一足早く部屋へ入り、いそいでカーテンを開ける。備え付けのカーテンは遮光性が高く、開ければ陽の光が一斉に入り込む。途端に部屋の見苦しいものまでが明らかになってしまい。俺はほとんど万年床となっている布団をぎゅっと隅に寄せた。大きな動きをしたことで十眞の注目を集めてしまう。手狭なワンルームとはいえ、せめて布団くらいは片付けておくべきだ。
「す、すまない。少し待っていてくれるか」
「じゃあ。うん」
俺があからさまに焦っているせいだろう。十眞は少し呆気にとられたような顔で応えると、入口のあたりで身体を外に向けた。実に紳士的な対応だ。助かる。
美術室からこっち、格好悪いところばかり見せてしまっている気がする。
「まあ、あのオオカミフードも似合って……は無かったけど、可愛かったよ」
「そ、そうか?」
十眞にそう言われるとぐんと立ち直れるものだから自分でもゲンキンだと思う。耳つき尻尾つきなら慣れたものなのだが、オオカミはあまり馴染みがないしな。
文化祭を口実に、十眞に洸星高校まで足を運ばせたのは、言ってしまえば賭けだった。俺の隠しごとを十眞は詮索したがらない。線を引いていることは当然分かっていたはずだ。それでも誘えば来てくれるんじゃないかと、それもはじめから分かっていた気がする。
部員からグループチャットが届いたときは驚いた。名前と背格好からすぐにぴんときたらしい。普段から話をしておくものだ。高村と、受付をしていた女子部員に礼を言うも、とくに彼女のほうは「まさかこんな身近に…都合のいい夢…?」などとぼやいたりして忙しそうだった。それを高村は「知らなくていいよ」と温い顔で微笑む。その反応に、気にならないこともないが、俺にもそれほどの余裕はないのだ。
絵に視線をそそぐ十眞は、それそのものが名画のようだった。息を飲み、自然とこちらの立てる足音も小さくなる。俺が近付いても十眞はしばらく前を向いたままだ。何を考えているんだろう。
……一番おそろしいのは何も思われないことだ。俺の気持ちを目にしても、路傍の石の如く、気に留めないで、捨てられてしまうこと。
俺が好意という名の己の欲望をぶつけたとき、十眞はそれを尊重してくれた。突然よく知りもしない子どもに告白されて、迷惑だったはずだ。それでも彼はそれを捨てることはしなかった。いつもそうだ。俺から生まれる心の一切を大事にしてくれる。
お前はいま何を感じてる?鑑賞者を前に、その作者がそんなことをわざわざ訊くのは野暮なことだ。しかし、居ても立ってもいられなかった。
十眞の瞳が絵から移って、今度は俺を見る。
違っていた。そこにあるのは年齢相応の大人びた視線でも、俺のことを心配したり、怒ってみせたり、情を込めて見つめていたり、そのどれでもない。言うなれば、惑って、熱っぽい感情に翻弄された、きらめきを宿した瞳。
俺が、そうさせた。それを自覚した途端、ごくん、と喉が鳴る。
「十眞、十眞、俺の部屋まで来てくれ」
「え、そのカッコで……?」
たまらず、十眞の手を取る。そのもふっとした感触に彼は言及した。俺の姿は演劇終了後飛び出してきたときのままで、恰好がついていない。
「すぐに返してくる! だから、頼む」
ここまで俺が距離を詰めてくることを想定していなかったのか、十眞は圧されるまま俺の懇願を了承した。俺自身で予想の外のできごとだったが、一秒だってその時の彼を俺以外のものに晒していたくなかったのだ。
普段は部外者を呼ぶことなんて御法度でも、今日は文化祭で、無礼講だ。彼を連れて寮の門をくぐってもとくに引き止める者はない。
ただ、突然のことと、普段第三者を入れることを想定していないせいで部屋はひどい有り様だったが。
なんとかスペースを作り、ひとつしかない座布団を勧めると十眞は大人しくそこに収まった。必要なものだけの、雑然とした俺の部屋を背景に、十眞が。なんだかひどく倒錯的な気配すら感じる。
「絵描きの部屋だな」
俺の生活の全てを眺めて、十眞は総評する。学生寮は俺にとっては寝食する場所というよりはアトリエのような感覚だ。彼の言う通り、四方の壁にはかけられるだけキャンバスがかかっているし、スケッチブック、イーゼル数脚などがぎゅうぎゅうと互いに場所を取り合っている。
「ああ。しかも絶賛スランプ中だ」
いま部屋にある絵は殆どが手詰まりの末のものだ。白状する俺に、十眞は意外そうに目を向ける。
「でも描いてただろ」
「あれがいま世に出せる唯一のものだ」
絵筆の迷いの正体に、検討はついてる。斑目の失脚。世の醜さ。それらは俺の創作意欲を根底から揺るがし続けている。しかし俺はどうしようもなく絵描きなのだ。そうしなければ息さえままならないのを自覚している。あの連作は助けを求めた先でようやく描きあげたものだった。俺に与えられた善なるもの。疑いようもなく美しいもの。それを被写体にすれば俺の胸は高鳴り、絵と俺だけの時間に向き合うことができた。
「お前のあの反応を見れば、間違いじゃなかったとわかる」
狭い部屋で大の男二人。少し身を乗り出せばすぐに彼まで手が届く。
「お前の瞳が好きだ、十眞。色んな表情を見せてくれる。それがとても嬉しい」
気付くと俺からそんな言葉が生まれていた。座布団に小さく座る彼へ手を伸ばし、指先で目もとへ触れる。すると瞳孔がすこし大きくなった。やっぱり、彼の感情をよく映してくれる。俺の胸を占めるのは尊さと愛しさである。
「分かりやすいか、そんなに?」
「ああ。色素が薄いからかな」
観察するには絶好の機会だ。俺は彼の目をさらに覗き込んだ。十眞の瞳は色素が薄いので、血流や外部からの光で色が変わる。
「お前の目が良すぎるんだろ。そんなの、言われたことない」
「そうか? それは意外だ。だが、役得だな」
今だって赤みが増して、こんなに分かりやすいのにな。じろじろ見られることへの抵抗か、十眞は目を瞑ってしまう。ほんの一秒にも満たないほどの僅かな時間だ。それがひどく無防備に見える。彼越しに、畳んだばかりの布団がやけに目につく。頭が弾けるかのような衝撃。
俺と彼を隔てるものは何もない。俺は十眞に近づいた。単に距離を詰めるためにではない。捕まえるために身体を寄せた。
「ま、待て」
しかし上手くいっていたのはそこまでで、実際十眞の身体はそれ以上倒れてはくれなかった。頭が煮えるようだ。とても冷静ではない。
「祐介、ごめん」
十眞はそう言って目を伏せる。全身の神経と筋肉を駆使してなんとか、俺は彼から身体を離した。
「……ごめん」
俺の努力を前に、十眞はもう一度言う。明確な拒絶の言葉だ。だが、拒まれているとはとても思えなかった。彼の目は熱をもったままだったからだ。
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