10月27日(夜)

 一人の警察官が死んだ。
 一連の事件に「精神暴走事件」と名が付く前のことだ。ひとつひとつの出来事に作為的な力が働いていることにいち早く鼻を利かせた者がいた。それを探っていくうちにその身を襲った不審死だった。
 書類上に記された死因は事故とされているが、警察官が自ら追っていた事件の被害者と同様の死を遂げたのを、単なる不運と片付ける者はいなかった。むしろそれは様々な憶測とともに、事件により確かな信憑性を生む結果となる。

 そうして突如空席となった「精神暴走事件」の捜査には、速やかな引継ぎが求められた。

 

 

10月27日(夜)

 

 急すぎる、とぼやいた俺に盤面に目を向けたままで明智くんは答えた。
「世間からすればようやく、ですよ」
 言葉節に呆れを含ませながら彼が放ったブレイクショットで、面いっぱいにボールが弾かれた。

 秀尽高校での講演以来、俺は彼の護衛役として続投させられている。といっても、あれだけ積極的だったメディアへの露出を控えるとの宣言通り、今日一日の彼の生活はまっとうな学生の範疇で、することといえば通学の送迎くらいしかなかった。
 彼の品行方正な下校をお守りした俺はその流れでビリヤード付きのバーまで連れて来られているのだ。いつぞやの、ゲームセンターでのことが思い起こされる。

 ……しかし、どう考えてもいまはこんなゲームに興じている場合ではない。
 怪盗団指名手配の報道が一斉に報じられたのは今朝のことだ。日本中を席巻したニュースに対して、明智くんの態度は素気ないものだった。

「殺人犯の首に報奨金が懸けられた。当然のことだと思いますけど」
「君が追ってた事件だろ」

 怪盗団から手を引くと自身で言った通り、彼はこの件についてこれ以上言及するつもりはないらしい。有言実行は結構だが、ここまで急に関心を失えるというのも器用な話だ。
 視線を仕向けてみても明智くんから返ってくるのはゲームの続きを催促する目だけだった。仕方なく、俺は持っていただけのキューを盤面へ向けた。単純な軌道で、青の2番がポケットへ。それを見送ってようやく対戦相手は再び口を開く。

「僕は探偵ですよ。奉仕のために仕事をしているわけじゃない」
 と、やはり淡泊に明智くんは言い切った。彼と話を続けるにはどうやらまたボールを一打する必要がある。至極一方的な取り決めだが俺はおとなしくその遊びに乗ってやることにした。

 今回の指名手配の一件に関して彼にどんな考えがあろうと、警察がここまでの手段に踏み入るのは俺には信じ難いことだった。新たな報道が見られない辺り、一日そこらで捜査の進展はないようだが、それも当然。あれだけの大金を懸けたとしても「怪盗団」の存在なんて、その実まだまだ噂の域を出ない。それこそUMAを指名手配するくらい荒唐無稽な話だ。
 秘密裏に動くのならまだしも、こんな大々的なやり方をしてしまっては後には退けない。面子や形式にこだわる組織の人間が易々と使える手段とは思えなかった。

「貴方だって、怪盗団は存在すること前提の考えでしたよね?」
「そりゃ、いないことの証明はできないからな」
「はは、その通り。『悪魔の証明』ってわけだ」

 薄暗いライティングの屋内に明智くんの空笑いが響く。
 とにかく、上の決定にはそれを下すに足る根拠があったはずだ。UMAなんかよりもっと得体の知れないものを認めざるを得ないだけのことが。

「報奨金があの額でしょう? 突然躍起になった連中が嗅ぎまわってきて参りますよ」
「名探偵はとばっちりか」
 俺の思案などお構いなしに明智くんは自身の近況をぼやく。今朝からスマホが鳴りっぱなしなのだ、と。確かに、一切手がかりがない現状では世間的にも明智吾郎が最も怪盗団に近い人物だ。
 方々から連絡がひっきりなしとあっては他愛無いゲームで気晴らししたくもなるかもしれない。果たしてそんな繊細なタイプだろうか、というのは置いておくとしても。

 対する相手がまただんまりを始めてしまったので、俺は再び盤面に視線を落とす。彼が誘ってきたゲームはいくつもあるビリヤードのルールのなかでは単純な部類の「ナインボール」だ。とにかく九番のボールをポケットに入れてしまえばいい。確認すると九番の位置は幸いポケットからはそう遠くない。届く範囲が増える分、ビリヤードは身長の高いほうが有利な種目だ。彼もそんなことは承知でけしかけてきたんだから遠慮は要らないだろう。俺は台のふちへ半ば乗り上げるような形になって、上半身を傾ける。

「喜多川祐介とはいつから知り合いなんですか?」
 狙い定めたキューの先がまさに手球に触れるというタイミングで、明智くんから質問が投下された。
「あれ、思ったより動揺しませんでしたね」
 彼には期待外れだったようだが、変な力が入ってしまった球は想定よりかなりずれた。転がる手球は当たりをつけた球に当たりはしたものの、やがて盤の角にぶつかって虚しいだけの音をたてる。

 明智くんのほうを確認すれば、その観察眼は球の行方などではなく俺のほうへ向けられていた。お決まりの名探偵顔。

「彼、随分ご執心みたいじゃないですか。だから、こうして貴方を連れ歩いてるのも半分は仕返しっていうか」
「なんだって?」
 耳を疑いたくなるような言葉が矢継ぎ早に繰り出される。その合間を縫って、俺が外したばかりの九番ボールを彼はいとも簡単に仕留めた。どうやら明智吾郎にまともなスポーツマンシップはないようだ。

「実際どうなんですか。高校生から好かれるのって。いい気分? それとも面倒なだけ?」
「少なくとも、いまはいい気分じゃない」
「そうみたいだね」

 挑戦的に煽られるのはなにもはじめてのことではない。それでも、このときばかりは軽口の体(てい)を装うのに苦労を要した。それはそうだ。祐介の感情が軽々しいものじゃないのを俺は知っている。

 恋愛感情に重いも軽いもないとは思う。だがそれは祐介という特例を除けばの話だ。あの、一見冷静そうにも見える細い体のうちに、存在する情熱のたった一端でも向けられれば理解せざるを得ない。

「まさか、本気じゃないですよね」
 俺から返事がないことを察すると、どこか面食らった調子で明智くんは言った。
 ここで胸中を晒すことにはなんのメリットもない。高校生を相手に、というのもある種正常な視点だ。

「あいつの気持ちを茶化したことは一度もないよ」
 良い手ではないことが分かっていたとしても、少し報いてやりたくなった。大概こちらも正常ではないのだ。

 そんな俺の発言を明智くんは露とも予想していなかったらしく、珍しく言葉を失っている。
……ああ、本当にこんなことをしている場合ではないのに。彼の「仕返し」とやらのおかげで、その祐介本人とも結局会えず終いだ。彼はいまどんな精神状態でいるだろうか。単純にそれが心配だった。また変な思考のサイクルにはまってなければいいが。