10月8日(昼)

 手帳の中に挟んでおいた名刺サイズの厚紙を見つめ、俺は考える。簡素な紙に印刷されたそれは都立洸星高校文化祭の招待チケットだ。端のほうはよれて少し曲がっている。渡してきた相手が握りしめていたことによる痕跡だ。ある日の晩、祐介はいつになく真剣みを帯びた顔つきでチケットをこちらへ突き出した。
 
「時間があれば、是非来てほしい」
 文化祭。チケットに印字された文字が目に入る。そうか、そんな時期か。ついこの間修学旅行に出ていたと思ったのだが、学生のサイクルは早い。
 一歩引いて感慨深くなってしまう俺の目の前でチケットに刻みつけられたシワが広がっていく。この様子では原型を留めていられるのも時間の問題だろう。それをまざまざ見せられた俺はろくに考えも追いつかないうちにチケットを受け取ってしまった。くしゃっとなった端をできるだけまっすぐに伸ばすのを、祐介はなおも緊張した面持ちで見ている。
 
 これには間違いなくただの文化祭チケット以上の意味が含まれているのだ。祐介のまなざしはそれを雄弁に語っている。そのくせ、まるで俺の退路を残すかのように、それから祐介は文化祭や学校のことをひとつも話題に出さなかった。

 

(それはいい。それはいいが、クラスくらいは教えておいてくれ。)
 洸星高校の正門を潜り、もぎりの生徒から受け取ったパンフレットに目を通しながら俺は思った。
 本人が不自然なくらい話題を避けるので、なんとなく訊き損なった俺にも非はあるが。華やかに飾り付けられた校舎を歩きつつ、改めてその大きさと賑やかさに俺は気おくれしていた。
 
 いまのご時世か、洸星の文化祭は完全招待制で誰でもオープンに入れるわけではない。それでも都内では名の通った学校であるだけあって一大イベントらしい人の入り様だ。しかしその多くは学生同士のグループばかりで、思ったよりずっと父兄の姿は少ない。高校生ともなればこんなものなのだろう。完全に読み間違えた。
「お兄さん、何かお探しですか?」
 あからさまにきょろきょろしすぎたらしい。文化祭実行委員と名の入った札を提げる生徒が親切に声をかけてくれた。
「生徒の父兄ですか? それともOB? よければご案内しますよ!」
 それがどの教室にいるかも教えられてないんだよ。とはなんとなく口に出せなかった。
「あー……、いや。連絡取ってみるよ。有難う」
 軽い会釈で遠ざけつつ、スマホを取り出してみせると女子生徒は名残惜しそうな目を向けた。
 
 周りから浮いているのをひしひしと感じながら一度壁際へ避ける。あてもなくうろついて不審者紛いになるよりはさっさと連絡を取った方がいい。祐介はどんなに忙しくとも、すぐに返事をくれることだろう。
 廊下を行く学生たちは誰も彼も足早だ。実際忙しいのだろう。手もとのパンフレットには部活や有志の集まりで思い思いのイベントが催されているのが書かれている。それを見ているうちに、だんだん邪魔するのも悪いような気が湧いてくる。祐介には祐介の学校生活があるのだし。
(部室棟は別の建物になるのか)
 迷ったときは確実なほうから攻めるのが定石だろう。なんとか目的地を定めて、俺はひとまず玄関口を後にした。

 

 部室棟の、さらに文化部が集まる廊下まで踏み入れると、そこはお祭りモードの本館からは一線を画し、落ち着いた雰囲気を纏っていた。そのなかから、地図を頼りに美術室を見つけて扉をくぐる。部屋の椅子や机はほとんど片付けられていて、開けた空間に学生たちの製作品が所狭しと展示されていた。少し見回すだけでも、絵から彫刻までさまざまな造形が飾られているのがわかる。
「あの……、良かったらここにお名前を」
 受付をしている女子生徒が控えめな声で言った。展示目録の隣に名前を記入する用のボードが置かれている。アンケートボックスなどもあるから、それらが生徒たちの制作への評価にもなるのだろう。俺は促されるままに備え付けのペンを手に取って名前を記入した。
「えっ!? モナ・リザの君!?」
「は?」
 途端に、受付の子がなにか叫んだ。意味が取れず、思わず声があがったほうを凝視してしまうと相手は目をきょどきょどとさせている。
 モナリザって、あの? 俺の脳内にあまりに有名すぎる絵が浮かぶ。しかし何故、いまその単語が出てくるのだろう。
 
「モナリザの君だって!?」
 お互いに硬直してしまっていると、今度はパーテーションの奥から元気な男子生徒の声が飛び出してくる。
「あ、すいません。俺、彫刻やってる、高村です」
 高村と名乗った生徒はいやに慌てた様子で、脚を絡れさせつつ俺の前までやってきた。
「喜多川はいま、いなくて。お構いできませんけど……あ、茶、飲みますか!? 中は飲食禁止なんすけど、このパーテの中ならできるんで!」
「あ、ああ。有難う」
 言いながらほとんど同時に給湯器から湯を注ぎだすので、勢いに負けた俺はお礼を言うしかない。というか、部室に湯沸かし器と急須まで持ってきてるのか。
「すげえ……実在したんだ……」
「……。」
 高村くんは感慨深げな声を出す。その視線には覚えがあった。夏休みに会った祐介の友達にもこれとほとんど同じ反応をされた気がする。
「その、モナリザってのは祐介が?」
 分かりきった答え合わせだ。高村くんはあっさり首を縦に振る。
「他にもなんか色々枕言葉ありますけど、美術部員内ではもっぱらモナ・リザですね。分かりやすいんで」
 そうか? どこが?
 聞きたいところは多々あるが、俺は頭を軽くおさえるだけに留めた。
 
 部員からのもてなしもそこそこに、俺は教室内を回ることにした。展示に意図があるのか、配置される作品はその作者や媒体ごとにまとめられてはおらず、どちらかと言うと乱雑としている。
 歩いていくと、ある額の前で俺は足を止めた。
 一見して何が描かれているか判断できない、たぶん抽象画ってやつだろう。どうやら連作になっている揃いの額縁に入った絵だ。どれも総じて明るい色彩で描かれている。
 
 それをしばらく眺めていると、こっそりとした足取りで一人分の気配が俺の後ろにやってきた。正体は確認するまでもない。その気配はこちらに声をかけるでもなく静かに佇んでいた。
「うわ、なんだそのかっこ」
「十眞……」
 そこには予想通り祐介が立っていた。だがいつものひょろっとした縦長のフォルムではない。全身にもこもことした毛を纏っている。フードのようになっていて、頭の上にはぴんと動物の耳がふたつ立っていた。サイズは誂えたようにぴったりだが彼の大人びた顔つきとはちょっとミスマッチだ。
「クラスで演劇があって。俺は一般オオカミ役だ」
「一般?」
 要は賑やかしの、台詞もほとんどない脇役らしい。
「……言ってくれればいいのに」
「獣の言葉をたまに喋るだけの役だ。……忙しくてな、それで許してもらった」
 クラスメイトの悲嘆がありありと浮かぶようだ。演目は知らないが、祐介のなりならどんな配役でも映えそうなものなのに。手芸部が作ったのだと言う、渾身のオオカミ衣装からは無念さが伝わってくる。物珍しい恰好に目を奪われていると、祐介は遠慮がちな目つきでこちらを見つめた。
 
「よくここだと分かったな」
 そして密やかな声で話を切り出した。
 別に、なにもこの着ぐるみ姿を見せたかったわけではないだろうことは俺にも分かっていた。
 
 祐介はあまり自分のことについて語りたがらない。その割に今日友達がああしたこうしたなどの話題は淀みなく、楽しそうに話すので、彼が意識的に話題を選んでいるのだろうことには気づいていた。俺だって、彼に話していないことがたくさんある。お互いにそういう話をしないことは、どちらからともなく、暗黙の了解としていままで保たれてきたことだった。
 俺は祐介がどんな部活に入っているのかすら聞いたことがなかったし、尋ねたこともない。だから迷いなく美術室を選んだのは彼にとって意外なことだったはずだ。
 
「分かるよ。お前は隠してたみたいだけど」
 あえて問いただしたことはなかったが、正直、祐介に隠しごとは向いていない。
 祐介はたぶん、根っから絵を描くのが好きなのだ。ときどき食い入るように景色を見ていることとか、ノートの片隅で鉛筆を走らせてるところとか、まあまあの頻度で手のどこかに乾いた絵具らしいものがついていたりとか。朝一で持っていた紙とペンを、俺が目を覚ました途端大慌てでしまったこともある。
「で、予想通りここだった」
「よく見てるな」
 どこか照れたように言われるとこっちも居たたまれなくなるが。実際それくらい一緒にいるのだから仕方がない。
「でも、そうか。知られていたか」
「ああ。まあ……、そうだな」
 
 絵画の連作の近くには喜多川祐介と名の入ったキャプションがひとつだけ貼ってあった。それを二人で目の前にして、祐介はどこかすっきりとした表情を浮かべている。彼がどうしてこのことをひた隠しにしてきたかは分からない。
 でもきっと知ってほしかったのだろう。
 改めてしっかり絵を見る。俺は不甲斐ないほどつまらない人間で、きっと祐介の感じているものの半分だって理解できていないだろう。一体何を表しているのか一向に判別できないながらも、そこに再現された色だけはたぶん、寸分の違いもなく俺の網膜へと映される。
 
「ど、どうだろうか」
 俺の視線をそばで見守りながら、祐介は言った。
「きれいな色だ、すごく」
 我ながら、なんてこどもみたいな言葉だろう。もっと気の利いたことが言えればいいが、理屈っぽいことはなにも出てこなかった。ただ、俺はこんな色、いままで見つけられたことがなかったし、その上でどんなものよりうつくしいと、思った。
 祐介にはこんな世界が見えているんだろうか。俺にはけして見えない色。それをこうして俺にも分かるように形に映してくれる。他人の考えなんて普通はどうやったって分からない。それをこういう形で目にすることができるのはとても贅沢なことのように感じた。
 
 俺の隣で、祐介は深い、深い息を吐く。深呼吸するみたいに吐き出し切った空気を取り込んで、また口を開く。
「よかった……」
 心底からの安堵だ。彼にとって、俺をここまで連れてくることはよほど踏み込んだことだったのだろう。それを頭で理解すると、どういうわけか俺の顔はかっと熱くなる。何がどう作用してそんな反応になってしまったのか、俺にも分からない。ただ、そのとき確かに脳のものを考える部分はいっさい動きを止めたのだ。
 
「十眞、これはお前が朝淹れてくれるコーヒーだ」
 もうすっかり憂い事なんてないような顔で祐介は絵を指さす。
 
「そしてこっちから順に、トースト、親子丼、あさりのパスタだな」
 今度こそ本当に思考が止まった。
 そんな俺のことを置いて祐介の指は順番に移動していく。つまり、この絵はそれらをイメージして描かれたものだと言うのだ。当然、ちっとも俺にはぴんとこない。だってどれも食卓とは似つかない色をしてる。祐介が挙げたメニューは全て俺が彼に出したことがあるものなので、むしろ俺の方が印象に残っていたっていいくらいなのだが。
「なんでここで食い気だよ」
 そうとは分からず、すごく大袈裟なことを言ってしまった気がする。気の抜けたような気分になると、祐介は何事か焦りだす。わりと口下手な祐介が、伝えたいことが伝えられてないときにする態度だ。
「でも、だが、良い絵だろう?」
「それはそう思うよ」
 
 少し拍子抜けしてしまったのが伝わってしまったのかもしれない。ここまで喜ばれていたことは嬉しいし、何から着想を得ていようが、絵そのものの素晴らしさが損なわれるものではないのに。
「く……っ、俺の腕ではここまでか……!」
 オオカミ男は無念の顔で何事か呟きながら震えている。こいつ、この衣装返さなくていいのかな。