暦は八月。茹だる暑さとはまさにこのことで、東京の夏は有史以来の記録的な気温にまで達していた。命までも奪わんとする暑さは人々の歩みさえ正体のないものにする。しかし階段を上っている俺の足取りは軽快だった。理由は分かり切っている。腰元に光る鍵の束を揺らして、俺は回想する。
「祐介、ここ来い」
十眞が端的な言葉で俺を招いた。夜分に相応しい低い声色に異論などあるはずもなく、俺は彼が手招くままソファへ腰を下ろした。
テストが終わり、学期も終わると学生は夏季休暇になる。多聞に漏れず俺もそんな平凡な学生のひとりであるので、怪盗業のかたわら朝から晩まで画業にいそしんでいた。しかし、問題はこの暑さである。握る筆にも汗が滲む。とくに日中は暴力的なまでだ。だからといって、屋内に篭っていたところで今度は蒸し焼きの責め苦が襲う。学生寮には空調なんて贅沢なものはない。
通例通りに仕事が終わる頃に待ち合わせた俺たちが帰宅するなり、部屋の空調が稼働して迎える。ソファはちょうど冷気が当たる位置にあり、その日一日中熱せられていた俺の頭が冷やされていく。
呼びつけたわりに十眞は何も言わず、じっとこちらを見定めるような目つきをしている。十眞の言葉はいつも必要最小限だ。そのかわり、割合彼の目は雄弁で、俺は気付くとその瞳の中から彼の思惑や感情を読み取ろうと食い入るように見つめてしまう。すると、こうして顔を突き合わせて視線を交じらせているということに胸がはやる。どくどく。そう言えば今日はいやに自分の鼓動が大きく聞こえる気がするが……、いや、これは。
「目眩?」
そこでようやく自分の症状に思い当たり口に出すと、目の前の瞳に見たことのない色が燻る。
なんだ。そんなの見たことないぞ。
もっと近くでその目を見ようと乗り出した身体はすぐに引き倒されてクッションへ埋もれる。他でもない、十眞の手によってだ。相変わらずここぞというときは力強い。しかし理由も無しにこんなことをする男ではないはずだ。
「十眞っ、」
意図の読めない彼の行動に俺はますます動悸を早めて、俺からも手を伸ばす。俺の指先が彼に届く、その間際。
「んん?」
喉から不測の声が出た。クッションに埋まっている俺の頭めがけて冷たいものが降って来たのだ。そのことに邪魔されて俺の手は何を掴むわけでもなく宙を掻く。謎の物体を見てみればそれは冷やされた保冷剤だった。
疑問符を浮かべるばかりの俺を放って、十眞は少々乱暴な手つきでリモコンを引っ掴むと室内温度をさらに何度か下げた。じろっとした目つきの、燃えるような虹彩と目が合う。そうだ、これだ。十眞のこんな顔は見たことがない。
「今日一日どこにいた?」
「寮にいても集中できないから、最寄りの図書館に……」
この気温と日照りで寮に籠ることには流石に生命的な危険を感ぜざるを得ない。図書館の冷房出力は僅かだが自室よりはましだ。それでも我慢できなくなれば街の家電屋へ逃げることで涼をとれば良い。と、機転のきいた策に自画自賛の気持ちでいるのに、十眞の目は色を濃くするばかりだ。やはり様子がおかしい。もしや。いや、間違いなくこれは。
「怒って、いるのか?」
思い当たったことを尋ねるとさらに非難めいたまなざしが返ってきた。クーラーの風がごう、と吐き出される。
「熱中症で人は死ぬんだぞ!」
十眞が怒った。すぐ頭に血が昇る俺と違って、いつも穏やかな十眞が。
「す、すまない」
勢いに面食らって、俺の口からはほとんど条件反射的に謝罪が飛び出た。
彼の言うことはもっともで、熱中症によるニュースはほぼ毎日、日本中を駆け巡っている。そのことは俺だって重々知っているので、ここのところは俺なりにできる限りの対策はしていたつもりなのだ。だが、今年の夏は俺の経験をはるかに上回っていたらしい。それが十眞を怒らせてしまった。俺は少し遅れてようやく、本当に申し訳ない気持ちになって、肩を落とす。
「本当にすまなかった。これからはもっと気を遣う」
とは言ったものの、俺はどうしたら良いだろう。一時的な怪盗団アジトと化している暁の屋根裏部屋にもクーラーはないようだった。困った。何も策が浮かばない。このままでは十眞にまた心配をかけてしまう。夏。抗えない自然の猛威。最悪の季節だ。
十眞に言ったことを反故にするわけにはいかない。なんとか打開策を捻り出そうとする俺の額に冷えた保冷剤が宛てがわれる。氷嚢代わりのそれはみるみる溶けて芯をなくしていく。
「頭ごなしに勝手なこと言って悪かった」
十眞の語気はいつのまにか和らげられて、そのまま彼の気配は席を立っていってしまう。
感情的になったことを後ろめたく思っているのだとすればそれは見当違いだ。引き止めなくては、すぐにそう判断した俺はソファに預けていた身を起こす。
するとすぐ目の前のサイドテーブルにどん、と水の入ったペットボトルが置かれた。立ち去ったかに思われたのが杞憂だったと知り、俺はほっと息をつく。十眞の家には飲料用の水が別に買ってある。日がな水道水を汲む生活をしている俺には過ぎたものに思えるそれを促されるまま口にした。
「これ、持っていけ」
と、ペットボトル越しの歪んだ視界に何かが差し出される。部屋の灯りを受けて鈍く光るそれ。
「……俺に?」
思わず俺の喉からはおそるおそる、という声が出る。十眞が与えてくれるものはなんだって素敵なものというのがそろそろ俺は分かってしまってきていて、溢れる期待が留められない。
俺の前に差し出されたのはたった一個の鍵。これまでの文脈からしてそれがここの合鍵であることは十眞の表情からも察せられる。酷暑であろうと変わらず日中は勤労している十眞が不在のときはそれを使えと、そういうことだ。
「お前にくだらない死なれ方されたら、さすがに困る」
「ああ」
「だから、一時的にな。預けるだけだからな、これは」
「ああ、ああ」
俺は歓喜に身を震わせながら、何度も頷いた。もう眩暈や吐き気はすっかり遠くへ飛んで行ってしまっている。
前言を撤回する。夏、お前は最高だ。
……というわけで、いつも俺が下げているキーチェーンには先日から十眞の家の合鍵が追加されているのだ。
本気で俺の命の心配をしてくれた十眞からすれば、この行為に俺が感じているほどの甘い気持ちは含まれていないだろう。たとえそうだったとしても不在を任せてもいいと判断されたということには違いない。この物騒な社会でそれを許されるのはけして些細なことなんかじゃないのだ。
あらかじめ合鍵が存在しているということに対して、かつてこれを使っていた相手がいたのだろうか?と思わないでもないが、いまその権限が与えられているのは俺だ。寧ろ過去の見知らぬ相手に優越感さえ覚える。
目的の玄関前にたどり着き、あのとき本気の怒りを見せた家主の顔を思い出すと顔が緩んでしまい、いや、流石にそれは十眞に悪いだろうと努めて表情筋を引き締める。そんな浮かれた心持ちでいたからだ。倒れ込んでくる人影に反応が遅れたのは。
「あ……、ごめんなさい」
軽い衝撃で俺の背中に衝突したのは見知らぬ女だった。十眞と同年代くらいであろうか。肩あたりまで髪を伸ばしたその女はもつれた脚を持ち直すと申し訳なさそうに頭を下げた。この暑さだ、貧血でも起こしたのかもしれない。その顔色はあまりよくないようにも見える。
「構わない。大丈夫か?」
「ええ。少しふらついてしまっただけで……」
しっかり立っているところを見ると問題はなさそうだ。女の様子を見るに外から帰ってきたという雰囲気なので家はこの階のどこかということになるだろう。女のほうも気まずそうにしていることだし、これ以上の心配は無用か。そうは思うのだが、直観的ななにかが警告を出す。
(なにか、違和感が)
怪盗を初めてからというもの、こういった第六感のようなものが研ぎ澄まされてきたような気がする。
俺はそそくさと立ち去ろうとした女を引き止めた。
「その鍵をどうするつもりだ」
女が、はっと目を見開く。その手に簡素な鈍色が握られているのを見、初めから女の目的はそれだったのだとすぐに理解した。
女が次の行動を起こすより、俺が動く方が早かった。生憎だが奪うことに関しては怪盗団として日々暗躍する俺の方が慣れている。力の差が分かっているのだろう。自分の手から鍵が奪い返されたことを知った女は逃走を選択した。さっきまでの頼りない足つきが嘘のように素早く立ち去っていく。そのあまりの変わり身に俺は追うことを忘れてしまった。凄まじい健脚だった。
──果たして女の正体は何だったのだろう。
スリと空き巣のハイブリッドだろうか。いずれにせよ鮮やかな手並みだった。
自分の家の前で起こったことくらいは伝えるべきだろうと、数時間後に帰宅した家主へ、俺は起こったことをそのまま言って聞かせることにした。
「なにかされたのか」
空き巣が徘徊してるかもしれないというのに十眞の第一声はそれだった。俺自身になにも問題はないことを告げてもなお深刻そうな顔のままだ。そしてポツリと一言零す。
「覚えがある」
「ではあれは知り合いだったのか?」
「知ってはいる。多分、間違いがなければ」
煮え切らない物言いだ。しかし知人だというならば無差別の物盗りではなかったということか。
十眞は依然として表情を強張らせながらジャケットを脱いだ。ことは俺が考えるよりも深刻なのかもしれない。彼はなにごとか考え込みながら次のように言葉を続けた。
「しばらくここには来ないほうがいいな」
「……それは」
十眞が俺の身を案じているのはすぐに分かった。彼はそういう人間だ。だが納得できない。何故見知らぬ女のために俺が身を退かなくてはならないのかという憤りが沸いてくる。せっかく合鍵を預けられるほどの関係になった矢先だ。その上、その女が十眞を狙って何かしらの危害を加えようというのならば尚更だった。
「せめて理由を教えてくれないか。あの女は何者だ?」
俺が食い下がると十眞はしぶしぶといった様子でデスクから何かを持ち出した。紙の束だ。視線のみで促され、机に広げられたうちの一枚に目を通す。横書きで引かれた罫線に沿って手書きの文字が整然と並べられている。手紙の体裁を装ってはいるものの内容自体は日記の断片のようだった。それが延々と続く。文字は綺麗なのだが話に脈絡がなくどうにも読みづらい。それでも根気よく読み進めていると、もういいだろと十眞が紙を取り上げてしまった。紙は見ただけでも数十枚は貯まっている。おそらくそれらの全てに至極一方的な文章が同じ調子で認めてあるのだろう。こんなものを目にするのは初めてだが、これは間違いない。
つまり、あの女は。
「ストーカー?」
「ここに越してきてからは音沙汰なかったんだが、ここ数か月でまた増えてきて」
淡々と言葉を補足する十眞の様子を見るに被害はそれほどでもないようだが。いや、なんてことない風にしていられるのは十眞だからかもしれない。詰まれた無機質な紙からは異様な迫力を感じる。
「それで律儀に保管してあるのか」
「状況証拠」
「なるほど」
話を聞く限り犯人の目星はついてはいるものの、こちらからどうこうする気はなかったらしい。ここから更に段階がエスカレートすることがあればこの証拠が法的に生きてくるというわけだ。適切な判断だと思う。
「そのうち飽きるかとも思ったんだが」
と、当の本人は危機感の薄いことを言ってのける。実際、十眞には女の存在は大きな脅威ではないようだ。だが、俺が出くわした女のあの行動。家の鍵を入手しようとしていたということは、彼にさらなる危機が迫っていることに他ならない。
「というわけだからお前はしばらく出禁だ」
「なにがというわけなんだ」
「……説明したろ」
苦々しげな顔をする十眞は言外に退けと言っている。説明しろとは言ったがそれで引き下がるとは言っていない。彼に害をなすかもしれない存在があるのに、そんな話をされて引きさがれるものか。
「女と話をしよう」
「祐介、何かあってからじゃ遅い」
十眞の声色は切実だった。俺を想う気持ちでできた言葉はダイレクトに俺を喜ばせたが、いまは喜んでいる場合ではない。
そもそも女は俺が一人の時をわざわざ狙ってきたのだから、十眞と会わないだけで安全というには根拠が薄い。女の行為が十眞への好意から生じているものならば、俺の存在こそが彼女にとっては許されざるもののはずだ。俺が主張するたびに十眞の半身は深くソファへ沈む。反論はどうやらないらしい。
「分かった、なんとか話をつけるからお前は……」
「同席する」
断言すると十眞は一層頭を抱えた。
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