「……おイナリのくせに私をダシに使ったな……」
目線の下の方で双葉が恨みがましく俺を睨みつけた。外は快晴。疑いようもなく真夏の陽気である。
偽アリババとの戦いを終えた俺たちはそこで佐倉氏と彼が匿っていた少女、双葉の秘密を知った。これがなんとも予想外の食わせ者で、双葉の正体が真のアリババだっただけでなく、パレス攻略後はあっという間に彼女の名を騙っていたハッカーを逆探知したのち勝利したのだった。
双葉はその過去から対人恐怖症を患っていた。彼女を苛んでいたパレスへ侵入し、ともにそこからの解放を果たしたからか、双葉は俺たちには心を許してくれている。深層心理の深くまで見せた相手にいまさら隠し立てすることもないということだろう。アリババの一件が終わったあと、双葉が現実の世界でも外へ出れるように特訓が始まった。数日の成果で、俺自身もかなり双葉とは打ち解けられてきたと自負している。しかしながら彼女の恐怖心がもっとも強いのは不特定多数の他人、そして大人の男だった。それを乗り越えない限り克服したとは言い難いだろう。
「ずいぶん変わったあだ名だな」
別に名前のもじりってわけでもないよな、と俺の隣で十眞は暢気な声を出した。その低い声色に反応するように双葉は暁の後ろに小さな身体を隠す。
「ああ。狐だからな」
「狐? なにが」
「いやいやいや馬鹿野郎かよ」
やりとりをする俺たちの間に竜司が口を挟む。双葉だけでなく、暁を除いた全員が十眞を遠巻きに見ていた。
あちこちから人々の賑わう声が聞こえる。絶好のロケーションのなか、俺たち怪盗団メンバーは近場の海へ訪れていた。今日はそこへ十眞も連れている。そう。十眞と海。大事なことなので何度も言う。十眞と海に来ているのである。
これはレジャーを兼ねた双葉の対人特訓の一貫だ。いくら特訓と言ったって、一方的に無理を強いるばかりではかえって逆効果になることもある。少しずつでも人と接することにポジティブになってほしい。誰ともなく海へ行こうと話題があがったのは素晴らしい提案だった。
それに、気が付けば夏休みも終わりが近いのだ。今年の夏は例年とは比べ物にならないほど忙しく、夏祭りにピラミッド攻略と非常に充実したひと月だった。だが敢えてその中で足りていない夏の風物詩をあげるとすれば、そう、海水浴に違いない。双葉も俺たちと一緒にいるうちに自信が付いたのか、それほど及び腰ではないようだ。大海原へ想いを馳せる。
「十眞と海へ行きたい……」
と、思わず想像したことを言葉に出してしまうと、企画会議中の仲間たちが一斉に俺を見た。
「出たよ、祐介の十眞サン病」
メメントスで協力を受けたこともあり、十眞の存在は怪盗団全員にはすでに知られたものだった。そのことでつい俺も気を抜いてしまったのかもしれない。
「リーダーとモルガナは会ったことあるんだよね? その、十眞さんってひと」
「ああ。かっこいいひとだったぞ」
「ふーん……」
流石暁は見る目がある。気を良くする俺とは対照的に杏の表情は翳る。
「ま、まさかアン殿、そいつがイケメンだから気になるのか!?」
「違うっつの! そうじゃなくて、ちょっと心配っていうか」
机の下からにゅっと頭を出したモルガナを杏は片手で押し戻す。
「どういうことだ?」
「え。うーん、なんていうか……だって、相手は大人なわけでしょ」
「杏の言うこと私も分かるかな。祐介、ちょっと周りが見えてないときがあるから……」
杏のみならず真までそう言うのはかなりおおごとだ。二人の境遇を考えれば心配するのも理解できるが、十眞はそんな疑惑を受けるような男ではない。しかしそれはこの場で言葉を駆使しても伝わるものではないだろう。
すると、それまで無言で耳を傾けていた双葉が音もなく近付いて言った。
「……ちょっとその話詳しく……」
双葉に十眞を会わせること自体は荒療治のようにも思える。しかし彼を引き合わせることはあまりに都合が良かった。仲間たちは兼ねてから十眞に対して思うところがあったようだし、俺も彼らに要らぬ心配を抱かせたままなのは良くないと思っていた。
そうした二重三重の思惑から十眞へ声をかけ、双葉のことを掻い摘んで伝えると、彼は真剣な面持ちで了承してくれたのだ。そして照り返す日差しの中、こうして仲間たちの視線を一斉に受けているのである。
「やっぱ、なーんとなく利用された感があるんだよなー」
「双葉だって気になってたじゃん!」
「それはそうだけどさー!」
輝かしい水着に衣装替えした女子組が騒ぎ立てる。
「……君ら、俺のこと一体どう伝えられてるんだ」
「祐介ですよ。隠し事なんてできませんよ」
どことなく暗い声で十眞は唯一の知り合いである暁へ話しかけた。知りたいことならなんだって俺が伝えてやるのに、と思わなくもないが暁の洞察力は疑うべくもないので仕方がない。
「というか十眞、水着はどうした?」
目的地に着くなり各々持ち合わせた水着へ着替えたはずなのに、十眞ときたら行きに着てきたシャツ姿のままだ。いや、それもいいんだがな。飾り気の少ない服装だが、だからこそ余計に彼自身の容姿が際立つ。それもいいんだが、特別な場にはそれに適した装いというのがある。二人で夏祭りへ出向いた際のことが過り、俺は縋る想いで十眞を見た。震える俺と目が合うと、彼はばつが悪そうに目を伏せる。
「悪い。持ってきてない」
「何故だあああああああ」
「祐介うっさい!!!」
彼曰く、保護者役に徹するつもりだったから、ということらしい。確かにこうして高校生に囲まれていると完全に引率役にしか見えない。それが彼の責任感の強さからきているとすれば俺も安易に咎めることはできなかった。
「この時期は人も多いしな。ここで荷物番でもしてるさ」
「マジすか、あざーす!」
臆面もなく言い放つ竜司を睨む。
「んだよ仕方ねえだろ。水着ないなら海には入れねえんだし。折角言ってくれてるんだし?」
「だとしてもだ」
こうなったら俺も今日は一日このパラソルの下から離れないぞ。そう決意する俺の肩を暁が掴んだ。
「じゃあ祐介連れていきますね」
「ああ、頼むよ」
言いながら、ぐいぐい引っ張られる反対側の肩を竜司が押す。俺の身体はわけも分からないまま十眞から離されてしまう。
「何をするんだ!」
「祐介が付きっきりだと双葉が十眞さんと話すタイミングがなくなるだろ」
暁の言う通り、俺たちが離れたあと、十眞は女子組からなにやら会話をしかけられているらしかった。不意に視線をあげてこちらに目を向ける。自分に構わず行ってこい、とでも言うように軽く手を振り、笑いかけた。その光景は日差しもあいまってあまりに眩しい。
「それにお前はもう少し引くことも覚えた方がいいと思う」
「それな。必死すぎ。見てて怖ェから」
両側からの声はいやに真剣みを帯びている。竜司はともかく暁にまでそう言われてしまうとは。確かに色恋には駆け引きが必要だという通説を聞いたことがある気がする。
「だが、これだけ人がいる中で置いていっては、きっとよからぬ輩に邪まな目をつけられてしまう……!」
「オメーが一番ヨコシマな目で見てるから安心しろ」
抵抗もむなしくずるずると引きずられていく俺。
仕方なく、男三人で連れだってひと泳ぎしてから浜辺を戻ると杏が今夏一番の溌溂さでやってきた。
「男子集合! いまからビーチボールやるよ!」
と。その傍らで双葉はいつのまにかカップ焼きそばを啜っている。聞けば熱湯を求めて十眞と二人で海の家まで行ってくるミッションをこなしたあとらしい。それを聞き、十眞が単にパラソルのもとで待ちぼうけていたわけではないことに少し安心する。暁の読みは正しかったらしく、彼と双葉の間にはまだ距離が見られるものの空気感はそこまで悪くないようだ。
「十眞さんが勝ったチームにトロピカルフロート奢ってくれるって」
「なんだそれ?」
「フルーツとかが乗ってるなんか派手なやつ。一番お高い値段が書いてあった」
双葉が言うには海の家で熱湯を借りたついでにちゃっかりリサーチしてきたらしい。
「男子チームと女子チームで対決ね!」
「いやそれ、泳ぎ疲れた状態の俺たちに言うのかよ!」
「だからじゃん。絶対負けらんないし」
男子チームにはモルガナ入れてあげるし、と甘いものに目がない杏の瞳は闘志に燃えている。
「猫じゃん!!」
「猫じゃねえ男子だ!!」
十眞と同じく、ほとんど荷物番をしてたはずのモルガナが毛を逆立てた。
試合の結果は杏の策略勝ちだった。モルガナもやる気は十分だったのだが、いかんせん小型動物に足元でうろうろされるとうまく動けない。そこに真の強烈なスパイクが決まる。このパターンでほとんどの点数を取られてしまった。
「お疲れ」
結局、勝利を収めた女子組だけでなく十眞は俺たちにもそれぞれ飲み物を買ってくれた。俺はそれに礼を述べて、よく冷えた容器を手ずから受け取る。水分補給と、小一時間ぶりの彼との距離感にほっと息をつく。全力で身体を動かした怪盗団メンバーはみなやりきった顔つきで各々寛いでいた。
「杏たちと何を話していたんだ?」
気になっていたことをそのまま口に出すと十眞は少々言いよどんだ。
「あー……、お前とのこととか、色々と詳しく聞かれたかな」
海水浴をするでもなく、炎天下のビーチで初対面の相手から質問責めに遭ったとはなんて災難だろう。そのうえ俺は彼を放って好き放題遊んでしまったわけだし……。そうは思っても十眞は機嫌を悪くする素振りもなく、むしろ穏やかな声で言う。
「みんなお前のことが大切なんだろう、いい友達だ」
それを呟くように言葉にするので、余計俺の気持ちは掻き乱れる。十眞のこの性質が少しでも杏たちに伝わったならもう心配はいらないだろう。自分に大した得もないのに、彼がこうして俺たちに付き合ってくれていることに感謝しなければ。俺が彼の善意を有り難がると十眞は表情を少し強張らせた。
「何の得もなくってのは少し違うな」
「そうなのか?」
彼の言葉は俺にとって意外だったが、それならそれで全く構わない。十眞も実は海に来たかったのだろうか?
「だってお前、あの子たちがいくら不審がってても俺と会うのはやめないだろ」
それはそうだ。既にあり得ない仮定になってしまったが、仮に仲間たちの理解が得られなくても俺の気持ちに変わりはないからな。
「だからせめて自分の潔白くらいはな。そういうのが理由でお前が俺と会い辛くなるのは困るし……」
思わずまじまじと見てしまうと、ばっちりと目が合った。十眞はいつだって俺の希望をまず考えてくれる。だから今回のことだってそういうことなんだと思っていたのだが……。彼にとっては俺と会うことが少しでも得になると、そう思ってくれているのだろうか。その真意を探すように彼を見ていると、沸々とした感情が沸きあがってくる。俺はたまらず両腕を大きく広げた。
「十眞……っ!」
途端俺の視界には硬い甲羅が現れ、彼との間を阻んだ。さきほど俺がその造形に惚れ込み、有り金叩いて購入した伊勢海老だ。それを割って入らせたのは他でもない十眞である。彼は卓越した反射神経で俺からの接触をすんでで阻んだのだった。
「お、すげえ。伊勢海老ガードだ」
仲間の誰かが茶化すように言う。それ以外にも無言の視線たちが注がれているのを感じつつ、そんな中で伊勢海老越しであろうとも損なわれる様子がない十眞の造形を見つめ続けた。
「これ、持って帰るつもりか?」
彼の手の中で呼応するように海老が跳ねる。仲間たちにも散々言ったが、この海老は鑑賞用であり、いまこの場で食べるつもりはないのである。
「二尾とも?」
「二尾とも」
即答する俺に十眞は少し考えて、持参していたクーラーボックスを持ってきた。確かにここから海老をどうやって持ち帰るかまでは考えていなかった。
「ギリギリ入りそうだな」
「誂えたかのようだ、流石十眞」
箱に詰められた海老は少々窮屈そうではあるものの、これで持ち運びには問題ないだろう。十眞のこういった機転にはいつも感心させられる。
「なんだあの会話……」
「おイナリェ」
俺たちのやり取りを眺めている仲間たちの声が聞こえる。どうやら十眞に対する警戒心はかなり薄らいだらしく、俺はひと安心するのだった。
.