6月9日(昼)

 人目を避けた裏手で俺は半ばぼんやりとスタジオに目を向けていた。いま収録されているのはもう十何年と放映が続いている長寿討論番組だ。テレビの中で何度か眺めたことのある風景が目の前で繰り広げられているのはどうにも奇妙で慣れない。番組の進行は俺の預かり知るところではなく、雑多なことは番組側のスタッフたちが請け負ってくれるのでここでは大してすることもない。手元の資料とスケジュールの擦り合わせをしながら突っ立っている時間がこれから三時間は続く。要はただの待機だ。待つのも仕事のうちなので、とくに不満があるわけではないが。

 複数の人の気配と雑音の中で、靴音が硬い床を叩くのが耳に届く。小綺麗な一対のローファーが奏でる音は等間隔を刻み俺の真隣で止まった。そこまできて、ようやく俺はその音の正体へ目を向ける。

「こんにちは」

 目線を少し下げた先に位置した顔は柔和な笑みでもって俺を見つめていた。肩ほどまで伸ばした栗色の髪、人好きのする笑顔。この人物を知っている。というより、いま日本国民で彼のことを知らない人間のほうが少ないだろう。──明智吾郎。現役高校生にして探偵業までこなす有名人だ。
 彼のことはテレビ局を訪れるたび何度か目にしてはいたが、こうして接触するのは初めてのことだった。少々面食らったのを悟られないように、俺はいつも通りの顔を作って彼に向き合った。
「ええ、こんにちは」
 額面通りの挨拶を返すも、彼はすっかり足を止めて動き出す素振りがない。通りかかったから挨拶をした、という類の接触ではないらしい。

「終わるまではまだかかりますよね? 少しお話できませんか」
 などと控えめに笑みを漏らしてみせるものの、そこまで承知の上で声をかけてきたのならばこちらが誘いを断ることは想定していないということだ。一見柔らかな物腰に思える明智少年だが、その奥には有無を言わせない意志の強さも確かに感じさせるのだった。

 

 

 現場に残る同僚に断りを入れ、俺はスタジオ近くの喫茶店へ明智少年を連れて訪れていた。喫茶店が混み合う時間帯から外れていたため、特に待つこともなく二人掛けの席へ通される。どちらともなく、俺が壁際、明智少年がその向かいに腰掛けた。
 色めき立ち、チラチラとこちらに視線を寄越す客や店員を目の当たりにすると、なるほど彼は有名人なのだな、と改めて認識する。

「どのような用向きですか、明智さん」
 とはいえ、あまり長居をするつもりもない。
 俺はざっと眺めたメニューからアイスコーヒーを選びながら、すぐに本題に入る姿勢を見せた。明智吾郎はその肩書き通り、頭のきれる人物だ。何の理由もなしに、たまたま現場が重なっただけの俺に声をかけているとは思えなかった。少し背筋が伸びる思いで先を促すと明智少年は苦笑の形を作る。
「敬語はいいですよ。呼び方も、どうぞもっとフランクで」
「じゃあ、……明智くん」
 そうは言われるものの、なんとなく打ち解け切る気持ちにはならず、結局俺は一定の距離を取ったままの呼び方に落ち着いた。明智くんは顎の下で手を組み、少しだけ前のめり気味になる。そして潜ませた声を使ってこう言ってのけた。

「実は貴方のことが気になってて」
 ……なるほど。そういう種類の軽口を言うタイプだったんだな、明智吾郎は。

「それはさておいて、本当のところは?」
「あれ、乗ってくれないの?」
 顔に似合わず真面目な人なんですね。と、明智くんは拍子抜けしたように言ってのける。人当たりのいい表情のままだが、内容はなかなかに失礼だ。不真面目な顔ってどういう意味だ。
「──まあさっきのはジョークですけど、興味があるのは本当です。貴方はよく目立ちますから」
 このタイミングで店員が二人分の飲み物を持ってきた。アイスコーヒーとハーブティーは速やかに俺たちの前へ置かれる。明智くんは受け取ったカップの持ち手を弄りながら話を続けた。店内だろうと手袋を外さないまま。視線もこちらに向けたままだ。
「兎田さん、元は警察にいらっしゃったそうですね」
 いままでの前振りはなんだったのか、明智くんは拍子抜けするほどあっけない声色でそう言った。
「……驚いたな」

 脈絡のない流れであるにしろ、彼の言うことは正しかった。
 自身の経歴については別段隠しているわけではない。ただ、知るものが限られた情報であることは確かだ。流石売れっ子探偵といったところか。どこかに俺には想像もつかない情報網があるのだろう。なのでそれを突き止めたこと自体には大した驚きはない。意外だったのは、わざわざ俺ごときの情報を調べる必要性を明智くんが見出したというところだ。

 一体なぜ?
 浮かんだ疑問を率直に表情にすると明智くんは言葉を付け加える。

「僕も職業柄警察関係とは面識があるほうですけど、兎田さんにはお会いしたことがなかったな、と思いまして」
 いかにも取ってつけた理由だった。それは俺が警察関係者とあらかじめ知っていなければ抱かない感想だ。明智くんのほうもそんな簡単な粗にまさか気がつかないということはないだろう。要は反応を観察されているのだ。俺は素っ気ない声のままで返事をする。
「表立った役職じゃなかったからじゃないか」
「まさか、そこでも裏方ですか?」
「裏方だって大事な役割だろ」
 それだけ言って、氷が融けだす前にコーヒーに口をつける。
「それは分かりますけど……、やっぱり兎田さんは裏ってイメージじゃないんですよね」
 ……初めて顔をつき合わせているというのに、随分印象が先行しているらしい。
「イメージで語るのは探偵らしからぬ発言なんじゃないか?」
「直感も大概馬鹿にできないものですよ」
──あるでしょう。第一印象で、その人とどんな仲になるかって案外分かるものですから。
 明智くんがカップの中身をかき混ぜながら言う。その言い分はにわかにではあるが、理解できる。つい最近、彼と同じような歳の子と、事故みたいな出逢いをしてしまった身としては妙に説得力のある話だ。明智くんにもそんな経験があるんだろうか。

──ブブ。
 そこでジャケットの内ポケットから通知を告げる振動がなった。

「どうぞ」
 明智くんが目を伏せながら確認を促すので、俺も遠慮なく携帯を確認した。
 てっきり仕事の通知かと思えば、俺を呼んでいたのは公用のものではなく、いくつか型落ちしてしまった私用携帯のほうだった。思い当たる相手がいないので不思議に思ったのも束の間、液晶画面は淡々とメッセージの送り主を示し、その役目を全うする。
 報せている名前は≪喜多川祐介≫。
 あの日連絡先を教えたきり、初めての着信だった。

 別に突かれて困るようなやましいことは何もないのだが、俺は液晶画面を明智くんの目から遠ざけるように、携帯を元の場所にしまった。
「返信しなくていいんですか?」
「仕事じゃなかったから。気にするな」
 どうやら明智くんの方は急を要する用事ではないようだし。あったとしても、今日手の内を見せるつもりはないのだろう。祐介には悪いが、彼と別れてからゆっくり返信をすればいい。そう思いながらグラスの中身を減らす。
「なるほど。公私混同しない主義ですか」
 と、これまた勝手に納得されてしまった。こちらをつぶさに観察する目はきっと職業病なのだろうとは思うが、少々居心地が悪い。
「僕もどちらかというとそういうタイプなので共感を覚えますね」
 学生と探偵業、その二足の草鞋の忙しさは俺には想像がつかない。その上、メディア出演も多く引き受けているとあっては、公私混同どころかプライベート部分はほとんど存在しないのではないだろうか。

 しかし明智くんはそんな多忙さなど感じさせない優雅な仕草でカップを傾けている。
「なんだか余計に兎田さんから仕事の話を聞きたくなるなあ」
「仕事の?」
 何の気なしに聞き返してしまったのがまずかった。俺から反応があったと分かると、明智くんは待ち構えていたかのような勢いでそれに返答した。

「ええ。そうだな、僕は職業柄警察の仕事に興味があって、それを兎田さんから教えてもらいたい。そう思っていることにします」
「今年高3だっけ?」
「はい。なので、進路に迷っている学生という設定で今後もお付き合いしてもらえませんか」
 ここでメディアで話題の王子様スマイルだ。何度か媒体越しに見たことがある。さも名案を思いついた、という風だが、その口ぶりはそれが建前であることを隠そうともしていない。

「そう言われてもな」
「まずは頑張って貴方のプライベートに入れてもらうところからですね。……十眞さん」
 果たしてこれは聡明であることの弊害だろうか。明智くんは相手のことをあまり構わずにどんどん話を進めるきらいがあるようだ。人当たりの良い笑顔で、彼は更に距離を詰める。ひとまわり近く歳の離れた少年に下の名前で気軽に呼ばれてしまうのはどうも妙な感じがある。
「……いまの高校生ってみんなそうなのか?」
「え?」
 思わず呆れた風の声が出てしまい、俺は口を閉じる。なんの臆面もなくいきなり呼び捨ての祐介と一緒にされては明智くんも心外だろう。

 ほぼ一方的な会話から解放されたころには俺はなんだか意味もなく疲れてしまっていた。
 彼は俺から何か探りを入れようとしているようだ。それが何かはまだ判然としない。具体的に約束を取り付けられたわけではないが、もうこれきり会わないというのも立場上考えにくい。
 少年探偵との思わぬ対面にしばらく途方に暮れてから、やっと祐介から連絡が来ていたのを思い出す。こちらはこちらで、全く色の違うものだが気にはなる。すみやかにチャットアプリを起動すると。

『今夜会えるだろうか』、というたった一行。
 用件だけがなんの前置きもなく投げかけられていた。理由は書き忘れたのか、それともそれすらもないのだろうか。

 数日ぶりのコンタクトではあるが、相手がそんな様子なので俺もとくに前置きなしに、話を進める。仕事が終わる大方の時間を考えながら「今日は家に何も用意してないぞ」、という冗談めかした文言を添えた。
 すると間髪入れずに新着のメッセージがやってくる。今度はさっきより更に言葉少なに、
『誤解だ』
の一言のみ。

 おそらく反射的に送ったであろう言葉の続きが送られてくるのには、そのあと10秒ほど時間を要した。
『俺がいつも食べ物を期待してお前に会っているというのは甚だしい誤解だ』
 ……この反応は、もしかして怒ってるのか?無機質な文字での遣り取りは、細部の感情が読み取りづらいことがある。

『勿論、お前の気遣いには感謝してもしたりないくらいなのだが』
 祐介は礼儀を知らない子ではない。それは何度か会ううちに理解していたのでその部分を取り違えたわけではなかった。しかし祐介は自分の発言に対して取り繕うことに必死らしい。
 「だが」、というからには続きがあるのだろう。俺は話の腰を折らないよう、次のメッセージが届くのをただ静観した。たっぷり1分ほどの時間を使い、とうとう送られてきた言葉は。

『俺はあまりチャットの扱いが達者でない』

(なんだ、その突然の自己分析は。)
 どうやら熟考の末、よく分からないところに結論が着地したようだ。当人の感情としては自己分析というより懺悔に近いのだろうか。

 それがなんにせよ、無感動なはずの液晶から祐介の動揺がありありと伝わるのが不思議で、公共の場であるというのに可笑しな気持ちがこみ上げる。これ以上の遣り取りは危険だ。そう判断した俺は祐介へのフォローもそこそこに携帯を再びポケットの中へと戻した。