狐の嫁取り2

 馴染みの喫茶店で十眞はゆったりと珈琲カップを傾けた。
 そこらで飲ませるものとは違う染み入る味わい深さがここの気に入りだった。店内の雰囲気もいい。年若い店主は落ち着いた空気感を持っていて、喫茶店という場所によく合っていると思う。普段の行動範囲からはそう離れた場所にはないはずなのだが、十眞がこの店を知ったのは不思議とつい最近のことだった。

「十眞さん、最近なにかありました?」
 ふと店主から声がかかる。彼は口数の多い方ではないが、客の様子を察してこのように話しかけてくることもある。といってもけして押し付けがましさはない。煩わしく感じさせるようなこともなく、それでいていつの間にか客から話を聞き出している手腕は見事だと思う。この男になら話してもいいか、と思わせるなにかがあるのだろう。そしてこのときの十眞も例に漏れずそんなことを思った。
 店内は数人の客とゆっくりとした時間だけが流れていて、十眞が座るカウンターには他に腰掛ける者もいない。

「狐、なんだが」
「狐?」
 自分の言葉に店主がきょとんとなるのを見て、十眞は言葉を付け加える。突拍子のない切り出し方になってしまったのは彼自身、身の上に起こっていることの整理がついていないからだ。
「先週道端で狐を見つけたんだ」
「それはまた珍しいですね」
 国を挙げた都市開発が進む東京で、野生の狐に遭遇したのには十眞も驚いた。遠目で見た時分には猫か野犬かと思ったのが、近づいてみるとそのどちらとも似ているようで異なる風貌をしていたのだ。夜道に転がる毛玉は動く様子がない。さては車に轢かれでもしたか。哀れに思った十眞はせめて亡骸を車道から遠ざけてやろうと考えた。

「そしたら生きていたわけですか」
 店主の言う通り、狐は息があるようだった。伏したまま顔をあげ、自分に近づいてきた人間をじっと見つめている。野生動物のくせに随分肝が座ったやつだ、と十眞は感心する。しかしこのままこの場に居座っていれば先ほどの危惧が本当になってしまうかもしれない。

──ここは危ないぞ。

 別段、動物相手に話が通じるなどと思ったわけではない。だが自然と、まるで話しかけるように口走ってしまっていた。端から見れば痛い大人だ。しかし意に反して、狐は立ち去るどころか十眞の足元に寄ってきて何事か騒ぎ出した。何か甲高い声で主張しているようだが生憎狐の言葉はわからない。
 どうしたものか困っていると、ふと十眞は自分の持ち物に思い当たる。彼の手には買い物袋が下げられており、なかには一人で賄えるだけの食料が入っていた。それは十眞がこの歳にもなって独り身であることを示すものだったが、問題はそこではなく。その袋の中には豆腐屋から購入した油揚げが入っていたはずだった。

「誂えたようなタイミングですね」
「ああ。だよな」
 店主の言い分に同調して、十眞は話を続ける。
 狐に油揚げとはまさにお誂え向きだ。胡瓜を買っていたらもしや河童に遭遇していたんだろうか。兎に角、そのときの十眞も誂えたかのような偶然ににわかな感動を覚えた。実際、野生の狐が油揚げを好んで食べるかというと疑問ではあるのだが。
 なので。足元で騒ぎ立てるのを食い物を催促しているのだ、と理解した十眞は翌日味噌汁の具になるはずだったそれを狐に与えたのだが。
 それからというもの、行く先々でその狐が十眞の前に現れるようになってしまったのだ。

「……軽率でしたね」
「反省してるよ」
 店主の表情はこういう時に限って、逆光で窺い知れない。
 彼の言う通り、軽率に野生動物に餌を与えるのはよくなかった。彼らには彼らの生きる場所があり、人間の干渉はいつだってよい結果を招かない。
「それで扱いに困っている、と」
 十眞は動物を飼った経験がないため、ついこの店主を頼りたくなってしまった、というところだった。ここの看板猫は店主に似て大人しく、よく言うことをきいているように見える。
「放っておけばいなくなるかとも思ったんだが、ついに家まで突き止められてな」
 夜遅く帰宅した玄関先できゅうきゅう鳴く生き物が待っていたときには最早驚きもなかった。まったく野生というものを侮っていた。

「え、まさか家にあげたんですか」
 店主が珍しくかすかな動揺を見せる。つい先ほど軽率との小言を貰ったばかりだ。店主の言わんとすることが十眞にもよくわかる。しかし追い払おうとした手にもじゃれつかれてしまうばかりだったし、いくら待っても立ち去る気配すら見せないとあっては狐の粘り勝ちだった。
「十眞さん、犬猫じゃないんですよ」
「ああ。まったく」
 ぐうの音も出ないとはこのことである。しかし、ああも懐かれては拒絶することは至難の技だった。獣が向けてくる好意は純粋で、だからこそ愛らしい。たとえそれが食い物目当てであったとしても咎められるものか。
「だから、さすがにこのままじゃまずいと思って……」
 寂しい独り身にあの愛らしさはまずい。ここで心を鬼にしなければこのままどこまでも気を許してしまいそうだった。
「……十眞さんみたいな人って好かれますからね」
 店主は少々深刻そうな顔を作ってそんなことを言うが、十眞にはこれまで動物から特別好かれたという覚えはない。ここの看板猫にだっていつも満足に触らせてもらえないくらいなのだ。
「うちのモルガナは安くないですから」
 その言葉に応えるように視界の隅で黒猫がひと鳴きした。随分ハイカラな名前の猫だ。
「俺が言ってるのは猫とか犬の話じゃなくて、名前があったりなかったりするやつらのことですよ」
「それは……、謎かけか?」
 彼の含みのある言葉が理解できないでいると、店主からは穏やかな笑みが洩れる。
「まあ、なるようにしかなりませんからね」
 どこまでも意味深な店主の口振りに同調するように、猫がニャアと鳴いた。