9月10日

 駅の一日利用者数の世界ランキングはほとんどこの国が席巻しているのだ、と聞いたことがある。ちなみに渋谷駅は新宿に続いてそれの第二位だ。これが日常の身としてはあまり実感のわかない話ではある。何が言いたいかというと、それだけ行き交う人間の数が多いということだ。だから偶然顔見知りに出遭う確率だって高くはなるはずである。

「十眞さん! こっちです」
 喧噪から飛び出したその声に俺はつい足を止めてしまった。はっきりと俺の名を呼ぶ声は幻聴なんかじゃない。帰宅する人々の流れを縫って、一人の若者がこちらへ手を振ってやってくる。
 俺と同じで、たいした感慨もなく決まった通勤、通学ルートを移動するだけの群れたちはイレギュラーな動きをする彼に迷惑そうに目を遣るが、すぐにその人物に思い当たると今度は彼を避けるように皆道を譲った。爽やかな笑顔を携えて小走りする明智吾郎を中心にして群衆が真っ二つに割れていくさまはいっそ壮観だ。それが俺の方へ迷わず迫ってくる。
「……明智くん」
「はい。奇遇ですね、いま帰りですか?」
 彼から発される奇遇、という言葉は何気ないもののはずなのに、あまりに不釣り合いなように思えた。だが、行動範囲が被っていればそういうこともあるだろう。明智くんの動きをしばらく見守っていた人波たちは彼に呼び止められる俺という一般人をじろじろ見ると満足したらしく、大半はまたいつもの流れに戻っていった。立ち止まって明智くんに視線を送り続けている子たちはきっと彼のファンだろう。

「急に駆け出すから何かと思えば……、業界関係者?」
 明智くんの傍らには見知らぬ女性が立っていた。キリリとした仕立てのいいスーツに身を包み、訝しげな視線をこちらへ寄越す。年齢だけ見れば彼とは少し歳の離れた姉弟のようにも見える。
「あ、紹介しますよ」
 こちらから挨拶をするまでもなく、俺が口出しするよりも先に気を遣ったらしい明智くんが言う。しかしその提案を彼女は冷ややかにあしらった。
「いいわ、もともと今日はもうお開きにする予定だったでしょう。何か新しいことがわかったらまた連絡を頂戴」
「はーい」
 そう言うと彼女は俺には少しの関心も向けずに群衆の中へ消えていった。明智くんも明智くんで、不気味なくらい物分かりが良い。

 明智くんは彼女のヒール音が消え去るのを見送ると、くるりと俺の方へ向き直った。
「気を悪くしないでくださいね。僕がちょっと彼女の機嫌を損ねてしまってたもので」
 まあ、でも彼女の場合はあの態度がわりとデフォルトかな、と彼はちっとも気にしていない様子だ。
「彼女、新島冴さんって言って、事件の捜査で協力させてもらってるんです……ああ、別に変な仲じゃあないですよ」
「それは見たらわかる」
「うわ、微妙な返答ですね」

 その新島さんという人のことは知らないが、いまのませた軽口を聞かれてただで済むような相手ではない気がする。確かに彼女の纏うピリッとした雰囲気は初対面とは思えない、俺にとっては懐かしい種類のものだった。捜査関係者だというのならおおいに納得できる。

「ここのところ、怪盗団の評判は鰻登りでしょう? あんまりテレビで余計なことを言うなってお叱りを受けちゃって」
 そう言ってはにかむ明智くんの表情にはいつもほどの活気はない。その表情の理由はあえて聞くまでもない。怪盗団の人気が若者のみに収まらなくなってくると、いままで批判的な立場だった人間も手のひらを返すようにさえなってきたというのに、彼は断固として法に則った正義を訴え続けている。いまの状況は悪目立ちという他にない。新島さんという女性が心配するのは当然のことだった。
「捜査がしにくくなるからですよ」
 俺の憶測を明智くんは歪な半笑いで否定する。それも一理ある。なんにせよ、俺が口出しする話ではない。そう思い、再び明智くんに目を遣るといつの間にか普段通りの完璧な笑顔がそこにあった。

「僕、これから立ち寄りたい場所があるんですけど十眞さんもついてきてくれますよね」
 完全にこのあとの流れを算段に入れた表情だ。
 渋谷はもはや明智くんにとってアウェーのフィールドである。怪盗団とは相反する立場の彼への世間の反応は炎上といっていいほど熱をあげていた。駅構内の隅で立ち止まって小話をする俺たちに向けられる視線は好意的なものばかりじゃない。この中に自ら飛び込もうなんて無謀な考えだ。少なくとも彼ならばもっと利口な選択はいくらでもできるはずである。新島さんは腕が立ちそうな人だった。彼女でなくとも、大人がついているのとそうでないのでは危険度は大違いだろう。いま明智くんの目の前にいるのはそんな彼女の代わりだ。
「察しのいい人、好きですよ」
 頭のいい彼にとって沈黙は肯定だ。そんな流れで拒絶しきれなかった俺は、再び人だかりを割っていく彼についていくこととなった。

 日が落ちたからといって渋谷の街の活気が減るということはあり得ない。むしろ様々な目的の人が溢れるこの時間が一番人通りが多いとさえ言える。
 なんと明智くんの目的地はスクランブル交差点を越えたすぐ先のゲームセンターにあった。雑踏の喧騒はがちゃがちゃしたデジタル音に代わる。とても聞き取り切れないような音の中を俺と明智くんは進んでいった。
「来たかったのって、ゲーセンか?」
「別におかしなことじゃないでしょう。まだ条例に違反するような時間でもないですしね」
 明智くんはすんなりとそう言って、一個の筐体の前で立ち止まる。銃型のコントローラーが付属されたガンシューティングゲームだ。

「はいどうぞ」
 例のごとく俺の意見は無視され、さも当然のようにコントローラーが手渡された。形はそこそこ精巧に作られているが、見た目にそぐわずあんまり軽いもので思わず取り損ないそうになる。

「あはは! 十眞さんが持ってると様になりすぎて逆にコスプレっぽいですね!」
「なんで俺もやることになってるんだ」
「やだな。一人でゲームする趣味ないですよ、僕」
「そういうこと言ってるんじゃなくて」
 言ったところで俺が納得するかどうかは問題にはならない。明智くんはなぜかノリノリで、彼の操作によって液晶画面は次々切り替わっていく。
「協力プレイもあるみたいですけど対戦でいいですよね?」
「聞く気がないなら訊くな……」
 どうやらぶっつけで操作を理解するしかないらしい。大真面目に付き合う義理もないといえば、ないのだが。彼が勝手に投入した百円玉を無駄に浪費するだけというのも決まりが悪い。
 幸い、内容は湧いて出るゾンビを撃っていけばハイスコア、というよくあるタイプのシューティングのようだ。探り探りでもなんとかなるだろう。

 派手な音が鳴って、ゲームが始まる。そろそろ四方八方から聞こえるゲーム音にも耳が慣れてきたころだ。二分割された隣の画面では明智くんが正確に弾を撃ち込んでいっているのが見える。うまく立ち回るほど先のステージに進めるようだ。
「あれ、こういうところ実は結構来てました?」
「ゲーセンくらい俺が学生の頃にもあったよ」
 撃たれたゾンビの叫び声を聞きながら俺たちは軽口を叩く。実際こういう場所に来るのは本当に学生以来だ。だが10年の月日はゲームの進化のためには長い時間だったらしい。などと、ちょうどゲーム画面の進化っぷりに目を見張っていたときだったので露骨に老人扱いされたようで傷つく。俺の些細な感傷に興味のない明智くんがそれ以上踏み込んでくることはなかった。
 隣からひと際派手な音が鳴る。彼の方は最後のステージまで進んだらしい。俺もさほど手間取ってるわけではないのだが、やはり十代の反射神経にはかなわないのか、それとも彼の持ち前のセンスだろうか。横目で確認すると、明智くんの目には何の感動もなく、ただ液晶の光を反射している。それを見て、俺は何か思うところがあった。そっちから誘っておいて、その作業一辺倒の態度はどうしたことか、とか多分そんなところだ。だがその想いは形になる前に消し飛んだ。

──真っ赤な何か。それがこちらへ向かって飛び込んできたのだ。
 明智くんの肩を引っ掴んでそれから遠ざけたのはほとんど反射的なものだった。不意のことで簡単に崩れてしまったバランスを、彼は脚に力を入れて立て直す。放り込まれたそれは軽い音を立てて、間に割って入った俺の身体に衝突した。するとそれは炸裂し、中から蛍光色の液体が零れだす。
 カラーボールだ。防犯用に使われるやつ。すぐさま飛んできた方向を確認すると男が数人走って逃げていくのが見えた。

「待て!」
 繁華街まで出られては逃がしてしまう!咄嗟に声をあげた俺の肩を、今度は明智くんの手が掴んで引き留める。

「十眞さん、」
「いいから君はここにいろ!」
「いえ、そうじゃなくて。……ゲームオーバーになってます」
 こんな状況なのに落ち着いた様子の彼に促された先では俺のほうの画面は真っ暗になっていた。カラーボールを退けたっきり、コントローラーは放り棄てられたままだ。だがそれが一体なんだというのか。

 さっきの襲撃は間違いなく明智くんを狙ったものだった。にも拘わらず他人事であるかのように笑顔を張り付けた彼を見ていると、カッとなった頭が冴えていく。
「こういうことが起こるってわかってたのか」
 つまり、そういうことだろう。この渋谷での自身の評価を彼は理解していたはずだ。それをこんな薄暗く、人手の多い場所にのこのこやってくるなんて、わざとらしく餌を撒くような行為だった。

「今日こうなるとまでは。大丈夫です、犯人の当たりはついてますし。そこの監視カメラに一部始終も映ってますよ」
 明智くんの涼しげな口ぶりは、はじめから全て織り込み済みだったことを示していた。店内で起こった事件に、店員が大慌てでやってくる。事情を説明すればすぐにカメラに映されたデータを見せてもらえることだろう。俺も彼の思惑通り、うまいこと使われてしまった一人ということになる。感心するよりも急激な馬鹿らしさが先に立った。しかしこんな物理的な実害が及ぶほどとは、怪盗団盲信者もいよいよ、という感がある。
「いくらでもひっくり返しようはあるけどね」
 あまりに被害者らしからぬ余裕綽々の物言いに、呆気に取られた俺の視線を感じると、明智くんはそれをはぐらかすように言葉を続けた。

「ジャケット、だめになっちゃいましたね」
 彼が言葉で誘導するのに従い自分を見下ろすと、ジャケットの肩から肘の辺りまでは蛍光塗料がべったりと付着してしまっていた。確かにこの汚れはクリーニングでなんとかなるものじゃないだろう。
「弁償しますよ」
 仕方なくジャケットを脱ぎ、適当に折りたたんで抱える俺を観察しながら彼は言った。
「今回のは事故だろう。君のせいじゃない」
「でもここへ連れてきたのは僕の都合ですし。そうですよね?」
 反射的に断ってみてもすぐに食い下がられる。当然、俺は遠慮しているわけではなく本心から拒絶しているのだが、きっと明智くんもそれくらい承知で言っているだろうからたちが悪い。
「もしかしてお金のこと気にしてます? 多分貴方より稼いでますから心配いらないですよ」
「そりゃ、まあ……そうだろうが」
 いっそそれがなければ体(てい)よく断れるものを。
「というか、そのまま街に出たら捕まっちゃいますよ……。ああ、僕さっきの映像を見せてもらってきますから、少し待っていてください」
「お、おい、明智くん」

 スタッフから呼び出されたらしい責任者らしき人物を遠目で認めると、明智くんは正論ばかり吐き出してさっさとそちらへ歩き出してしまった。
 本来、一介の探偵を名乗るだけの少年に情報開示の義務はない。それこそそれは捜査権限のある警察の領分である。しかしテレビからそのまま出てきたかのような笑顔を見せると、ほとんど顔パスのような形で明智くんは受付奥の控室へ入っていった。令状いらず。便利なもんだ。

 呆気にとられていると、脱いだジャケットから振動が伝わる。たしかスマホをポケットに入れたままだ。付着したインクがこれ以上広がらないようにそれを取り出す。画面にはすでに何件か残された不在通知と、覚えのない番号が示されていた。少々訝しく思いつつも俺は通話ボタンをタップする。
『──十眞かっ!?』
 ゲーセンの騒がしい雑音にも負けない音量で、よく知った声が直接鼓膜に飛んできた。

 声の主、祐介はというと、数日前から修学旅行で海外へ滞在中だ。夏休みが終わって間もなくというのだから学生という立場は多忙である。その彼が電話口でいやに切羽詰まった声を出すものだから、ぎょっとなる。

「祐介。お前、国外にいるうちは連絡はできないんじゃなかったか? それにこの番号……」
 日本を離れることを名残惜し気に伝えてきた彼が言うには、携帯の契約プランの関係でその間こちらに連絡を取れないとのことだった。
『ああ、十眞。無事か? 何か困ったことなどは起きていないか?』
 祐介の口ぶりからは心配が十二分に伝わってくる。だが、それを聞いているかぎり心配が必要なのは彼自身のように思われる。

「なんだ突然……、別に何も変わったことはないよ」
 俺は口ではそう伝えながら明智くんが去っていったばかりの扉を横目で確認する。実際、まあまあ困っているといえばそうなのだが、相手が電話越しというのをいいことに俺はそれを伏せておくことにした。耳元のすぐそばで祐介がほっと息を吐くのが聞こえた。
『そうか良かった。なんだか嫌な予感がしたんだが、杞憂だったようだ』
 こいつ、勘が鋭すぎないか。さっきの襲撃を感じ取っていたのだとすればなんて精度の良さだろう。それで海外から何度も電話をかけてたのだと思うと、頼もしさを通り越して危うさに似たものまで感じる。折角の修学旅行なのだからいらない心配なんてせずそれを謳歌してもらいたいものだ。
「こっちの心配はいいから。それよりお前どこから電話してるんだ?」
『ああ。事情を説明してな。クラスメイトの携帯を借りている』
「馬鹿、もう切るぞ」

 だから知らない番号だったのか。まだ何か言いたげな祐介との通話をいそいで強制終了する。クラスメイトのことは彼の口から聞いたことがなかったので、借りる相手がいたことは安心する。だが、だからって俺との通話が友達に負担させるほど緊急じゃないのは明白だ。帰国したらちゃんと問いただしてその子に通話代を返さなくては。というか、あいつ何て言って借りたんだ?変なこと言ってないだろうな……?

「十眞さん、お待たせしました」
 夏休み中に海で一緒になった祐介の友達一行を思い出し、俺の知らないところであいつが悪気なく俺のことをあちこちに吹聴している可能性を考えているうちに明智くんのほうは滞りなく確認作業を終えたらしい。もちろんそれを待っていたわけではない……しまった、逃げ遅れた。
「誰と電話してたかは知りませんけど、タイミングよかったですねえ」
 比較的のんきな声を出す彼の俺を見る目は猛禽類のそれに似ていた。