」
 エプロンを身につけ、接客モードの暁は店員としてすっかり板についている。カウンター席を選び、そこへ並んで腰をかける。十眞の視線は、壁に書かれたメニューや、ずらりと並んだコーヒー豆の缶をなぞり、最後に店内を見守るようにかけられている『サユリ』へと順に向けられた。そしてやや納得したような顔つきで暁を見遣った。
「友達の店なのか」
「正確には俺は居候で、店員としてもまだ見習いなんですけどね」
 暁はそう言って苦笑した。ここのオーナーである佐倉氏はなかなかにプロ意識の高い人物らしく、お墨付きをもらうのは大変だ、と彼が漏らしていたのを思い出す。それでも何度も店の手伝いをするうちに少しずつ任される仕事が増えてきたんだそうだ。
 佐倉氏がこの店を大事に扱っていることは、一度でも店内へ入った者ならばわかることだ。それを、たとえ友人とその連れを相手にするだけとはいえ、こうして任せきりにしてもらえるのは信頼されている何よりの証だ。それを思うだけで、俺は暁のことが友人ながら誇らしいきもちになる。

 暁を紹介しながら、その人となりについておおまかに語って聞かせるのを十眞は柔らかい表情で聞いていた。十眞は聞き上手だ。彼の目が向けられ、相づちが返されると俺の喉からは次から次に話題が出てくる。
「十眞とのことについて相談にのってくれたのも暁だ」
「………………ああ、そっか君だったか……、」
 勢いに任せてそこまで述べると、途端に十眞の目が遠くなる。俺たちのやり取りに聞き耳を立てていたらしい暁が接客用の笑みを浮かべながら、水の入ったグラスを運んできた。
「その節はすいません。なんか、焚きつけた感じになっちゃって」
「はは……」
 十眞はどこか乾いた笑みをこぼしながら、組んでいた脚を元に戻した。暁の謝罪がはたしてなにに対するものなのかはわからない。だが十眞も暁も笑顔のままだから、きっと重大なことではないのだろうと推測する。

「というか祐介、この人に今日の趣旨きちんと話した?」
 店員然とした佇まいから、いつものラフな雰囲気に調子を戻しながら暁が本題を進める。そうだ。言われてみれば伝えていなかった気がする。というか、ここまで連れてこられて、察してくれていてもいいと思うのだが、どうにも十眞は局所的に鈍いところがある。大人なのに、暁の言葉で俺のほうに目を向けた彼の表情はそれを感じさせないほど無欲なものだった。
「ああ。喜んでくれ、今日は俺と暁とモルガナのおごりだ!」
 そう告げられること自体がすでに嬉しく、思ったよりもずっと明るい声が出てしまった。俺の言葉にならい、十眞は店主(仮)と相棒の黒猫を見た。そして少々上ずった声をあげる。
「えっ、そういうわけにはいかねえって」

 彼が遠慮するのは予想していたことだ。俺からすれば俺が日ごろ食いつぶしているだろう食費を思うだけで胸の奥が強烈に痛むのだが、十眞にとってはさほど痛手ではないのだろう。だがそこに胡坐をかくようでは男として失格だ。それで俺の想いを受け取ってもらおうなど道理の通らない話である。俺はあらかじめ用意していた返答をする。これはお前の好意に対する礼なのだ、と。
「そう思ってくれるのは有難いけど」
 俺がいっそう熱をこめて告げると、十眞は狼狽の色を示す。
「そんな気負わなくていいんだぞ? 大半は俺がしたくてやってるわけだし……、」
 聞いたか暁。聞いたか。これなのだ。こんなこと本気で言われたら己惚れるに決まってる。というか、こちらが惚れ直してどうする。違うだろう。これでは俺がしたいこととはまるきり反対だ。

「“十眞”さん、」
 そんな折、厨房で背を向けていた暁から声がかかる。
「さっき言ったとおり、俺まだ見習いなんです。だから試作品とでも思って食べてみてほしいです」
 そう言って、俺たちの会話に決着がつくより前に、ルブラン名物特製カレーが運ばれる。いつ見てもいい色ツヤ、そして食欲をそそる匂いだ。暁はこうは言うが、彼の料理の腕前は持ち前の器用さと凝り性が幸いしてかなりクオリティは高い。商品として十分通用するしろものだ。
 問答無用で皿を置かれ、考え込む仕草を見せる十眞に、今度はモルガナが机の下からにょっきり顔を出す。
「そーだぜ、そーだぜ! さっきから聞いてりゃ、ユースケの男気を無下にするのかよ!」

 にゃあにゃあ!にゃにゃあ!、としか聞こえていないはずの十眞は、しかしそんな彼の訴えにも律儀に耳をかたむける。三人分の視線を受け、十眞は雰囲気をやわらげた。
「……友達が俺みたいの連れてきたら、もっと反対とかするもんだぞ」
 そう言って、苦笑の形を作る。折れてくれたということだろう。ここであまり問答をして、せっかくの料理を冷ませてしまうのもよくない。
「じゃあ有難く。いただきます」
 もしかしたら暁のカレーを前に、十眞もそう思ったのかも知れない。スプーンを手に取り、口へ運んでいくさまを目で追う。

「ああ、美味いな」
「そうだろう!」
 十眞からの素直な賛辞に俺はすっかり嬉しくなってしまう。いつもは彼が作った料理をともに食べているので、それに俺が舌鼓を打つのは当然として、彼自身が美味そうに食べる姿というのはなかなか新鮮だ。それを見ることができただけで暁たちに協力してもらった甲斐があった。