6月11日(夜)

 ……銭湯という選択もありか。
 広い湯船に肩まで浸かりながら俺は考える。居を構えて五日が経った寮生活を思ってのことだ。洸星の学生寮には風呂がない。それぞれの部屋に簡易的なシャワー室があるのみだ。生きていくだけならそれで足りるが、単なる行水のようで心が落ち着くようなものではない。元々長風呂というわけでもなかったが、失って初めて分かる湯船の有り難みは俺を満たす。あの喫茶店からは目と鼻の先であるここに、暁はもっぱら通いつめているらしい。

「俺も銭湯はこっちに来て初めてだったんだけど、なかなか悪くないよ」
 そう言う口振りからは、ここが彼にとってかなりの気に入りである様子が見て取れた。心安らぐ場所があるのは良いことだ。彼にもそういった場所があって良かった。俺は暁に気取られないよう、小さく安堵する。
 寮の近くにも銭湯施設があればいいのだが……。肩まで湯に浸かりながら、ぼんやりと思考を飛ばす。そういえば、十眞の家では一度も湯を張っているのを見たことがない。彼の家には斑目邸のあばら家よりよほど立派な風呂場が備わっていたので、あれを使わないということはないと思うが。確かに、一人暮らしの場合はいっそシャワーで済ませた方が水道費はかからないのだろう。しかし彼はそれで十分に休めているのだろうか。いっそ、今度風呂に浸かることを提案してみるというのはどうだろう……。

「祐介? 逆上せたか?」
 暁の黒い瞳が発する視線に、はっと意識を戻し、咄嗟に首を横に振って正気であることを示す。
 ここのところ、気がつくと意識が兎田十眞という男に向かってしまいがちだ。それだけ興味深い人物であるのだと思う。年齢も、生業もなにもかもが違う。だからこそ、彼ならこういうときどうするだろうか、と様々な比較対象として引き合いに出すのはなかなか有意義であるように思えた。
 そんなことを知らない暁はほんの数ミリ首を傾げたが、すぐに俺との会話を続けた。話題は銭湯へ通う頻度についてだ。毎日通うとなるとなかなか痛手が見込まれる。暁がそれをどう遣り繰りしているのかは気になるところだ。
「回数券があるところなら通いやすいと思う」
「なるほどな、一考の余地はある」
「……いや。お前ら枯れすぎだろ……、」
 それまで俺たちのやり取りを黙って聞いていた竜司が突然会話を割って入ってくる。いつも逆立っているような造形の髪は、いまは水気で正しい方向に流れていた。
 俺と暁の視線を受けて、竜司はわざとらしいほどの呆れ顔を作ってみせる。
「あるだろ? 俺らコーコーセーなんだからよ、もっとフレッシュな話題がさあ」

 俺と暁の銭湯談義は見事に腰を折られてしまった。そう、ここは四茶の銭湯。そこに男三人でやってきている。つい先ほどまで喫茶の屋根裏で、俺の歓迎会と称した鍋パーティーが開かれていたのだ。
 死地を何度も共にした仲だ。今更親睦を深めるというのもおかしな話だが、それでも彼らの提案は素直に嬉しいものだった。心を許せる仲間とつつく鍋のなんと美味かったことか。
 話を竜司の間抜け顔に戻す。ついさっきまで呆れた風だったのが、いまはニヤケ面に変わっている。こほん、とまたわざとらしく咳払いを一つしてみせる。なんなんだ、一体。

「祐介さ、……やっぱ杏のこと好きなワケ?」
 一拍ほど置いて告げられた言葉は神妙な面持ちのものだった。
「無論好きだが?」
 杏の性根の優しさは、付き合っていればすぐに気がつくことができる特徴だろう。彼女の思い切りの良さは戦闘において心強いし、日常においては彼女がいるだけで場が華やぐ。仲間として文句のつけようもない。好きか嫌いかで問われれば答えは勿論前者だ。
「あ、そういうベタなのいいから」
「む?」
 熱を込めて問われたままに応えると、竜司の表情はだんだん白けたものに変わっていく。訊いたのはお前だろう、無礼な奴だな。
「そーいうんじゃなくてさ、お前最初は杏のストーカーだったわけじゃん?」
「人聞きの悪い言い方はよせ」
 なにが、わけじゃん?だと言うのか。あまりに不名誉な物言いに何か言い返してやろうと口を開くも、暁は竜司の言葉を否定することなく頷いてすらいる。どういうことだ、暁。
「ストーカーは被害者がそう感じた時点で当て嵌まるから気をつけたほうがいいぞ」
 どういうことだ、暁。

 杏の話題になったことで、屋根裏で話していたことを思い出す。
 俺たちは同じような行動圏で毎日を送っていたはずなのに、今の今まで互いを視界にいれていなかった。出身中学が同じだったらしい杏と竜司でさえ、単なるクラスメイトの域を出ることはなかったそうだ。今の関係を思えば不思議なことではある。だがそれは俺たちの内々の変化が原因だと、はっきり理解できていた。ある日杏は反逆の力を手に入れた。彼女自身の抗うための意志だ。それを得た彼女だからこそ、俺は街中から彼女を見つけられたのだと、いまはよく分かる。きっと俺自身が無意識のうちにその力に、意志に惹かれた結果なのだ。
 そうして、俺は彼女を含む怪盗団の仲間たちに出会うことができた。近しい光に目を向けることができたのは紛れもなく光明だった。

「この反応見る限り脈ナシか……?」
「仲間内で泥沼にならないようで良かったよ」
「あーモルガナな、だな」
 そんなかけがえのない仲間である二人は俺を置いて納得したような顔をしあっている。まるで話が見えん。

「まあ、杏が脈ナシだったとしても、絶対祐介はメンクイだよな」
 どうやらこの話題はまだ続くらしい。竜司がしたがっているのは恋バナというやつだろうか。どう返してよいか分からず、俺が閉口するとすかさず暁が口を挟む。
「つまり、そう思うくらい竜司は杏みたいな子がタイプだと」
 暁の指摘に、それまで茶化すようにニタついていた竜司の表情が一変する。
「な、何言っちゃってんの暁!?」
「そうか。そうなのか」
「違ぇって、俺はあくまで一般的な話をだな……、いや、いまは祐介の話だろ! 暁も祐介のタイプとか気になるよな!な!」
「まあ、確かに」
 動揺しきる竜司を哀れに思ったのか、暁は竜司の見え透いた逃走経路をすんなり見逃した。緩慢な視線がこちらへ向かう。こっちは逃してくれないのか。
「どうなんだ? 実際」
「そう言われてもだな」
 二人が言っているのは恋愛対象として、という意味合いだろう。そこまで促されて、俺はいままで自分の恋愛対象というものを考えてみたことがないのを自覚する。
 男女間の関係をテーマにした創作物は多い。それらを目にしても、きっとそういうものなのだろうな、と客観的にしか受け止めてこなかった。これは由々しき事態ではないだろうか。客観の意見だけに頼り、理解した気になるなど愚の骨頂だ。

「竜司、俺に好みのタイプの知り方を教えてくれ……!」
「お、おお? なんか急に乗り気だな!?」
単純に好き嫌いの判断だけなら簡単だ。しかし恋愛対象の話となると、とんと見当がつかない。ここは浮ついた話に明るそうな竜司を頼るほかないだろう。俺はそう判断した。竜司のほうも頼られたことに気を良くしたらしく、二つ返事で了承する。
「よし分かった。俺が言い当ててやるからな」
「よろしく頼む」
「んー、あれだろ。料理上手な子! どうだ?」
 竜司の口調は軽いままだが、それなりに自信があるらしい。口出しをしては来ないものの、視界の隅では暁が興味深そうにこちらを見ている。これは適当なことを言うわけにいかない。俺は少し思案してから、思った通りに応える。
「……どちらかといえば」
 どちらかといえばその方がいいとは思う。しかしそれはあくまで利害の話ではないだろうか。そうであれば有難いが、俺はパートナーとは対等であることのほうが望ましいと思う。
「あとはー……、そうだな。やっぱ身長差は燃えるだろ」
「身長……?」
「小さいほうが守ってやりたくなったりしねえ?」
 ……こちらを質問責めにしているつもりで逆に自らの恋愛観を滲ませてしまっていることに、この男はおそらく気がついていない。
「俺は大きさにこだわりはない。身長に関わらず、好いた相手のことは守りたいと思う」
「お、おお……。言うじゃねえか」
 不思議なことに、漠然と問われたときは露ほども浮かばなかったイメージが、竜司の戯言めいた質問に応えていくだけで形作られていく。

「──つまりまとめると、祐介のタイプは料理上手で気遣いが出来るけど反面守ってあげたくもなる系歳上美人ってことか」
「なるほど」
 竜司の総括を耳に入れ、そうだったのだなと合点する。自分のこととはいえ、きっと一人ではここまで詳細に把握することはできなかっただろう。だが納得した俺とは裏腹に竜司は拳で湯を叩いた。あがった飛沫が俺にもかかる。やめろ、公共の場だぞ。
「いねえよ!!」
「なにっ」
 竜司の台詞はほとんど癇癪を起こしたかのようだった。少し間を空けて、更に言葉を続ける。
「祐介、残念なことにな。お前の理想のタイプは多分空想上にしか存在しねえ」
 さきほどの衝動的な叫びとは打って変わり、なぜかこちらを諭すかのような言い方だった。竜司のくせにその憐れみが含まれた目はなんだ。

「竜司、なんか途中からアキ◯イターみたいだったぞ」
 一歩引いたところから俺たちのやりとりを見ていた暁が茶化すような声を出すと、竜司の意識はそちらに向かう。
「そうだ、暁! お前はどうなんだよ、お前にも吐いてもらわなきゃ収まりがつかねー!」
 それを聞いたのち、暁はほんの一拍だけ考えるように目を伏せてから口を開いた。

「俺は好きになった子がタイプだよ」
 それズルくないか。

 

 

 銭湯から帰宅すると、店仕舞いしてしまった家で俺たちを迎えたのはモルガナだけだった。聞けば、喫茶の主人は別の場所に住まいを持っているらしい。それだけ聞くと半ば放置されているのではとも思えるが、それを話す暁の様子は穏やかだったのでひとまず俺は安心する。
「ここの鍵を任されてるってだけでいまは十分だよ」
 暁と主人は血の繋がりがあるというわけでもなく、ここに越してくるまでは会ったことすらなかったのだという。たった一度の過ちで寄る辺のない場所まで追いやられてしまった彼の状況を思うだけで俺の胸にチクリと痛みが刺す。そのうえ、それが彼の正義に基づいた謂れのない冤罪であると分かっているから尚更に歯痒い。
 主人とは昼間に顔を合わせたが、俺たちを迎え入れる様子を見るに、きっと悪い御仁ではないのだろう。それが救いだ。こうして俺が寝泊まりすることも許してくれたのだ。良い人であると思いたい。

 モルガナと合流して、狭い階段を上っていく。暁を引き取る前には物置小屋になっていたらしい喫茶の屋根裏は、まだ微かに埃っぽい臭いが鼻をつく。それでも必要なものだけで構成された空間はもうすっかり暁を家主として迎え入れていたし、きちんと掃除もされている。暁自身もここは居心地がいいのだ、と相好を崩す。
「なぁなぁ、野郎だけで何話してたんだよ」
 ワガハイにも聞かせろよな、と興味津々に尋ねてくるモルガナ。俺たちが寝床の支度をしていようと構う様子もない。こういったときの仕草は非常に猫っぽい、と思う。暁は自分の足元に纏わりつく小さな身体をうまく避けながら布団を広げる。彼のモルガナ扱いはすでに手練れの域だ。

「ん? 恋バナ」
「にゃっ!? あのメンツでか!?」
 モルガナがさも意外そうに声をあげる。

「……暁、実はだな」
 そう切り出してしまったのは、俺自身で意外なことだった。竜司とその話をしてから胸に残っていた蟠りがあったのは確かだ。口から出てしまった以上、引くことはできないだろう。俺は息をひとつ吐いて言葉を続ける。
「さっきの話には具体例がいるんだ」
 と、曖昧な言い方であっても暁はすぐに意を汲む。何も言わずにソファへ腰掛け、俺の告白を聞く姿勢を取った。竜司との問答の末、いつのまにかある具体的なイメージが思い浮かぶようになり、最後のあたりなんてほぼその相手のことを考えて受け答えしてしまっていたのだ。その相手というのは、ここのところ気づけば意識を向けてしまっていたもの……、兎田十眞である。
 竜司とともに突き詰めた『理想の相手としての要素』が十眞に合致するのは認めざるを得ない。しかし、ならば十眞こそが俺の理想の相手なのか?という問いに俺は安易に肯定することができない。それはそうだ。あんな簡単な問答で決定づけられるものではないだろう。しかし、その答えを導き出したのは紛れもなく俺なのだ。

 俺の胸を占める困惑を、暁は黙って聞いていた。眼鏡の奥の瞳はいつも通り落ち着いていて、それが見つめているおかげで俺は取り乱しすぎることなく想いを吐き出せたと思う。俺が一頻り言葉を述べ終えると、ようやく暁は口を開いた。

「……ひとつ、明確に確かめる方法がある」
 俺は信頼するリーダーの妙案に縋ることにした。