『好きな相手にしかできないと思うことをやってみるのはどうだ?』
暁の提案は明瞭そのものだった。つまり実際に行動に移して、自分自身の反応を見るのだと。
『理屈を捏ねるよりよっぽど分かりやすいだろ』
それを聞いたときの俺はあまりの妙案に膝を叩くばかりであった。あくまで己の感覚を信じるというやり方だ。いまだ惚れた腫れたのよく掴めていない俺には実に単純で飲み込みやすい。
そうなると問題は、彼を相手に実行できそうな、それでいて俺の中の疑問を突き止める決定打となる行動とはなにかというところだが……。更に頭を悩ませる俺に、暁は平坦な口調のままでこう続けた。
『そうだな……キス、とかはどうだ?』
──それだ。
思い立ったら居ても立っても居られないのは性分である。
日中の俺は暁の言葉ばかりが頭で反芻して、すっかりそのことしか考えられなくなってしまっていた。いち早く自分の中の気持ちを確かめたくてたまらない。
事情を知らない杏と竜司はそんな俺を遠巻きに見ていたが、暁が一言心配ないと伝えれば、納得したようで俺から目線を外した。それはいいのだが、その間際の、祐介がおかしいのはいつものことだもんな、などという言葉は聞き捨てならない。
とにかく、そんなこんなでやきもきとした気持ちを抱えつつ、俺は十眞の家に再び招かれることに成功した。仕事終わりの彼との待ち合わせにも慣れたものである。前を歩く彼の背を凝視しつつ、俺はさて本題をどう切り出したものか、と考えていた。
こともなげな様子で言ってみせる暁に釣られ、そのまま受け入れてしまった作戦だったが、いざ改めて考えるとそれがなかなか難易度が高いことに気がつく。
当然だ。何しろ恋愛ごとは分野外だ。少なくともいまの距離では目的は果たせないだろう。キスを実行するならばもっと近付かなくては。そうは思うのになかなか身体が動かず、むしろ相手を見ることもできず俯いてしまうばかりだった。
「──で、何を確かめたいって?」
俺の葛藤など知らぬ顔で十眞が口火を切った。こちらを急かすような口振りは彼にしては珍しく、少々奇妙に思い、顔をあげる。
そこで俺は、ようやくその日初めて十眞の顔を正面から目にした。いつもより多少よれたシャツ、瞼を開閉させる動きも普段より緩慢なように思える。その表情から見て取れるのは明らかな疲労だ。
「……、」
俺は衝撃を受けた。自分の身勝手さにだ。
自分の感情にかかりきりで、彼の様子を少しも省みていなかった。仕事でこうも疲れ切っているところを快く受け入れてくれているというのに。
話題を投げかけたものの、十眞はそこから先を急かすことなく、ただ俺を待っている。己の浮ついた気持に強烈な慙愧が襲う、俺は。十眞は。
「……風呂に、入るべきだ」
混乱に乗じ、兼ねてより考えていたことがつい、口から外へ出た。
あまりに脈絡のない俺の提案に、十眞はゆっくりとした瞬きで応えた。こちらの真意を読み取ろうとしているようだ。
しかしいくら探られたところで俺の中には意図もなにもない。ただ、十眞の様子があまりに疲れているようだったから。
そうだ、ここには立派な風呂場が備わっているのだから、シャワーのみで終わらせるのではなくたまにはしっかり活用して英気を養うべきなのだ。
そう思っても十眞にはいまひとつ伝わらないらしく、彼は依然として奇妙そうな顔つきのままこちらを見ている。
「なにか話したいことがあったんじゃないのか?」
と、そう思うのはもっともなことだ。無理を言って約束を取り付けたのは俺なのだから。
「気にするな、急ぎの話題ではないことを思い出した」
急拵えの言葉だが、これは本心だ。ついさっきまで気になって仕方がなかったことが信じられないくらいに、いまはどうでもいいことにさえ思える。俺の気持ちの在り処よりもいまは十眞だ。
十眞はいまだに何か言いたげな顔をしていたが、これ以上追求されてはこちらの罪悪感は膨らむ一方だ。俺はやや強引に話を切り上げ、浴室へ向かうことにした。
「俺が準備するからゆっくり支度でもしていてくれ」
「え、おい、祐介?」
と、足を早める俺の後ろから十眞の戸惑いの声が追ってきた。だがそれに構ってはいられない。
十眞はしばらく不審そうな視線を寄越していたが、俺が問答無用で浴槽をザブザブやり始めた辺りから諦めたらしい。背後に感じていた気配が消えたので俺は自らの行いを省みながら風呂掃除に専念した。湯の出所が分からず、蛇口を探し始めた頃合いで十眞から声がかかる。
「あとはそのパネルのボタン押せばいいから、そこ」
どうやら支度を終えて脱衣所へ戻ってきたようだ。指示通り、パネルの中で一番存在感を放つボタンを押すと湯は問題なく浴槽へ供給され始めた。ボタンを押してあとは待つだけでいいとは恐れ入る。斑目のあばら家で暮らしていた俺には馴染みがないものなので、教わらなければ途方に暮れるところだった。そのタイミングの良さに感心した俺はそちらへ向き直り、
「ああ、これか。助かったぞ十眞……、」
そこで俺の眼球はビタリと動きを止めた。
目の前に晒されたくっきり形を主張する鎖骨を目にしたからだ。シャツは第3ボタンまで開けられていて、その中の肌が見え隠れしている。
「……まだ湯は沸かしはじめたばかりだぞ?」
「身体洗ってるうちに溜まるだろ」
俺の困惑をよそに、十眞は平然とそう言うと、ずんずんこちらへ入ってきてしまう。
「お前も入るよな?」
「ふ、二人でか!?!?」
「なんでだよ」
俺とお前じゃ物理的に無理だろ、と十眞は軽やかに笑った。それはそうだ。彼が言っているのは当然、自分の入浴後に俺がどうするかという話だ。一瞬でも二人で湯船に浸かる想像をしてしまうほうがおかしい。十眞も当然そう思っているらしく、俺の咄嗟に出た言葉は冗談と受け取られたようだった。その誤解に、取り繕う言葉も思いつかずに口を開閉させるばかりの俺は助けられた。
「折角だから一番風呂もらうな。テレビとか、家にあるもんは適当に使ってくれていいから」
「そ、そうさせてもらう」
そんなやり取りをしている間にも十眞はどんどん衣服を脱いでいってしまうので、俺は動転しきる。一刻も早くここから出なくては。めいっぱい身体を薄くさせて狭い場を抜け、なんとか脱衣所から抜け出し、後ろ手に戸を閉める。
扉が閉まりきる寸前に、僅かな金属音が耳に届いた。きっと十眞がベルトを取り払ったときの音だろう。そのことに思い至ると謎の気まずさが俺の胸に襲いくるのだった。
そもそも、そもそもだ。十眞は少々警戒心に欠けるのではないか?
いくら年下の学生相手とはいえ彼にとって俺は見ず知らずも同然のはずだ。世の中には悪しき考えの輩がごまんといる。彼はそれを知らないのだろうか?
動転のあまり、そんな当て付けめいたことを考えてしまい、また自己嫌悪に陥る。
なんにせよ、彼が俺を信頼していることは確かだ。信頼には報いねばなるまい。カコン、と風呂桶の鳴る音を背中で聞きながら、俺は決意を新たにした。
相当に疲労が溜まっていたらしい十眞は、風呂から上がると俺との会話もそこそこに寝室へ向かってしまった。
「俺は元々敷布団派だから気を遣わなくていい」
寝床を譲ろうとする雰囲気を察して俺が先手を打つと、十眞はすぐに引き下がった。眠気が勝ったのだろうか。いつもは凛々しい目もとがそのときは眠たげにどこかあどけなさを含んでいた。
──今は一体何時だろうか。
一晩明け、俺は十眞の寝室へ足を踏み入れていた。
なんとなく寝入ることができず、夜中に何度も覚醒してしまった原因におおよそ見当はついている。昨夜の脱衣所でのやり取りが頭から離れないからだ。
カーテンの僅かな隙間から漏れる光が俺を導く。
少し彼の様子を確認するだけだ、自分の中の何かに言い訳をして俺は十眞の寝室へ忍び込んだ。わざわざ息を潜めて、彼を起こさないように意識している辺り言い訳のしようもないのだが。
ベッド隣のサイドテーブルには携帯と眼鏡だけがぽつんと置かれていた。彼の生活が窺えるその部屋で、まさに寝息を立てている彼。
俺の胸にわずかな緊張が走る。目を閉じたままの、一切取り繕いのない彼がすぐそばにいる。俺にはそれがひどく得難く、特別なことのように思えた。
(もう少し近づいても、気付かれないだろうか)
そっと息を忍ばせて、俺は思い切ってベッド際まで身体を近付けた。十眞は僅かに顔を横たえて眠っている。それを良いことに俺はここぞとばかりに彼の全体像の観察を始めた。上から下までじろじろと眺めるのは流石に起きている時にはできないことだ。
他人の寝姿とはこうも神秘的なものだっただろうか。兎田十眞の造形は美しいと思う。まず端的に言って男前だ。顔立ちははっきりとしていて華がある。高い鼻梁は大人の男という感じだし、それでいてスッと通った眦はどこかあだっぽく見ていて飽きない。
……竜司から散々メンクイだなんだと詰られたのが思い起こされる。だが、美しいものを美しいと言わずして何になる。俺だって画家の端くれだ。いまはスランプ中ではあるものの、そういったことに関する感受性は損なわれてはいけないと思う。
(いいな、やはりすごくいい)
見ているうち、俺は確信を強めていく。それは彼に出会ったときから感じていたこと。──この男を描きたい、という自分の欲望だ。
俺がそうしたいと言えば、十眞はきっと快く応じてくれるだろう。しかしそれを打ち明けることは俺にとって恐怖だった。それを告げてしまえば、俺が斑目の門下であったこと、支配され搾取されてきた過去、そしてそれに目を背け続けてきたことが順繰りに明らかになってしまうことだろう。それが俺には恐ろしい。弱く、卑劣な自分を十眞には知られたくない。そう思う。
「十眞、」
そう思い、ひた隠しにすることが既にどれだけ卑しいことだろう。強烈な自己嫌悪に襲われた俺は縋るように、眠る彼の傍らに項垂れる。俺の頭分の重さを受けて微かにベッドが沈んだ。
重心が変わったことで、瞼を閉じ続ける十眞の身体が僅かに動いた。俺は飽きもせず彼に目を向け続ける。男っぽい首筋から先は寝着に阻まれて目にすることができない。それにもどかしい気持ちを覚え、厚ぼったいスウェット生地に手をかけてしまったのは信じがたいことにほぼ無意識だった。ひたり、と手のひらに肉の感触が触れる。固い。衣服の下の十眞の身体は十分鍛えられたものだった。
寝ている相手に無遠慮に触るものじゃない、と頭では理解できたはずだ。だが場をわきまえない好奇心は一度湧くと止まらない。
俺が触れている腹筋ははっきりとその形が浮き出ている。なにかスポーツでもやっているのだろうか?少なくとも見せかけではないそれが、呼吸をするたび存在を主張していた。
よく観察すれば腕にもしっかりとしなやかな筋肉がついている。外見からそれほど目立つというほどではないが触るとよく分かる。竜司などの発展途上のものとは違う、成熟した大人の身体だ。
(美しい男だ)
その造形にいっそ溜め息が漏れる。
どれだけ遠慮なしに触っても十眞の眠りは深いままだった。抗議の一つも降ってこないことはじわじわ俺を焚きつけていく。
上半身をべたべた触って満足した俺は再び彼の表情へと視線を戻した。
ああ、いっそ早く起きてくれないものか。身体だけでは駄目なのだ。その瞳に俺を映してくれなければ。
『キスとかは、どうだ?』
ふと、リーダーの台詞が脳裏へ思い返される。
そう、そうだ。俺はそれを確かめに来たのだった。目的のみを思えばこの状況は紛れもない好機と言えた。
しっかり考えれば、この沈黙が彼からの許しではないことは明らかだった。しかし何故かこのときの俺は正しい判断ができなかったのだ。つまり、それは俺自身の欲望がそうさせたに他ならない。
惹き寄せられるように、俺はゆっくりと身を寄せた。寝息で僅かに上下する身体は触れれば温かい。
胸の辺りが異常に騒めく。脱衣所で目にした首筋がいまは目の前にあった。それがどうしようもなく印象的で、俺は。
──がぶり。
やってしまってから、思考は完全にフリーズした。
ぐっと噛みしめる歯に柔らかい感触がある。手のひらで触れたときは固いと思った肉が、途端に温かく、柔らかな感触に変わる。いくら男の身体とはいえ、噛み付けば歯とどちらが固いのかは明白だ。つまりいま俺が十眞の身体に柔らかさを感じているのはそういう理屈だった。
俺の頭は置かれた状況の把握にフル回転してしまい、少しも打開策を打ち出さない。
名残惜しさを振り払い、ひとまずそこから口を離す。
顔を上げた先で、両目と至近距離に視線が合った。十眞が俺を見ている。ガラス玉が溢れるほど目を開き、俺を凝視していた。眠りから醒めたばかりの彼が俺を見ている。
それは嬉しい。あんなに焦がれた瞳の色なのだから。しかしそんな彼の首筋にはくっきりと歯型が残されていて、自分のしたことがやっと実感としてやってくる。
俺は、寝込みに乗じて、一体何を。
自分のしでかしたことの理由が分からなかった。彼の肉体に歯を立てた瞬間、驚くほどの充足感に満たされたことも。
あまり力加減はできていなかった気がするので、きっと痛かったことだろう。謝らなければならない。
彼を傷つけるつもりはなかったのだ。そもそも俺がしたかったのは噛み付くことではなくて、
「……間違えた」
「は?」
口から出たのは謝罪でもなんでもなかった。当然、十眞は驚いたような、呆れたような顔でこちらを見ている。弁解のしようもない。俺は自分の中の欲をしっかり認識できていたからだ。
暴走の果てに十眞が鮮やかに俺を投げ飛ばしてみせたのはこれからほんの数分後のことである。
あまりに鮮やかな投げ技は寧ろ俺を安心させた。あれだけ無防備なさまを見せ付けられたあとでは、少し過剰な自己防衛でも足りないくらいだと思う。これだけの腕力があれば暴漢に襲われたとしてもきっと遅れは取らないことだろう。
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