ジクリ、とした痛みが走る。密やかな、しかし確かな痛みは俺を眠りの淵から急浮上させた。
目を開けて、状況確認に努める。寝ているのは自室のベッドで間違いない。視覚から入ってくる情報に異質なものは何もない。横たえた俺の身体にマウントを取っている喜多川祐介を除いては。
至近距離でこっちを見ていた相手と、バッチリ目が合う。カーテンが締め切られた室内は薄暗く、僅かな合わせ目から伸びる陽の光を受けて祐介の瞳は瞬き光る。そんな目が顔の真上、5センチほどの距離で俺を見ている。俺はすっかり目が冴えてしまい瞠目した。俺が目を覚ましたことは祐介にもすぐに分かったろうに、妙な位置に陣取ったまま彼の細長い身体は動こうとしない。それどころかどうやら瞬きすら忘れてしまったように固まっている。
──状況を整理する必要がある。
ここにいる彼は確かに俺が昨夜招いたのだ。昨日は午後に上司を連れた接待業務があった。仕事上の接待など、食事を交えただけの利己と利己のぶつかり合いだ。相手がああ言ってきたらこちらはどう返すか。いかに相手を絡め取るか。俺は集まりのほんの一端に過ぎないが、立場上無関心でいるわけにもいかない。通常の何倍も気を張る会話は精神が磨り減るものだと、身を以て理解することになった最近だ。
とにかくそんな心身状態であったため、小休憩中に何気なく開いたスマホに祐介からのメッセージが入っていたときはどう返答したものか迷った。
『確かめたいことがある』
相変わらず祐介の言葉はぶっきらぼうだ。以前チャットが不得意だと言っていたことが思い出される。祐介からの文面をなんとなく無下にできない原因はそこにもあると思う。不慣れな活字を駆使して送ってきているのがありありと伝わるからだ。多分、俺が何気なく返信をするのの数倍は労力を使っていることだろう。そうまでして連絡をしてくるところに、ある種のいじらしさのようなものを感じてきてしまっているのだ、最近の俺は。
そんな感想を抱いてしまうことに驚きはある。しかし相手はひと回り近く歳の離れた高校生だ。それがそれなりの図体を有した同性であっても、可愛げやそれに近い慈しみの情を覚えてしまうのもそれほど不思議なことじゃないだろう。俺はやや強引に自分を納得させた。
とにかく、その日の俺も祐介の要望を跳ね除ける気にはなれず、会う約束を承諾した。それからなんとか耐え抜くこと数時間、息苦しい仕事場から生還した俺はいつものエントランスで待ち構えていた祐介を連れて、無事に玄関の扉を開けた。祐介は俺の背中を凝視したまま、黙り込んでいる。そういえば、確かめたいことがあるとか言ってたな。結局それが何のことか分からずじまいだったが、そもそも俺はその内容について深く考えようとしていなかったと思う。祐介の根の善性を知っているからこそ、彼の考えることに対してあれこれ気を揉むこともないだろう、と判断したのだ。
「で、何を確かめたいって?」
しかしそれはそれとして、早いところ用件を聞いておかなければならない。祐介が訪ねてきているというのに、眠気が纏わりついて離れなかったからだ。早いこと用向きを済ませるよう話題を急かしても、祐介はなかなか話を切り出さない。それどころかひどく疲れていた俺を見かねたらしく、我が家にひとつしかないベッドを俺に譲ったのだった。
その辺りの記憶はしっかりある。だからこの場に祐介がいること自体はおかしいことではないのだ。
首の辺りには刺すような感覚が残っている。見れば俺の衣服は大いに乱されており、誰がそれをやったかと考えれば、答えはすぐに導き出されるもので。
「祐介、」
呼びかけると目の前の顔はやっと硬直から解放される。
「……間違えた」
「は?」
一体何が。
祐介の動転ぶりはあからさまだ。独り言のようにそう呟くと、掌で口もとを抑える仕草をする。それを見て俺は自分の身に何が起こったのか悟ってしまう。いまだ鈍く痛みを発する首筋を確認する手立てはないが、そこにはくっきり噛み跡が残っていることだろう。
祐介の発する通り、どこからどう見たってこれは間違いだ。だが一体何と間違うというのか。たとえ寝惚けていたって他人に、同性に、俺相手に噛み付いたりするものか。
状況が明らかになるにつれ、俺はだんだん冷静さを取り戻していった。ぐるぐると頭を回している様子の祐介を見ていると余計に、だ。
「とりあえず降りろ」
このままでは埒が明かない。まず適切な距離を取ることでおかしな空気をなんとかしたい。俺は上半身で起き上がり、いまだ自分の身体の上で固まっている祐介の肩を掴んで押した。しかし逆にその手を、掴まれる。
これ以上、一体何をしようというんだ。そう思い、抗議の色を含ませてすぐ目の前にある顔を見る。だんまりの祐介は俺の手を引き寄せようとしたらしい。しかし俺のほうもそう好き勝手されてたまるか、と抵抗をする。
俺がびくともしないことが分かると、今度は掴んだ手を力の軸にして、ぐっと自らの身を乗り出した。祐介の前髪が俺の顔にかかる。あ、まずい。距離がゼロになる。
「──ぐうっ!?」
予測不能、という形で漏れ出た声は祐介のものだ。それは、ドシン、という物音が鳴るのとほぼ同時だった。
「……あ、悪い」
咄嗟に俺の口から謝罪の言葉が出た。それを向けた相手はベッドの下で奇妙な格好で転がっている。距離を詰められた瞬間、祐介の胸ぐらをひっ掴んで力任せに投げた結果だ。だいぶ大袈裟な音が出たが、下の階まで響かなかっただろうかと心配になる。
「大丈夫か?」
しばらく待っても動かないのを見兼ねて更に声をかけると、祐介は急にスイッチが入ったおもちゃのような動きで半身飛び起きる。その目はすっかり平常通りの眼差しを取り戻しており、俺は知らず安堵を覚えた。
「世界が回ったぞ」
「お前が回ったんだ」
反射的な抵抗の末とはいえ、流石に投げ技を使ったのは悪かったと思い、俺はベッドから乗り出して祐介の手を引いた。こちらを見る彼は目を爛々としてみせる。
「今のは何という技だ?」
どうやら祐介の興味は自分を投げ飛ばした現象に向かってしまったようだ。何、と訊かれても咄嗟のことだったので特に決まった型というわけではない。それを伝えると祐介は少々肩を落としてみせる。
「そうか……、参考になるかと思ったんだが」
……一体何の参考にするというのだろう。単なる男子高生に、このような護身術が必要になる機会などあるはずもないが……。
と、一瞬にして彼のマイペースさに流されかかるも、すぐに気を取り直す。ろくに受け身が取れていない着地であったために心配だったが、特に怪我もないようであるし。そう、いま話題にすべきはこんなことではないはずなのだ。
「お前が確かめたかったことって何だ」
そもそも昨晩こいつを泊めたのもそのためだ。昨日あれだけ身体に纏わりついていた疲労も、一晩睡眠を取ったことで概ねなくなっている。思い切って締め切られたカーテンを開ければ朝の日の光が一気に部屋に入ってきた。さっきまで漂っていた妙な空気を取り払ってから尋問を始めたのは良策だったと思う。
「そ、れはだな」
話を自分のしでかした(もしくは未遂に終わった)行動に向けられ、祐介は口ごもる。数秒の思案ののち、なんとか言葉を紡いだ。
「友人と恋の話題になって」
──恋?
突拍子のない語り口に隠せない驚きが滲む。確かに、年頃で言えばそんな話題になるのも自然なことだろう。しかしそれがどうして今朝のことに繋がるというのか。疑問は次から次へ沸くが俺は黙って祐介からの釈明を待つ。
「俺は恋を経験したことがなかったから、うまく話に乗ることができなかった。しかし色々と考えているうちにだんだんお前のことが浮かんできて」
なんてことだ。……おかしな空気が戻ってきてしまった。俺は唖然として二の句が告げない。祐介の言葉は少しつっかえたりしながらも淡々として吐き出される。その表情からは真剣みしか感じることができず、これが冗談である線は早々に消えてしまった。そもそも祐介は冗談を言うような性格ではなさそうだ。つまり徹頭徹尾、本気ということになってしまう。つまり、俺を好きかもしれない、と。
「確かめるにはこの方法が一番だと」
「……その友達がそう言ったのか」
静かに首肯。俺は頭が痛くなる。どこの誰とも知らない祐介の友達よ、あまり軽々しいことを言わないでくれ。まるきり鵜呑みにしてるじゃねえか。
発端を聞けば、俺の身に起こったことは単純なことだった。目の前の思春期真っ盛りの祐介少年は友達に唆されるまま、一回り近く歳の離れた男の寝込みを襲った、と。状況は把握できても脳が受け入れることを拒否しているのか、うまく処理できない。
「と、いうわけなので」
閉口したまま混乱する俺をどう捉えたのか知らないが、祐介はどこにかかっているのかいまいち分からない接続詞を吐いて俺の方へ近付いてくる。祐介と俺はさほど身長差がないので、まっすぐ近付けばそのまま危うい場所に顔が寄せられてしまう。頭のキャパがオーバーしていた俺は少し鈍い反応で、しかしすぐにそれ以上の接近を阻止した。
「っこら、止まれ、おい」
なんで自然な感じで再開するんだよ、少しは反省とかしろ。近すぎる顔が何をしようとしているのか分かってしまってはこれ以上好きにさせるわけにいかない。祐介の綺麗な形をした頭を掌で押して俺は抵抗する。ぐぐぐ、と力を込めてくる祐介の腕力は意外にも強く、押し負けないようにするには一瞬も気が抜けない。
「十眞、なぜ抵抗するんだ」
「するだろそりゃ! 一旦冷静になれ!」
まさに猪突猛進。いまの祐介は自分の中に生まれた疑問を紐解くことに必死だ。だからってこれはない。うら若い男子高生が、自分の気持ちもよく分からないままに成人した男相手に迫るなんて、何から何まで間違っている。抵抗を続けながらそんなことを言ってみても祐介には通用しないらしかった。埒があかない。焦りや怒りがごっちゃになった感情が俺の胸に沸く。人の話を聞け!
「こういうことは一方的に進めることじゃない!」
苦し紛れにそう喚くと、何を言おうと止まらなかった祐介の暴走がピタリと止まった。それを良いことに、俺は更に畳み掛けることに成功する。
「とにかく頭を冷やせ。いいな」
そうだ。いま祐介に必要なのは己の行いを客観的に見ることだ。そうすればこの状況が異常なことだとすぐに理解できることだろう。
「あ、ああ。そうだな。そうする」
祐介はいやに物分かり良く呟いて、数歩下がって俺との異常な距離を修正した。
起床時間を告げるアラームが無機質な音を上げた。俺たちのやりとりを見届けた、とばかりのタイミングだ。一体どれくらい騒いでいたのだろう。時間だけで考えれば実はそれほど経っていないのかもしれない。だが体感はそんなものじゃない。疲れた。朝からひどく疲れた。
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