(──堪え難い。)
新たに居を構えた場所ではあるが、そこは心休まる我が家とは世辞にも言えない環境だった。
斑目の一件に終止符を打った俺がまず突き当たった問題は、今後住む場所をどうするかということだった。身寄りもなく、頼れる先も少ない状況ではあるものの、幸い俺が通う洸星高校には学生寮という有難い制度があった。斑目に勧められるがままに進学を決めたに過ぎないが、学生への支援は手厚い校風だ。遠方からわざわざ受験してくる生徒もいるらしく、寮に空室があったことは幸運だった。
問題はこれで一度解決したかに思われた。だが部屋を決めたときの俺は共同生活の意味を理解していなかったのだ。
洸星高校は共学だ。しかし寮ともなれば当然男女は別れた建物に宛てがわれる。それが意味することとは。つまり。
(あまりにも! 五月蝿すぎる!)
この時期の男児の騒々しさを完全に視野に入れていなかった。
俺はそれまで、共同生活には慣れたものだと思っていたのだ。斑目の門下生があの家に数人暮らしていた時代が確かにあったからである。しかしそれはある程度分別を持った年頃の者たちが、かつ斑目という画家先生の制御のもとで、という特殊な環境だったのだ。
廊下で何事か競うように会話をする同輩の声を耳に入れつつ、俺はなんとなく竜司の顔を思い出していた。あいつは普段から声が大きい。しかしおそらくそれが男子高生としてのスタンダード。暁のような物静かなタイプのほうが珍しいのかもしれない。
とにかく、学生寮での生活は俺にとってかなり酷なものだった。
それでも贅沢は言っていられない。しんと静まり返り俺を拒む斑目邸に比べればここの喧騒のほうが幾らかマシだろう。初めのうちこそそう言い聞かせたが、昼夜問わず御構い無しに耳に入る雑音、怒鳴り声は確実に俺の心を蝕んでいた。滞在時間を減らすべく、なるべく学校に居残り、時間を潰してもすぐに下校時間はやってくる。怪盗団の集まりがあれば状況は変わるだろうが、今日に限ってはそれもない。
世直し以外にも色々と忙しい連中だ。モルガナ辺りなら暇を持て余しているかもしれないが、彼だけにコンタクトを取る手段を俺は知らない。
じっと携帯のチャットアプリを眺める。元より携帯はあまり使うほうではない。リストにあるのは怪盗団メンバーを除けば、連絡用の美術部員のグループくらいしかない。
しかし数日前からはそこに新たな名前が追加されている。兎田十眞。俺が半ば強引に手に入れたものだ。連絡先を寄越すとき、一時だけ十眞は躊躇うような素振りを見せた。当然だろう。彼にはなんらメリットのある取引とは思えない。彼に会おうとするならば、俺から行動を起こさなくてはならない。それだけはしっかり意識としてあった。
駄目でもともとだ。俺は半ば自棄っぱちで十眞との連絡を試みることを決めた。俺たちはまだ他人と言ってしまえるほど希薄な関係だ。少しでも煩わしい想いがあるなら返信しない選択だってできる。その程度の。
『今夜会えるだろうか』
……想定よりずっと率直な言葉が出てしまった。
だが一番伝えたいことはこれなので間違いではない。自分の送った言葉に少し驚きながら、俺はそう己を落ち着けた。
平日の夕方。素直に考えれば社会人は忙しく働いている時間だ。彼の職種は知らないが、スーツ姿のイメージから自由業ではないだろうと推測できる。俺は一度携帯を懐にしまいなおし、彼を待った。
けして期待はしすぎないように。それでも意識はポケットに忍ばせた携帯に傾けながら。
そして、そろそろ日が暮れ出すか、という頃合いで振動が彼からの連絡を告げた。
『家、なにもないぞ』
「……誤解だ」
やはり、文字でのやり取りは難しい。どうやら何かたかっているように思われたようだ。慌てて、けして即物的なものが目的でないと伝える。齟齬を生まないように言葉を選ぶと、どうも取って付けたような形になってしまい上手くいかない。思えば怪盗団でのチャットでは大概俺以外の誰かが話の中心に立っている。それを俺は相槌を打ちながら思った意見を述べるだけだ。自分から何か発信するのとで、こんなに勝手が違うとは。
こんなときあいつらはどんな話し方をしていただろうか。ああ、普段からもっと積極的にチャットを使っておくんだった。そんな後悔をすればするほど深い自覚が襲う。
──俺はチャットが得意でない!!
『冗談だよ、分かってる』
ぐだぐだと言い訳を送ってしまう俺とは対照的に十眞のメッセージは簡潔だった。ともすれば言葉少なにも思えるが、彼と俺では熱量が違うのは当然だ。しかし肝が冷えるタイプの冗談はやめてほしい。
『今日は少し遅くなるから、それでもいいなら』
続いて十眞から詳細な時間が送られてくる。許可が降りたのだ。俺はそれを二つ返事で了承した。
兎田邸は三階建てのマンションの一室にある。大きめの門構えの中にあるエントランスフロアにはシンプルな造りの長椅子が置かれている。ここから先へ入るためにはロックのかかった自動ドアを突破しなければならない……、という建前になっているが、その実このセキュリティがどれほど効果のあるものか分からない。
実際二度目の訪問の際、俺は労せずこの扉を突破している。あのときは十眞にもう一度会うという一念だったため、ここがロックのかかった扉であるという認識に至らなかった。つまり、それは偶然通りかかった住人の後に続く形で中に入れてしまったからなのだ。それではオートロックの意味がない、と心配になるが、そこは俺が学生ということで、警戒されなかったのかもしれない。
しかし今日はあの時とは違う。今夜はしっかり約束を取り付けているのだ。その安心感が俺の心に余裕を齎している。思えば、二度目の訪問は侵入の手口も含めてまるで物盗りのようだった。俺は怪盗団の一員ではあるものの、現実世界で、まして十眞相手にそういった振る舞いをしてしまったのは反省すべきことだ。
壁の隅に設置された監視カメラがこちらを見ている。しかしそれ以外は特に気配もない無人の空間。学校と寮と、一日中喧騒の中にいた身体に静寂が沁みる。ここに入れば雨風は凌げるし、いくらでも時間を潰すことができそうだ……。
「祐介」
十眞はほぼ宣言通りの時刻にやってきた。外から俺の姿を見たからだろうか、たった数歩の距離を駆け足でやってくる。
「待たせたな、悪い」
……彼のような男を優男というのではないだろうか。先も言った通り十眞が時間を違えたわけではない。手持ち無沙汰で、時間より早く来てしまったのは俺だ。
「いや、俺が待ちきれなかっただけだ」
そう告げると、十眞の表情が意外そうな形で固まった。そもそも俺から約束を取り付けたのだから、そう驚くこともないと思うのだが……。やはり俺のチャット内容ではあまり意図することが伝わっていなかっただろうか。
会話もそこそこに、慣れた動作で扉を開けた十眞が先を歩くので俺もその後に続く。その道中で、俺は改めて先のチャットでのやり取りを詫びた。
しかしその話題を出すなり、十眞の纏う気配が空気を震わせた。どうやら笑っているらしい。距離を詰めて顔を覗き込むも、すんでのところで背けられてしまう。
「どうした?」
「いや、思い出し笑い。お前とのチャットは仕事中に見るもんじゃねえな」
そう言いながら十眞はひとつ咳払いをした。しかしそんな誤魔化しもうまく行かず、思い出し笑いとやらが抑えきれず漏れ聞こえる。俺の方はというと、彼が何に対して笑っているのかが分からず、置いてけぼりを食ったかのような心境だった。玄関前まで来て、やっと目が合う。
「そんな心配しなくてもちゃんと伝わったから大丈夫だ。別に、気分を害したわけでもない。むしろ……」
その後に続く言葉を俺は待った。たった一拍にも満たない間だったが、それを壊さないように息を潜めた。
「嫌いじゃないよ。お前の言葉は真っ直ぐだから」
十眞はそれだけ言ってのけると速やかに鍵を回して中へ入ってしまう。嫌いじゃない、とはどういうことだろう。その真意を是非とも聞きたいところだったが十眞が片手で扉を抑えながら中に入るよう促すので、ひとまずその動きに従うことを優先する。
「飯はもう食ってきたか?」
「ああ」
部屋に入るなり、十眞が俺に尋ねる。あんな会話があった後だ、そこは抜かりない。
洸星の寮には残念なことに食事提供はない。運動部専用のほうには寮母がいるらしいことを風の噂で聞いたが、俺には到底縁のない話だった。なので、ここ数日は必要に迫られての自炊生活だ。食事の提供こそないが、生活に想定されるだけの家電は備え付けだし、光熱費なども特待生でいるうちは学校側が負担してくれるため、一人暮らしとしては破格の待遇であろうとは思う。ただ提供された冷蔵庫に備蓄しておくべき食材がないだけで。
「モヤシ炒めとモヤシのお浸しとモヤシの味噌汁をな」
「……好きなのか、モヤシ」
「ああ」
美味くて栄養もあって価格が手頃なところが素晴らしいと思う。豆のありなしなど、種類も割合豊富なのでうまく使い分けていけば飽きもこないだろうと考えている……と、今後の作戦も織り交ぜつつ語るのだが、それを聞く十眞の表情は芳しくない。
「お前、よくそれでそこまで順調に育ってんな」
「モヤシを甘く見ると後悔するぞ」
「にしても限度がある。そのモヤシのローテは考え直せ」
いやに真剣みを帯びた声で咎められてしまった。そうは言ってもこれがいまできる最善だと思うのだが。まだ当面、金策の予定は立っていないのだし。という俺の状況も十眞には知る由もないことだが。
それでも何か反論をしようと口を開いた俺の目の前にポップな色遣いの紙でできた箱が差し出される。
この色の組み合わせは駅前で何度も見ているので知っている。いつも通りすぎるだけで入店したことはないが。これは。
「十眞、俺にはこれがドーナツ屋の箱であるように見えるのだが……?」
「ああ。開けといてくれ」
十眞はそれだけ言うと、箱を俺に手渡して奥の部屋に消えていってしまった。箱を抱えたまま半信半疑の俺。しばらく外装の緑や赤色と睨み合ったあと、意を決して中をあらためる。そこには目を引く愛らしい色をした輪っかが並んでいた。
確かにエントランスで会ったときからなにやら横長の袋を提げているとは思っていたが、まさか自分に関係のあるものとは思わなかったのであまり目には入っていなかった。
衝撃を受けていると、ジャケットを脱ぎ、眼鏡姿になった十眞が戻ってくる。
「座っていいぞ」
何度か目にしている完全オフモードの彼に指摘されてから、俺は自分が立ち尽くしたままであったことを自覚する。危ない。落としてしまっては台無しだ。
「あ、ああ。十眞これは」
「駅前のやつ。時間も時間だからそんなに種類残ってなかったけど」
いや、駅前にあることはわかっているんだが。十眞は時々説明が足りないところがあると思う。そうこうしている内に彼は台所に向かって、湯を沸かしはじめた。結局いつもと同じパターンだ。
「お、お構いなく」
「夕飯全モヤシの奴を前にして構うなってのが難しいと思うぞ」
……そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
「できたのか、帰る場所」
唐突にそう投げかけられたのは、お互い席に着いてからだ。箱からドーナツを取り出しながら、敢えて目線を外して彼はそう言った。俺が以前言っていたことを覚えていたのだろう。自炊の話題が出たことでこちらの環境に変化があったことを悟ったのかもしれない。寮に転居したことは俺の目下の悩み事にも直結しているので、それを話題にされるのは都合がいい。俺は話に乗ることにした。
「先日から学生寮に」
事実を端的に告げる。すると十眞はこちらに視線を戻し、目もとを緩ませた。
「そうか、」
返ってきた言葉はそれきりだった。それでもその態度の端々から彼が安堵していることが明確に伝わっている。
言うまでもなく気が付いていたことだが、十眞は善人だ。こういう反応を目にすると余計に気付かされる。彼の常識では可哀想な未成年である俺を庇護することは当然のことなのだ。彼から受ける同情は心地が良い。俺は彼の施しが同情に起因していると理解しながらそこに凭れかかっているのだ。
十眞の皿にはチョコレートの茶色、俺の皿には抹茶の緑が乗っている。
「じゃあ楽しいだろ」
「え」
十眞がカップに湯を注ぐささやかな音だけが耳に届く。彼の言葉がどこにかかっているのか分からず、思考が止まってしまったのだ。
「俺も学生の頃は寮だった」
そう続けられた言葉で、彼の言葉が何を示しているのか理解する。寮は楽しいだろう、と。俺が抱えていた悩みとは真逆の視点だ。
「たのしい……?」
確かに、あそこに住んでいる俺以外のメンバーはきっと日々そんな気持ちでいるのだろうと想像できる。もちろんそんな単純な感情のみということはなかろうが、だからこそあれだけ騒がしくできるのだ。
十眞にも雑多とした男子生徒の輪に加わっているようなときがあったのだろうか。……あまり上手くイメージできないが。
「十眞は楽しかったのか?」
「多分美化してるとこもあるけど……、大人になると学生時代なんて大概がいい思い出になっちまうからな」
「そう言うほど昔のことでもないだろう?」
「お前俺をいくつだと思ってんだ」
隔たりを感じさせるような口振りが気に入らず、ついそんなことを口走ってしまう。実際、幼い頃から歳上に囲まれていた俺にとって十眞くらいの歳の差はそれほど壁があるとは思えない。いや、たとえそうであっても年長者は敬うべきではあるのだが。
新しい環境に慣れないのだと、弱音を吐く前に先手を取られてしまった俺はひたすら糖分の咀嚼に口の機能を費やす。
(楽しむことができるだろうか、俺にも)
洸星でのいまの俺の立ち位置は正直に言って微妙なところだ。それは斑目のスキャンダルに起因している数々の憐憫、軽蔑、奇異などの類のものだ。その片鱗を感じるたびにこちらからも他と一線を引いてしまう。それは当然の防衛本能だ。しかし本当に寮の人間全員が全員そうなんだろうか。それを見極められるまで観察してみるのもひとつの突破口かもしれない。
「流石の年の功だな十眞」
「そりゃどうも」
十眞は手の中のチョコレート味を口に放り込みきるとカップを傾けた。時間帯を考慮してか、渡された中身はいつもの甘いコーヒーではなく紅茶だった。
「しかし、寮ってことはあんまり夜中に出歩くのは良くないんじゃないか」
一息ついてから、ふと思い出したように十眞がそんなことを言った。紙箱の中にはまだ二つドーナツが残っているが、ひとつ食べれば十分らしい彼はそれ以上手を伸ばそうとはしない。
「その点は抜かりない。外泊許可は取ってきた」
心配には及ばない、と返答すると目の前の眉間に皺ができる。しっかり手続きしたのだから何も疚しいことはないはずだ。流石に親戚でもない社会人のもとに転がり込むと言うと心証が悪いので、友人宅ということになっているが。
「褒められたことじゃないのは理解してるんだな……」
十眞のぼやきには呆れが含まれている。つくづく俺たちはフェアな関係ではないと思う。
それでも残ったドーナツをふたつとも迷いなく俺に勧める彼に、浅ましくも俺は凭れかかるのだった。
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