街中に彼の姿をみとめれば俺の足は自然と早められる。
「ただいまっ!」
「はい、おかえり」
ほとんど前につんのめりながら挨拶すると十眞は片手を軽くあげてそれに応えた。
数日間の海外旅行は終わってしまえば短く感じるもので、しかしこうして彼の姿を前にすると、やっと帰ってきたのだと思えるから不思議なものだ。
帰国から一日明け、飛行機疲れと時差による倦怠感からようやく解放された身体で十眞と街を歩く。
モルガナカーに乗っていてもしょっちゅう胃を回しているくらいにはもともと乗り物酔いはするほうだが、まさか飛行機までそうだとは。突如発生した嵐の影響で、当初俺たちの学校が予定していた航路は変更された。そのおかげで暁たちのいる秀尽学園と修学旅行の行き先が被ることになったのは幸運だったが、そのまま嵐のなかを飛んでいたかもしれないと思うとぞっとする。
「じゃあ、行ったのはロサンゼルスじゃなかったのか」
あらましを聞かせると十眞は驚きながら心配げなまなざしを向けた。
「ああ。おかげで日本を離れてもいつものメンバーと一緒だった」
「すごい縁だな」
それについては当事者の俺でさえそう思うのだから彼の反応はもっともだろう。
ハワイに滞在中、十眞と連絡をとったのは一度だけだ。短くも長い5日間。俺は帰国と同時に彼にメッセージを飛ばした。十眞からはすぐに快い返事がかえってきた。午前中は用があるとのことなので、午後の約束を取り付けて、こうして落ち合っているというわけである。
時間は正午を過ぎ、昼食どきというには少しばかり遅い。しかし、幸い俺のほうは昨日まで時差で本調子でなかったのもあり、ようやく腹の虫が鳴きはじめたころだ。俺たちはふらりともんじゃ屋に入ることにした。遅い時間なのもあり、すぐにカウンター席へまで案内される。十眞は持ち手つきの高級感のある箱をカウンター椅子の下へ置いた。
聞けば午前中はスーツの引き取りに行っていたらしい。箱からはブランドには明るくない俺でも察せられるくらい上等な雰囲気が伝わる。しかしそれを話題にする十眞はどこかバツが悪そうな表情を浮かべた。さっきまでは俺の一方的な話に耳を傾けながら穏やかな目をしていたのに。俺の心に疑問符が浮かぶ。
「いや、うーん……。経緯がな……」
「経緯?」
彼自身で無自覚な言葉だったらしく、俺の相槌に十眞は瞳を焦らせた。どうやら誰かからの貰いものであるようだ。そしてそれは微妙に言葉を濁らせるような相手らしい。
普段の十眞を見ている限りは誰が相手でもうまくやっていきそうに思えるのにな。そう思いつつ、俺は彼の交友関係については何も知らない。
観察する先で、十眞は一度だけわずかに唸るとすぐにいつも通りの表情に戻った。十眞はけして浅慮ではないが、無用に悩みを長引かせるタイプでもない。
そこまできて、煙る食欲をそそるにおいに俺はふと気が付いた。
「スーツ、大丈夫か?」
まったく考えなしに店を決めてしまったものの、上等な服を持ったまま入る場所じゃなかったかもしれない。鉄板から立つにおいは大変好ましいが、あとあとまでこびりつきそうだ。
「ん? まあ……、預ければ平気だろ」
俺の遅すぎる憂慮に十眞はなんでもないことのように返し、店員に声をかけて荷物を受付の奥へ預けた。この気の利きよう。それに比べ俺はどうだ。恥じ入る気持ちになり口ごもっていると、真隣に座る十眞の瞳が微かに瞬いた。「においといえば……」、と口にする。その言葉に俺が疑問を吐き出すより早く、彼は顔をこちらへ寄せた。物理的距離が近づく。
「まだちょっと外国のにおいがするな」
そう言って十眞は悪戯っぽく笑う。背後でガタン、と大きな音が立ったと思えば、それは俺が自分の身体で椅子を押してしまったことによる音だった。
動転している俺はそんなことにすら驚いてしまい、身体を固くさせながら十眞の次の行動を見守る。ろくに動けないままでいる俺を放って、十眞の言葉は続く。
「おまえ、普段はもうちょっと薬品みたいなにおいするから」
彼が言っているのはおそらく画材のにおいだろう。旅行中はあまり荷物を増やすこともできず、持っていたものといえば鉛筆とデッサン帳くらいだった。なのでしばらくそれ以外には触れていないのだ。
確かに異国へ渡ってからまず違いを感じたのはにおいだった、と覚えている。降り注ぐ日差しや海の色が日本と異なるのは俺の目を惹き続けたが、嗅覚のほうは過ごしているうちに慣れてしまっていた。指摘されるままに俺も腕を匂ってみるが、周りの香ばしいにおいで余計に腹が減るだけだ。自身でも気づけないことを知られているのは嬉しい反面、なんとなく気恥ずかしいような心地がする。
「隅まで読めるメニューって素晴らしいな」
「外国行った感想がそれか」
「勿論それだけじゃないぞ」
話したいことなら山ほどある。柔らかく苦笑する十眞の隣で全日本語のメニューを開きながら、俺はどうしても先ほどの上等な箱のことが忘れられないでいた。
家出したモルガナとの和解と、新たに仲間に加わった春を迎えてルブランの屋根裏はさらに賑やかなものとなっていた。パレスの攻略に失敗は許されず、入念な準備は必須だ。その傍ら雑談に興じることを悪いこととは思わない。とくに、実の父親の悪事を暴こうとしているのだから春の心的負担は計り知れない。幸い、春にとっても怪盗団で集う時間は悪いものではなさそうだ。それに俺たちだってもっと春のことを知っていくべきだろう。
そんななか俺が語るのに、いやに神妙な顔を作った杏は言い放った。
「いやそれ絶対怪しいわ」
以前の俺なら女子同士の華やかな会話など無縁だったが、十眞のことが知られてからはそれが彼女たちの話の中心に据えられることも増えた。あの双葉でさえ他人の恋愛ごとに興味があるようだ。そこで俺は数日前に十眞との間に起こったことについて、思い切って話すことにしたのだ。
「そうなんだ。俺が買ってきたハワイ土産はちゃんと食卓に飾っていてくれるのに……」
「それは十眞さんが偉すぎだけど」
一緒に土産もの屋を回った杏たちには俺が十眞に何を選んだかも知っている。
現地の守り神を模した置物を手渡し、手持ち金が少ないせいで一回り小さなものしか買えなかったことを伝えると、十眞からは「…………いや、十分だ。有難う」と返事がかえってきた。謎の間があった気がするが、ともかく、十眞はひとからの好意を無下にするような男ではないのだ。その彼が少しでも気まずそうな表情を見せたことがどうにも俺には気にかかる。
というか、その相手は一体誰なんだ? 身に着けるものを、それも全身一式贈るって、どうなんだ。
「……祐介とその人って付き合ってるの?」
そこで、それまで話を聞いていただけの春がはじめて口を開いた。春に十眞の話をするのは初めてだから、その疑問は妥当だ。
「いや、まだだ」
春の問いに俺は首を横に振って応えた。関係は良好と自負しているが、まだそこまでの関係には至っていない。まだな。
俺の正直な返答に、春はきりっと眉に力をこめた。
「それ、“やばい”と思う……!」
「やばいか」
「だって、だって服だよ? 殿方に服を? しかもお祝いでもなんでもないんでしょ?」
やはり。やはりそうなのか。女子組から真剣な視線を送られ、俺の疑念に確信がうまれる。
「何かトラブって弁償してもらったとかじゃねーの? 普通に」
だらっと座り込みながら漫画を読んでた竜司が口を挟む。
「分かってないなあ! それでわざわざハイブラ買う?」
「きっと相手は職場の人間でしょうね。スーツなら絶対使うって分かってるんだわ。策士ね」
「いやー、単にそういうフェチなんじゃないか?」
途端に女子組から総攻撃をくらい、たじろいだ竜司は暁へ助けを乞うような目を向けた。
「どう思うよ! 暁!」
「本人に聞くのがいいんじゃないか」
「真面目か!」
暁の意見は至極当然だ。少なくともここで妄想めいた議論を重ねていくよりはいくらも建設的だろう。
数日前に目にしたものがこうも気になってしまうのは、十眞が僅かに滲ませた憂いのせいもある。だが一番は俺自身の嫉妬心によるものだ。見知らぬ相手に俺は焦りを感じている。そんな醜い感情からくる疑念を、彼にぶつけてしまっていいものか。俺だって、彼に隠していることがたくさんあるくせに。俺ばかり何もかも強請って、与えてくれというのはおかしな話だ。
俺だって……。
「俺だって十眞の服のサイズとか詳しく知りたい」
「目こわ」
双葉が茶々を入れるが気にしている余裕はない。俺がぐるぐると気を落ち込ませていると、それを察した春は再び俺へと話しかけた。
「ごめん。私、不安にさせること言っちゃったね」
「いいんだ。忌憚ない意見痛み入る」
「でも、普通自分の服は自分で選びたいと思うし、ほんと気にすることないよ」
春の言葉は慰めのように思われたが、顔をあげると女性陣はうんうんと頷きあっている。
「そ、そういうものか……?」
「まあ、ぶっちゃけ貰っても……ねえ?」
その辺りの機微が分からず、俺と、とくに竜司は互いに目をきょとんとさせるのだった。
.