「あのスーパーには良い試食コーナーがある」

 ふと口をついてしまってから、しまったと理性が追い付いた。
 
 それは駅からの道すがらの、なんてことのない会話だった。
 俺はどちらかといえば口下手なほうで、自分の考えを言葉で正しく相手に伝えることは不得意だ。なのでこうして淀みない会話ができるのは、飛びぬけて聞き上手な彼のおかげだった。俺が一方的な話を繰り広げている間も、テンポを乱すことなく耳を傾ける彼の眼差しは穏やかだ。そんな時間が嬉しく、さらに熱をあげる俺の言葉はもはやろくな思考回路を通じていない。だからこちらを見つめる顔が少し奇妙に固まってから、ようやく俺は失言を自覚したのである。
 
 それというのも、この話題は怪盗団の仲間にも一度したことがあったからだ。そのときの面々の反応はいまの十眞が見せたものと同じだった。しばし黙って言葉の意味を逡巡し、徐々にその表情は苦々しげになっていく。
 何事にも率直に物を言う連中だ。彼や彼女は口々に、「堂々と言うことじゃない」、「残念すぎる」などと俺を非難した。極めつけは「それ、女の子相手に絶対言わないほうがいいよ」と、かなり真剣な面持ちで忠告されたのだ。
 無論、十眞は「女の子」ではない。だが、彼らがあれだけ口酸っぱく言うからにはこの話題は相当聞くに堪えないものなのだろう。しかし日々の食生活はいまだに俺の中では重大な事柄であり、これはその中で見出した、いわばライフハックなのだ。仲間たちの忠告にもかかわらずつい口をついてしまったのも、だからこそのことだった。
 
 心中ではそう思いつつ、俺の足取りは途端に力ない。この際理屈はどうだっていい。十眞に呆れられたりなどしたら、俺は。
 想像するだけで耐えがたく、崩れ落ちそうになった俺の腕を、すかさず伸びてきた十眞の手が掴んで阻止した。
 
「十眞、いまのはその、なんというか、なにも通い詰めてるという話ではなく。数あるなかでもそこが一番というだけで……、寮からも近いし……!」
「分かった、分かったから」
 しどろもどろになる俺に、彼の手は今度は背へと回ってそこを柔らかく何度か叩く。その何気ない手つきも声も、俺を軽蔑などしてないことを伝えていた。
「ほ、本当か?」
「ああ。充分だ」
 縋る想いで見つめると彼は平素の温度でそう言った。俺は確かに倹約家ではあるが、それを理由に道理を外すことはけしてないのだと。俺の主張はそんなところなのだが、それを全て説明するまでもないとは。
 感動で震える俺をよそに、十眞は三秒ほど何か考えると次にひとつ提案をした。

 

 自動ドアを抜けた俺たちをひやりとした冷風が迎え入れる。呆然としてしまう俺を入口へ置いて、十眞は慣れた仕草で買い物かごを手にした。日常を感じさせるなんてことのない動作だが、彼がするとどこか現実味がない。
 
「そこ邪魔になるぞ」
 もっともな注意に、俺は跳ねあがるようにして入口のマットから身を離した。後ろから通過していった子どもが親に菓子を強請る声が耳に届く。実に平和な平日の夕方。さきほど話題にしたばかりのスーパーに、俺たちは二人そろって訪れていた。
 仕事終わりのサラリーマンも何人かいるが、同じスーツ姿でも十眞の佇まいにはあまり所帯染みたところがない。彼の料理の腕は身をもってよく知っているのに、俺としたことが、買い物かご片手に野菜売り場を歩いている可能性にまではいままで想像力が及んでいなかったのだ。
「お前が言ってたのってこれか?」
 前を行く彼から声がかかる。いつのまにか野菜売り場を越えていたようだ。彼が促す先にはかまぼこなどの練りものが入った汚れ避けのケースがあった。こうした無人タイプの試食コーナーが豊富なのが、俺がこのスーパーを気に入ってる理由だ。十眞は俺の語ることを聞きながら練りものの袋をしばらく眺めてからそれをかごに入れた。
 
 そうして通路を進んでいくと、あたりに香ばしい良い香りが立ち込めてくる。精肉売り場の販売員がちょうど配布用の肉を焼いているらしい。思わず目を向けると何度か会ったことのある販売員で、俺たちを視界に入れるとあちらも、あっと声をあげた。
「こんにちは」
「あら驚いた、今日は一人じゃないのね!」
 彼女は見知った俺と、初めて見る男前を見比べていかにも意外そうな声で言った。その視線にはにわかに詮索の色が滲んでいる。彼女の目に俺たちはどのように映っているだろう。訊いてみたい気もしたが、十眞が明らかに居心地悪そうにしているためやめておく。
「お連れの方もどうぞ。今週からタレが変わってるから、早く来ないかなって思ってたんですよ!」
 俺たちの間の些細な機微を気にすることなく、彼女は焼いたばかりの肉を二人分寄越してくれた。それに、売り込みに適した張りのある声で聴き捨てならない情報まで。確かに彼女の言う通り放課後も色々と忙しくしていたから今週ここに来るのは初めてなのだ。危うく味変の機会を逃すところだった。
 幸運に舌鼓を売っている俺の隣で十眞が肉を口に放り込むや否や該当の商品をかごに入れている。あまり買い物に時間をかけないタイプなのだろうか。
「……その子、いつもこのスーパーを二、三周はしてまして」
 すると、急に販売員は商品とは関係のない話題を繰り出す。返事の代わりに十眞は別の袋に手を伸ばしてそれもかごに入れた。その間も俺は鉄板に乗った別の肉を見逃さない。
 
「美味いな、もうひとつ貰ってもいいか」
「いいですよ、ちなみにこっちも新作です!」
 営業スマイルとともに、また商品はかごに入れられる。満開の笑顔の販売員のもとを去るころには買い物かごには統一感のない商品が積まれていた。
「それで、何を作るんだ?」
 それらからは本日の夕飯の顔を思い浮かべることが出来ず、俺はそう問いかけた。かごを見下ろす十眞の顔もどこか途方に暮れているかのように見える。
「……鍋かな」
「それはいいな!」
 なるほど。肉や野菜や豆腐もあるから確かに鍋にはぴったりだ。しかも彼の口ぶりから、どうやら俺も相伴に預かれるようだから嬉しさもひとしおである。こんなに幸せ者で、果たして罰が当たらないものだろうか。俺の一抹の不安に、会計を全て終えた十眞は神妙な表情を浮かべた。
「俺もまた来るから、スーパーの徘徊は頻度を減らせ」
 そうやって、また嬉しいことを!
 
 歓喜に痺れさえ覚えながら帰路を歩きだすと、ようやく何やらの気を緩ませた十眞からいつもの穏やかな気配が伝わる。当然、帰りの荷物は俺が持ったがそんなものは一片の苦にすらならなかった。