7月17日(夕)

 いつも荷物少なでやってくる祐介が、その日に限って大荷物を引いてやってきた。キャリーケースが玄関を跨ぐのを見ていると祐介はこちらへ向かってかしこまった声で懇願を始めた。

「十眞、頼みがある」
 雰囲気に押され、俺もなんとなく真面目な面持ちでに彼に向き直る。すると祐介は持参した荷物から布を取り出した。深く濃い緑色をした大きな布だ。それを見せられて、すぐに俺は合点がいく。
「後生だからどうかこれを着てはもらえないだろうか」
 全身全霊を込めて頭まで下げた祐介が掲げ持つのは男物の浴衣だった。

 そう、今日は祐介と夏祭りへ行くと約束した日だ。事前にしていた口振りの通り、祐介は自前の浴衣をばっちり着込んでいる。しかし俺の分まで持ってくるというのは予想外だった。
「俺に?」
 と問えば、忙しない首肯が返ってくる。
 以前にも言った通り、俺が浴衣を着る気が無かったのは単純に持っていないからで、彼が選んで持ってきたものを無下にする理由はない。俺の意図が伝わると、祐介の顔がぱっと明るくなった。その表情にどうも俺は弱い。着替えるだけでここまでの反応が返ってくるなら安いものだと思う。
「そうか! 一式用意してきたからゆっくり着てくれ。俺はいくらでも待てるからな!」
 言葉通り、本当にいつまでも待ち続けそうな祐介を置いて、俺はひとまず寝室へ向かった。

 男の着付けに時間はそれほど要さない。5分も経たずにリビングに戻ると祐介は何故か正座状態でお行儀良く待機していた。
「美の神は……在った……!!!!」
 と思えば、そんな感じの謎の叫びをあげて祐介はそのまま倒れ込む。……もう何も言うまい。
 取り敢えず感極まった様子の祐介は放っておいて、俺も自分が着ているものを見下ろす。誰でも着こなせるような落ち着いた品のある色だ。身丈も合っていたことから、祐介の持ち物なんだろうか、と当たりをつける。レンタルやらで費用がかかっているのだとしたら流石に悪い。
「その辺りは大丈夫だ。その……、前の家から持ち出してきてな。思い切った甲斐があった」
 途中言葉を濁らせたのが気になるが、それを上回る喜色に満ちた様子なので言及を避ける。どう考えても過ぎた喜びように居たたまれない思いを感じながら、まあ、わざわざそこへ水を差すこともあるまい。いまは彼からの賞賛を素直に受け止めることにした。

「祐介」
 どことなく気恥ずかしいような気持ちを抑えながら床に転がったままの祐介を呼ぶ。そのまま立ち上がらせるとハイブランドモデルも顔負けの美男子がそこにいた。
「浴衣、似合うな」
 改めて全身を眺めると自然とそんな感想が生まれる。これが祐介の不思議なところで、日本人離れした手足の長さをしているわりには純和風のものがよく似合う。彼の持ち前の雰囲気がそう思わせるのだろうか。
「有り難う。よく言われる」
「だろうな。……ほら、転がるのはよせって。せっかくなのに皺になる」
 俺が思わず口に出た褒め言葉は祐介にとっては聞き慣れたものらしい。多分、俺と同じくほとんど意識の外から出た賛辞だろう。誰が言ったのかは分からないが非常に納得のできる話だ。

 聞き慣れているはずの褒め言葉にも嬉しそうに頬を緩ませる祐介は無駄のない所作で着崩れを直す。するとぴんと伸びた背筋の和服モデルが出来上がった。馬子にも衣装とまでは言わないが、その佇まいはいつもよりきりっとして見える。衣装の効果ってすごいな。なんとなく目を離せないでいると、祐介はまた俺のほうへ視線を戻して言った。

「十眞、少しいいだろうか?」
「ん?」
 一体なんだ、と思っているうちに近づいてきた祐介は俺の腰もとへ腕を回しだした。
「お、おい……?」
 およそ日常生活では起こり得ないほどの至近距離だが、真面目な顔の祐介を見て俺は反射的に開いた口を閉じた。彼の手により帯が緩められるとたった一本の布に頼り切っている浴衣の合わせ目も僅かにたわむ。どうやら適当に着たため着崩れがあったらしい。祐介は先ほど自分にそうしたのと同じように躊躇いない手つきで帯を結びなおす。衣擦れの音が耳に届き、俺は思わず身を強張らせた。祐介の行動は善意であり少しの他意もないのだろう。俺だって、普段通りなら年下の男に布一枚下を見られたところで何とも思わないところだが、祐介とはあまりにもいろんなことがありすぎた。

 早く終われ、ということを心の中で願って、祐介の真剣な眼差しを見る。どうやら用意した衣装に相当ご執心らしい。まあ、それならそれで全然いいんだが……。
「有難う。……みっともなかったな?」
 滞りなく身支度が整えられ、やっと祐介は密着していた身体を離した。慣れないものを着せられているからか、さっきからどうも落ち着かない。いい歳して着物の着方もなってない、というのも格好悪い気がした。
「大丈夫だ。十眞の着付けには俺がついているからな」
 と、祐介は軽蔑するどころかなぜか今後も立ち会う気満々らしい。頼もしいことだが、こんな格好は誰かに頼まれない限りしない気はする。

 

 最寄りの駅から数駅電車に乗り、目的地にたどり着いたのはちょうど日が傾きだした頃だった。
 道すがら、祐介の身なりは周囲の目をよく惹いた。彼の見てくれを見慣れた俺からしたって奇跡みたいな着こなし振りに見えるんだから無理もないだろう。本気でモデルとして金が取れるんじゃないか。感心しながらこれまた祐介が持参した下駄で砂利を踏みしめる。(足のサイズまで教えたか?、と問えば「ものの大きさを覚えるのは得意なんだ」と胸を張っていた)

 今日はずっと上機嫌の彼は、神社の鳥居をくぐるといっそう嬉しそうに目を輝かせる。境内には既にたくさんの人がおり、あちこちから活気のある声が聞こえてくる。その中に入ってしまえば祐介の浮かれっぷりも目立たない。
 俺の方はこういった場所に来るのは学生以来なので、どうしたものか、という気分になる。
 すると、人口密度が増したことで喉が渇きを訴えた。通気性のある恰好とはいえ真夏に人の多い場所に来れば喉くらい乾く。そんな買い手の意識を熟知しているのか、入口付近の屋台では氷水で冷やした飲み物が売られている。その思惑に乗っかり、まずはそこで薄水色の瓶を二人分購入することにする。速やかに会計を済ませると驚いたような顔つきの浴衣モデルが視界に入った。

「すまないのだが、持ち合わせがなくて……」
「いい、いい。熱中症のほうが怖いから」
 慌てた様子で受け取りを拒否するのは祐介らしいが、こんな日でも金欠振りは健在のようだ。男の矜持の問題なのか、俺の金で飲み食いするのを祐介はいつも遠慮する。律儀なのは彼のいいところだ。俺はそれを飲み込ませるのに多少の策を要する。
「好きだと思ったんだが、ラムネ」
「無論好きだ」
 簡単な誘導に乗ってくれた祐介は今度は素直に瓶を受け取る。そして、この時期にしか目にしない、昔から進化していない構造のラムネ瓶を難なく開けてみせた。予想通り、祐介はこういう季節ものが好きだ。俺も風情があっていいとは思うが、なんでわざわざ飲みにくい形なんだろうとも思う。

 祐介が瓶に口をつけるのを見送ってから俺も倣う。瓶を傾ければすぐに飲み切ってしまう量を、彼は大事そうにすこしずつ飲んでいるようだった。祐介と二人でいると自分の無骨さが浮き彫りになる気がする。
 あっけなく空になった瓶の中で澄んだ色のビー玉が、カランと音を立てた。それを隣で両目が見ている。あ、もしかしてビー玉取る派か。そう勘付いた俺は飲み口にもなっている蓋の部分を外してそれを取りだした。
「貰ってもいいのか?」
 期待の籠った声がかかる。いまどきの男子高校生がビー玉ひとつで声を弾ませているのは安上がりすぎる。だがそれも祐介の美点だ。このまま渡すのはべたべたして良くないので、手洗い場を探す。
「……洗うのか?」
「洗うだろ」
「いや。そうだな、それが正しい」
 幸いすぐに水場は見つかったのであらかた漱いでからビー玉は祐介の手に渡った。それを大事そうに持ち物入れにしまう様子は誰から見たっていじらしいものだろう。屋台の群れはまだ続く。これは俺の腕の見せ所ではないか。

「祐介、焼きそば食いたくないか?」
 策を練りながら俺は切り出す。突然のことに祐介はほとんど鸚鵡返しの言葉を返した。
「食いたい」
「綿飴なんかもいいよな」
「ああ。捨て難いな。だが……」
 その先に続く台詞を聞く前に先んじて提案をする。
「俺もそう思う。だから分け合って食べないか」
 ぎょ、と目の前の瞳が丸くなる。こいつは目力があるのでこういう表情は迫力がある。
「そうか。分け合えばそれだけ多くの屋台を制覇することができる、と……?」
「察しがよくて助かる」

 俺がゆっくり頷くと祐介も納得したようだ。よし。この作戦で行こう。祐介はもう目先の「屋台制覇」というワードにいっぱいいっぱいになっているようだ。ちょっと簡単すぎて心配になるなこいつ。男二人で大盛りの焼きそばを分け合うのは決まりが悪いがそれは些細な代償だ。
.