6月4日(昼)

 息苦しさを覚え、俺は気取られないよう僅かにネクタイを緩めた。キナ臭い談笑は続く。〈先生〉がふと俺の方へ目を遣るので、俺は身なりを整える振りをしてやり過ごす。

「兎田くん、その顔の傷はどうした?」
「ええ、一昨日の晩に少し」
 敢えて言葉を濁すと男は言外の意味を察したようでニヤリと笑みを深くした。俺の顔にはあの夜揉めたときの傷がまだ残っている。唇の端にある傷跡は大きなものではないが、悪目立ちするらしかった。
「盛んなことは構わんがね、スキャンダル沙汰は勘弁したまえよ」
 この世界は弱味の握り合いだからな、などと宣いながらせせら笑う。俺は相槌を打ちながら、今日のスケジュールを頭で繰り返していた。仕事内容自体はどうということはない。しかし先述の息苦しさが纏わり付いてどうにも居心地が悪い。

(まさか、あんなことになるなんて。)
 余計なことに囚われている場合ではないのに、俺の頭は先日の出来事で占拠されていた。そう。あの不思議な雰囲気の少年に拾われた経験はいまだに思考から離れない。



 朝になり、俺はどこか茫然とベッドを見下ろしていた。
 ほぼ毎日自分が横になっているその場所に今朝は他人が居座っている。見知らぬ少年は目を伏して行儀よく寝息を立てている。身に起こったことを受け入れきれず、何度かまばたきを繰り返しても現状は変わらない。何回見たって素性も知らない少年が自分のテリトリーで熟睡している事実は変わらなかった。
 便宜上、「少年」と呼んではみたが、すやすやと規則的に呼吸を続ける彼は俺と大して変わらない背丈を有している。とはいえけしてガタイがいいわけではなく、どちらかというと身体を形成する線は細いし、顔色もあまり健康的とはいえない。
 ……ああ、いくらすっとぼけようにも昨夜のことはしっかり覚えているのだ。俺は昨晩彼に助けられた。

──あの夜、
 突きつけられた現実が受け入れがたく、腹に食らわされた痛みよりもこれからどうすべきかという失望感のほうが大きかったように思う。生気のない足取りで家の近くまで辿り着いたのはいいものの、そこから先はぱたりと歩みが止まってしまった。ああ。こんな場所で蹲ってはだめだ。人目を惹くのは極力避けたい。
 幸か不幸か。ぼんやりとした俺の思惑に反して、静まり切った街では男が一人倒れていたところで気にするような人間はいないらしかった。端から見れば泥酔している危ない男としか思われていないのかもしれない。それならばそれでいい。しばらくすれば立ち上がる気にもなれるだろう。

 だがそんな自暴自棄の気持ちもまた裏切られることになる。
 一人の人間が俺を救いあげたのだ。清廉な双眸と目が合うと、どちらともなく気の抜けた声が上がる。その穢れない色合いに俺は暫く見惚れた、のだと思う。
 俺の意識があることを確認すると、その『誰か』は躊躇いなく俺の身体を引き寄せて半分担ぐような形を取った。貸された肩は薄く、寄りかかってしまうことにこちらが躊躇ってしまうほどだった。
 普通、道端に男が転がっていたら行先は警察か病院だろうに、『誰か』はそういった素振りを見せなかった。こちらとしても事情があるので、そうならなかったのは幸いだ。俺が自宅の場所を告げると彼は細長い脚を使ってさっさと俺を連れて行ってしまった。

 そして一晩明けたのがこの状況である。
 まさか相手が未成年だったとは。

(未成年者略取……)
 リアルな罪状が頭をよぎる。これは完全に確認を怠った俺の過失であるのだが。無関係の人間に頼ってしまった報いだとでもいうのか。
 独身男の寝室で眠る未成年、というあまりにも揃いすぎた状況証拠に俺はたじろぐ。そもそも、運んできた側であるはずの彼がなぜベッドを占領しているのかといえば。
 俺はなんとか昨晩のことを記憶から引っ張りだす。正直、昨日のことは思い返すたびに頭が痛くなるのでなるべく回想したくないというのが本音だが、現実逃避ばかりしているわけにもいかない。

 このいかにも華奢であるように思える少年は、その外見とは裏腹に確かな足取りで俺を引き摺りきった。俺も完全に意識がなかったわけではないが、大の男を運ぶ労力は想像に難くない。
 だからだろうか?家の敷居を跨ぐやいなや、俺を支えていたか細い身体は突然床に倒れ込んだのだ。
 そこからはまるきり立場逆転だった。俺はなんとか奮起して彼をベッドに転がすと自分は適当にソファの辺りで意識を手放した……。
 以上が犯行の全容である。思い返すだに言い訳のしようがないが、当事者の一人は相変わらず安らかに寝息を立てていた。

(それにしても寝入りすぎじゃないか?)
 今すぐ叩き起こしてやるべきかとも思いはするのだが、こうも熟睡されるとそれも憚られる気がしてくる。青白い肌はおそらく自前のものであろうが、しかしそれにしても血色がよくないな……。その輪郭へ、思わず触れてしまいそうになった指先を咄嗟に引っ込める。危ない。事案発生だ。

──ここで頭を抱えていてもしかたがない。
 ひとまず俺は目下の心配事を横に置き捨てることにした。昨晩から着たきりのスーツをいい加減脱ぎたくなってきたというのもある。この様子だと相手はしばらく起きそうにない。目を覚ましたあとに彼がどんなリアクションをするにせよ、よれた格好のままでいるよりはマシだろう。
 早足でシャワーを浴び、髪を乾かすのに10分。そこからささやかな朝食を作り上げるのに更に10分。男の一人暮らしなので大した食材はなかったが、あるものをかき集めて見てくれだけでもなんとか体裁を保った。もとより大概朝はトースト派なのでパンだけは気に入りのものを常備している。サラダは一人分の使い切りパックを二等分したので少し量が少ないが、副菜をいくつか見繕えたためそれほど目立たないだろう。
 朝から他人が食べる想定で食事を作ることなど久しぶりだ。ぼんやりと余計な考えが浮かんだころ、視界の隅で布団が蠢く。どうやら起きたらしい。さて、どうなるか。

 少年は長い睫毛がびっしりついた瞼を何度か開閉して状況を飲み込もうと努めているようだった。しかしそれも初めの数秒で、二三言葉を交わすとすっかり落ち着いたようで、用意した朝食もなんら抵抗を示さず手をつけた。目覚めたらてっきり昨夜のことを根掘り葉掘り訊かれるかと覚悟していたが、そんな素振りも見せない。
 黙々と飯を食らう少年を前に、俺はいつも通りの風体を装いながらテレビの電源を点けた。まるで拾った野生動物を刺激しないように徹するのと似ている。拾われたのは俺の方なのにこんなことを思うのはおかしいのだが、彼の雰囲気がそう思わせるらしい。
 それから俺たちは互いに名を名乗りあった。彼──喜多川祐介がこちらを必要以上に詮索する気がないのは都合がよかった。

「ところで、様子から察するにひとっ風呂浴びたようだが」
 そう言って喜多川少年は神妙な顔をしてみせた。ところで、なんて言ったって、話が切り替わりすぎじゃないだろうか。そのまま彼の言葉は、俺も湯を借りていいだろうか?などと続いたものだから俺は驚いてしまう。
 確かに一晩ぶっ倒れた翌朝だし、その欲求は大いに理解できるのだが、あまりに警戒心がなさすぎるのでは。
 俺は少々面食らいながらも了承した。喜多川少年は破顔する。

「有難う。いい奴だな、十眞」

 あまりに屈託無く笑うものだから、当然のように呼び捨てされたことに関しては訂正するタイミングを逸してしまったのだった。
 その日は平日だったこともあり、喜多川少年は朝のうちに出て行ってしまった。それでいい。奇妙な出逢いだったが、もう会うこともないだろう……。

 ……そう、思っていたのだが。

 課せられた仕事を手早く済ませ、帰宅したさきに俺を待ち受けていたのはあの日と真逆の状況だった。
 薄暗く電灯が燈る玄関先に転がる影に目を凝らす。つまり、俺の家の前であの日の少年が蹲っている。
 それなりに労働してきたあとなので相応に夜も更けている。彼の服装は制服のように見えるが、一体何時間待っていたのかと考えると恐ろしい。謎の白い影の正体に気付いた瞬間、俺の歩みは止まってしまう。それはそうだろう。なんでお前ここにいるんだ。

「忘れ物でもしたか?」
 ひとまず一番現実的な問いかけをすると、俯いていた顔が真上に上がる。日常生活に支障があるのでは、と邪推するほどに長い脚を折り畳んだ体育座りの姿勢をとっていたのが一息でしゃんと背筋が伸びる。
「十眞、」
あ、また呼び捨てされた。
.