6月5日(朝)

 ……軽率すぎる。
 自らの行いのどこを取ってもそう評価するしかない。仕事の話ではない。日中のことはひとまず穏便にこなせている。
 目下の悩みはそこではない。目の前で昏倒してしまった喜多川少年だった。

 早すぎる再会を果たしたその日、一も二もなくまた倒れてしまった祐介は翌日起き上がるなり、申し訳なさそうに身を縮こませていた。それでもなお、なかなかの長身をすっぽりと毛布に包ませてこちらを窺っている。
 例のごとく、彼よりも一足早く起床していた俺は今朝のニュースをチェックしていたタブレットを机へ置いて彼を迎えた。政治面をスクロールした先に芸能ニュースが載っている。今朝の話題は有名画家の不祥事で持ちきりだ。祐介は数秒ほど液晶の画面を見つめていたが、すぐに視線を外して俺に向き直った。

「また、ベッドを借りてしまった」
 他にもっと気にするところがあるとは思うが、彼がいま気に病んでいるのはその一点らしい。確かに、あの日と同じくソファで寝る羽目になった俺の身体は幾分か軋みを訴えている。しかし男の一人暮らしだ。寝床は当然一つしかない。あまり俺と背丈の変わらない、それも成長中であろう身体に狭い思いをさせるのは酷じゃないだろうか。そんなことをぼんやり考えていると祐介の言葉が紡がれる。
「眠ってしまうつもりでは……その、面目ない」
「そうだな。体調管理がなってない」
 少し強い言葉節で返すと、祐介はさらに縮こまってしまった。それを見て微かに心が痛むが、これくらいは言い返す権利があるだろう。目の前で倒れられるのはそれくらい心臓に悪い。
 促すと祐介は素直に向かいの椅子に腰掛けた。テレビを点けずにタブレットを使っていたのはなるべく音を立てないためだった。テレビの雑然とした環境音は寝不足の頭にはきついだろう。

「もう身体はいいのか」
 何かあったのか。とはとても聞けない。
 その代わりにそんなことを吐いてしまったのだろう。彼がここに寝泊まりするのは二度目になるが、初犯ならまだしも、今回も無断外泊に対するお咎めはどこからも届いていないらしい。未成年であるにも関わらず、だ。単に放任主義の家庭なだけかもしれない。しかし昨晩祐介が吐いたあの言葉、──居場所がないという言葉はその可能性を打ち消すものだった。彼の唯一の持ち物である学生鞄にはそれなりに物が詰まっているのが窺える。どうやら学校にはしっかり通っているようだが……。
 そこまで考えて俺は思考を手放す。全て単なる無粋な憶測にすぎない。知ってどうする。関わって、どうする。

 祐介の前にはコーヒーが置かれている。起床してからコーヒーを飲むのは俺の習慣だった。そのついでに用意したマグの中身が自分のものと比べて随分薄茶色になってしまっているのはカフェインの効用を慮ってミルクを足し過ぎた結果だ。初日も問題なく口を付けていたから、苦手なわけではないだろう。

 祐介は落としていた目線を上げ、こちらを見た。ともすれば睨んでいるのかと勘違いするほどに強い視線だ。彼は視線の強さはそのままに口を開いた。
「……二度目だ。これで」
 いまだに毛布を手放さないまま、おかしな毛布の幽霊が俺を見つめ続けている。祐介は何ごとかを言おうとしてそれを噤む。言葉を探しているらしい。何回かそれを繰り返し、ようやく会話が再開される。
「ここにいると、よく眠れるようなんだ」
 時間を要したわりには直球な物言いだった。口に出してから不満、という表情を作っているところを見ると、彼は自分の考えを正確には伝えきれていないようだった。
「人の気配があるほうが眠れるか?」
 補足するように問いを返すとゆっくりとした首肯がひとつ返ってくる。
 理屈自体は理解できる。その相手が俺なことだけが問題だ。信用してくれるな、俺なんかを。ほかに該当する人物くらいいるだろうに。毛布の幽霊がこちらを見ている。懇願のまなざし。

──関わってどうする。俺の理性が俺自身に確かな警告を寄越す。
(寧ろもう手遅れだろ、)
 祐介が目の前のマグにも手を付けず、俺の返答を待っている。淡い期待のこもった視線だ。そんな目で見られたら、俺は観念せざるを得ない。ここまで期待を抱かせてしまっている時点でなにもかも手遅れ。俺の過失だ。

「とにかく、家の前で待つのは今後やめてくれ」
 今後、と発音したあたりで祐介の表情が一段階明るくなる。分かりやすいのがこうも厄介に感じることがあるのか。せめてもう少し分かりづらい相手であれば気が付かない振りもできるのに。
「今後も訪ねていいのか」
 ほら、こうなる。……これってもはや脅迫の類じゃないか?
「都合が合えば」
「ああ! 勿論だ」
 祐介の喜色満面の表情とともに被っていた毛布がどこかへ飛んでいく。続けて鞄から携帯を取り出してみせた。訪ねるときはこれで事前に連絡をするということなのだろう。すぐに携帯電話が手段として出てくるところは流石若者だ。
 連絡先の交換も滞りなく行われてしまう。もはや逃げ道はない。

 俺はきっとこの選択を後悔する。そんな警告音が頭を巡るのに、随分と健康的な表情を取り戻した祐介を前にすると確かに安堵してしまっていて。一時の感情に流されている、その浅はかさを自覚しているのに。いまは現実逃避代わりの自嘲を浮かべることしかできないのだ。