じわ、と湿気を含んだ空気が身体にまとい付く。季節はすっかり夏である。ただこの時期の気候はまだ真夏と言えるほどでもなく、後を引く梅雨の名残りがひたすら体力と集中力を奪う。
逆に良いことといえば、十眞のシャツが長袖から半袖になったことだ。身長が高い彼の腕はしっかりそれに比例した長さをしている。
つい彼のほうを向いてしまう俺の視線は、短い袖の裾から伸びる腕が描くカーブを辿り、テキストに目を向ける横顔へと終着した。
その頬のラインを紙の上で再現するために思わずシャーペンを走らせたところで、十眞が数分ぶりに声をあげた。
「……ああ、なんとなく思い出してきたな」
俺を現実へとひき戻す声に、肩が大袈裟に震えた。
十眞は興味深げに数学のテキストを眺めている。数年越しに読むことで何か違いがあるんだろうか。自分自身の記憶を手繰りながら、俺の勉強に一役買おうという気らしい。言われるままに今度のテスト範囲を伝えるとすぐに勘を取り戻したようで、それに沿った出題が的確に行われる。何問か解を出したところでこうして俺の反応が止まってしまったので、不思議に思ったのだろう。十眞は目線をテキストからこちらに戻して様子を窺っている。
「あ、いや。これは。なんでもないんだ」
どうやら無意識で描いてしまった線が何を象っているかまでは読み取れないようで、俺は広げたノートのページをめくり、白紙にすることで自分の行為を誤魔化す。彼を象ったわずかな線でも消しゴムでなかったことにしてしまうのは躊躇われた。
放課後に訪れた兎田邸で俺は教科書一式を広げていた。
どうしてこんな状況になっているかといえば、再会して二言目に「そういえば、テストが近いんじゃないか」と十眞から指摘を受けたからだ。
昼間に会話を交わしたばかりの怪盗団の面々を思い出す。うち約二名はテストという言葉に分かりやすいほど焦りを見せていた。
金城の一件で新たに仲間になった真はそんな彼らの上級生だ。怪盗団の学生メンバーでは俺だけが他校生だが、都内のテスト期間など学校が違ってもそう変わりは無い。問題児たちと生徒会長の攻防を視界に入れながら、俺もぼんやりと、ああそんな時期か……。など考える。
「暁と祐介はさすがね。普段からしっかり復習をしてれば、直前になって焦ることないのよ?」
と、真はまっとうな意見で二人に追い打ちをかける。急にやり玉にあがった俺と暁は互いに顔を見合わせた。暁は確かになんでもソツなくこなす。戦闘においてオールラウンダーなのは日常生活でも健在らしい。
俺の方も、学業に関してはいままでとくに悩んだ経験はない。そもそも俺は美術科コースに籍を置いているし、テストの点数くらいであくせくするのも性に合わない。むしろ俺の進級は答案用紙よりも作品発表の実績にかかっているのだ。なので俺にとってのテスト期間とはいつもよりも早めに授業が終わって、自分のための時間を確保しやすい期間にすぎなかった。
そんな言い分を述べたところ、真は血相を変えて俺の教科書を取り出し赤線を引き始めた。いま十眞の家で広げているページにはそのとき彼女が記した下線が几帳面に引かれている。頻出の傾向にある部分をマーキングしてくれたらしい。彼女の分析能力には頭が下がる。
それにしても学生である彼らならまだしも、十眞からテストの話題を切り出されたのは意外なことだった。未成年の俺に対して彼が感じている負い目を、払拭することはどうにも難しいようで。自分と会っている時間のせいで俺の成績が落ちたりするのを心配しているのだろう。だがここへ来ることを選んでいるのは俺なのだし、それで成績がどうなろうと自己責任の範疇だと思うのだが。
それに、ここにいるときは十眞のことだけに集中していたいのだ。そうでなくとも、訪ねておいて勝手に勉強をしはじめるというのは行儀が悪い気がする。泊まりこむつもりで明日の教材を鞄に詰めてきたことが仇になってしまった。
依然として手が止まったままの俺へ、また声がかかる。
「ご褒美がなきゃ出来ないってわけじゃないだろ」
彼の台詞は冗談めかした風に聞こえた。おそらく本気で言ったことではないし、俺だってそんな浅ましい人間ではない。こうして自習に付き合ってくれているだけで俺にとっては願ってもないことである。だが。それはそうなんだが。
「褒美というのはたとえばどういうものだろうか……?」
つい欲がついて出た。褒美、とは。十眞の口から語られると途端に甘美めいた響きに思えてくるから不思議だ。その正体がなんなのか確かめたくて仕方なくなる。
「ほしいのか?」
俺の視線を受けて、十眞は意外そうな顔で問うてくる。なにやら魅力的な匂いに、俺は一秒の間もなく首肯してしまう。
「……できる範囲でなら」
少し考え込んでから告げられた言葉は俺をさらに喜ばせた。彼の口振りは俺に選択権があることを意味している。望む以上の返答を得て俺は舞い上がった。こんなことってあるのか。テストよ有り難う。
喜びを隠せない俺の様子に不安を覚えたのか、十眞は少し口調を早めて言葉を付け加えた。
「あんまり変なことは無理だぞ。お前、前科があるんだから」
「変な?」
「肉体的接触……」
あえて固い口調で、具体的な言い方を避ける。彼が言っているのはいつかの俺の暴走のことだろう。自身の行動が彼に少なからぬ心配を与えているのを知り、俺の心に猛省が芽生える。もう二度とすまい。俺が堪え性のある男だと、彼に分かってもらわなければ。
「どれだけ衝動に駆られようとも、お前の望まないことはしない。約束する」
「お、おう。まあ、それなら……?」
俺は極めて真摯に誓いを立てた。それを受けて十眞はわずかに首を傾げたが、こちらの本気度合いが伝わったのかそれ以上釘を刺されることはなかった。
思えば、ご褒美というのは自分にとってなかなか未知の言葉だ。学校の成績も、作品に対する評価も結果に応じて与えられるものである。
杏が「自分へのご褒美」と称して、いつも買うものより価格帯が少し高めのコンビニスイーツを買っているのを見たことがある。反して、俺はたぶん、そういったことをいままで口にしたことがない。過程に対する労いという発想自体が俺にはなかなか思い至らないことだ。甘味を頬張る杏の姿を思い出す。そのあまりに幸せそうな表情は羨ましくさえ思うほどだった。
──ああ、そうだ。
「夏祭り、に行きたいな」
カネシロパレスでの打ち上げ会はみんなで花火大会へ行こう、とアジトで話したばかりのことを思い当たったのだ。打ち上げ会という名目上、そこへ十眞を連れて行くわけにはいかないが、この時期夏祭りであれば場所を選ばなければどこでもやっているだろう。祭りの規模は関係ない。ただ二人で夏の風情を味わうというだけでそれは十分褒美に値する。
思いつきのわりに、これはかなりいい案じゃないだろうか。なにより俺だけではなく十眞も一緒に楽しめるというところがいい。俺はすっかりその気になって、十眞へ期待でいっぱいの目を向ける。
「友達とは行かないのか? あの、喫茶店の」
「それとは別に、お前とも行きたいと思ったんだが……駄目か?」
誘いに対して、十眞はすぐには返事をかえさない。だがそれは答えを渋っているというよりは、単純に俺の提案自体を不思議に思っているからのようだ。
「お前がそれでいいなら、いいけど……」
「勿論だ!」
十眞と夏祭りに行けるなんて。なんと素晴らしいことだろう。思わず喜びの声をあげると十眞も薄く唇を綻ばせる。ああどうしよう。まずは行き先を調べなければ。神社や商店街での祭りとなると、やはり大規模な花火大会とは日程が重ならないようにするものなのだろうか。
「色々調べるのはテスト終わってからにしろよ」
次々に予定を立て出す俺の思考を先回りして、十眞が言う。当然だ。やるべきことをせずに報酬のことにかかりきりになっては本末転倒もいいところ。俺は苦心して騒ぎ出したい気持ちに蓋をした。いまようやく、テスト明けを恋しがる竜司の気持ちが分かった気がする。何はともあれ、明けたころには浴衣姿の十眞と並んで歩けるのだ……。
「あ、悪い。浴衣は持ってない」
脳内映像に、十眞が断りを入れる。当然それが縁日への正装だと思い込んでいた俺は驚きのあまり絶句した。
「それは着ない主義ということか……?」
「いや、単純になくて。浴衣はいいから、いまは平方根な」
そう促されてしまっては、おとなしく目線をテキストへ戻すしかない。
浴衣、絶対調達してこよう。体勢を自習に戻しつつ、俺は固く心に誓った。
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