8月16日

 家の中から不審な物色音が聞こえ、俺は耳を澄ました。玄関から続く廊下は明かりが消えているが、リビングへ続く扉から僅かに光が漏れている。
 先客の気配に思わず身構えてしまったのは先のストーカー騒ぎのせいだろう。改めて玄関を確認すると、そこには学生靴が一揃え並んでいた。

「祐介、来てるのか?」
 家を好きに使っていい、と俺が言った通り、現在夏休み中でもある祐介は家主が不在だろうと構わずここを避暑代わりに使っている。来るときはたいていスマホで連絡をくれるのだが、それはあちらが自発的にやっていることなので毎回そうとも限らない。

 廊下を渡りリビングへ進むと、やはりそこには祐介の背があった。俺の声に反応して振り返った彼と顔を合わせる。ぱき、と何かが割れる音がして俺は彼の手元を見た。小型のチップのようなものが祐介の手により真っ二つにされている。

「ああ邪魔している。今日は少し早かったな?」
「いやそれはいいんだけど、お前それ……」
 会話を交わしながらも彼は自分の手の中にあるものを入念に破壊していく。板チョコでも砕くかのようにあっさり破片になったそれが何なのか、俺は遅れて気が付いた。きっと盗聴器の類だ。先日顔を合わせたばかりの女を思い出す。仕掛けた犯人を改めて訊くまでもない。まさかそんなものまで仕掛けられていたとは。そのことに気が付かなかった自分を情けなく思うよりも驚きの方が勝る。
「これと玄関先にあったカメラも除いておいた」
 愕然とする俺に祐介は淡々と説明を寄越した。ことの重大さに比べ、落ち着き払った祐介の様子が異様にも思え、俺はただ視線を返した。
「彼女と接触したのか」
 こういうとき、つい尋問するような強い音が出てしまうのは前職の癖だ。嘆かわしいことに盗聴機器の進化は目まぐるしく、それを見つけるなんて専門家でもない限り困難だ。祐介の行動は彼がそれを仕掛けた犯人から隠し場所を聞いたのだろうことをそのまま証明していた。
 あれだけ冷静だったのが一変し、途端に口をぱくぱくさせるだけになった祐介をひとまず近くのソファに座らせる。

「説明してくれるな?」
 祐介がしどろもどろに語るには、あのあと彼女に会い、説得に成功したということらしい。確かに単独で接触するなとは言ってなかった。釘を刺しておかなかったことを悔いても遅い。彼女と最後に会ったときのことを反芻すると、あれが説得だけでなんとかなるようにはとても思えなかった。祐介はあまり理論だったタイプでもないし……。
 そう疑いの気持ちを抱いても起こったことを確認することは出来ないし、実際彼が仕掛けられた盗聴器を破壊しているのだから、何らかの形で祐介が彼女を説き伏せたのは確かだろう。
「心配するな。もう彼女がお前に関わってくることはない」
 深い溜め息をつく俺を見かねたのか、祐介はそんな見当違いなことを言う。
「馬鹿、そうじゃない。危険なことすんなって言ってるんだ」

 祐介は怖いもの知らずだ。常人なら踏みとどまるところを平気で突き進んでいくところがある。多分、それは祐介がこれまで身に降りかかるものを全て自分の力だけで対処してきたせいだろう。だからこそ変わってもらわなければならないと思う。
 ひとまずはもう一度彼女に会って、事実確認をする必要がある。もし祐介の行動で余計に問題が拗れたことになっているとすればかえって放置しておくのは危険だ。

「……いや、彼女に会うのはやめてくれ」
 俺の考えに祐介が釘を刺した。彼が明確にこちらを否定するのは珍しい。彼は何か考えながら、ひとつずつ言葉を発していく。
「俺が無理矢理想いを捨てさせたようなものなんだ。だが、誰かを想う気持ちがなくなることなんてきっと普通はあり得ないだろう。やっとそれが出来たのに、また会うだなんて、彼女にとっても残酷だ。……十眞が彼女の想いに応えるつもりというなら、話は違うが」
 最後のほうは消え入りそうな声で言った。祐介のいたましいほどの真剣さは俺にはないものだ。それを向けられると、俺の考えなんて一切合切野暮なもののように思えてくる。本当なら、祐介のことを想うなら、今回の件を彼に任せたまま終わらせるのはけして得策ではない。

「……もうこれを聞いてるのはお前しかいないんだよな?」
「ああ、この家にもう脅威はない」
「そうか」
 祐介がきっぱり断言するのを俺は頷きとともに受け入れた。そんな俺の様子を見ている彼の目は不安げに揺れている。先に起こることよりも、いま彼にこんな顔をさせるほうが問題だ。
「祐介、頑張ったんだな。有難う」

 手段が突飛だったとはいえ彼が身体を張ったことは確かだ。ただ、俺のために。それを想うと俺は自然と彼へ手を伸ばしていた。触れる場所を少し迷って、手触りの良い頭に着地する。背丈は俺の方が数センチ大きいが、こうしてお互いに座っていると然程目線に差はないようだ。年下を労うように触れようとしてもすんなりとはいかない位置にある頭を手のひらで軽く撫でる。

「彼女には会わないよ。お前がいるから、会わない」
 言い聞かせるように声をかけると祐介は緊張を解いて小さい息をついた。今回の件は彼の奮闘に免じてこれ以上追求するのはやめよう。事実、俺だけではどうしようもなかったはずだ。
「一応、今度業者には見てもらうけどいいか?」
「そうだな。十眞が安心できるのが一番だから、それがいいだろう」
 そう言いながら祐介には一片の憂いもないようで、満足げな表情で俺の手のひらが行き来するのを受けている。以前散髪した時も思ったが、祐介の頭は触り心地がいい。
 口を噤んだままこちらを見詰める彼の強い眼差しと目が合う。俺をただ慕うばかりのものじゃない。その瞳の中に確かに存在する熱を感じ取り、俺は堪らず彼から身体を離した。

「熱いな、今日」
 あからさまな話題転換を、祐介は目で追うだけで見逃した。俺たちの間で生じる熱以上に今日の気温が高いのは本当のことだ。今夜も相当な熱帯夜になることが予想される。ここのところはずっとそうだ。それなのに何度言っても祐介は遠慮して冷房を使わない。元々エアコンのある生活に慣れていないからか、寝て起きるだけのことに電気代が勿体ない、とか馬鹿なことを主張してきかないのだ。俺だってある程度は個人の好きにすれば良いと思うが、最近の暑さはそういった度を越している。
「……お前も寝室で寝るか」
 祐介の両目が見開かれる。寝室には一人分のベッドしかないが床に布団を敷くくらいのスペースはあるのだ。それを分かっていて、いままで彼にはリビングで適当に寝泊まりをさせていた。それがどうして今日になってそんな提案をしたのかといえば、それは単に猛暑のせいだけではない。
「い、いいのか!? 本当に!?」
 切り出したのはこっちなのに、祐介の喜びようはどことなく波乱を予感させた。

 

 寝室へ布団一式を持ってこさせると部屋はすぐ手狭になった。寝床なんて、家の中でも最もプライベートな場所と言っていい。俺は感じた余計な気恥ずかしさに蓋をする。とにかく今日は祐介に弱冷房設定のまま寝ることを慣れさせるのが第一目標だ。ベッドからの一段高い位置から見下ろすと祐介は大変落ち着かない様子で枕の置き場所を何度も変えていた。

「十眞……、」
 敷布団の上を行き来した枕は結局適当な場所に放られた。どこか懇願するような声色で祐介が俺に呼びかける。思わずぎくりとした。寝室に通すのは早まっただろうか、やっぱり。

「さっきの……、その、もう一度頭を撫でてほしい……」
「え、頭?」
 懇願は懇願でも祐介の口から飛び出したのは予想とかなり違う要求だった。
 俺が戸惑うのも構わずに祐介は俺が座っているベッドの上に顎を乗せた。ちょうど撫でやすい位置を陣取ったつもりらしい。これじゃ子ども扱いを通り越して犬か猫のようじゃないか?と思うが、祐介に気にする素振りはない。

「こういうの、普通は嫌じゃないのか?」
 高校生なんて微妙な年頃なら余計にそうだろう。面喰らいつつ尋ねながらも、俺は撫でられ待ちを決め込んでいる祐介に触れてしまう。直毛が指の隙間を通って滑り落ちていく。尋ねてはみたものの、返事を聞くまでもなく祐介の表情はいつになく雄弁だった。

「いいんだ。俺が子どもなのは事実だし、十眞にそういう風に接されるのはいい」
 ……いまの絵面はわりと子ども扱い以下だと思うが、それは黙っておく。
「寧ろ子どものうちだけということなら、俺は余すことなく享受したい。それ以外のことは今後機会があるということだからな」

 低く呟きながら祐介は微笑んでみせる。彼の言い分は俺たちの関係がずっと先まで続いていると疑いもしていないようだ。懐っこく手のひらに擦り寄りながらも、祐介はこういうところが結構強かなやつなのだった。