実の弟だけど元悪魔だから合法

 五つ歳の離れた弟、グリプスは兄の贔屓目を除いたとしても聡明な子だった。文字の読み書きだってあっという間に覚えたし、同年代の子たちなどは歯牙にもかけず、相手が大の大人であっても言い争えば負け知らずだ。ぶっきらぼうな言葉選びで無用な衝突を生んでしまうことこそあれ、弟の言うことのほうが正しいので結局は言いくるめられてしまうのだ。
 そんな弟の存在は僕にとって誇らしく、同時に憧れでもあった。弟に憧れるなんて兄としてはなんとも情けないことなのだが、僕は弟の存在を長年そんな風に受け入れていた。

「俺はあんたを兄と思ったことはない」
 随分と成長した弟が、僕をまっすぐ見据えてそんなことを言い放った。つねである仏頂面は眉を寄せて不快の表情をつくっている。弟の心のうちが分からず、僕は小さく首を傾げた。
 夜更けが近づく自室にいるのは僕たち兄弟だけで、家人はみな出払っている。それを見越しての発言なのであれば弟の言葉はけして戯れやその類ではないだろう。
「いいか。俺はヴィータではない」
 弟の口振りは諭すように明確な音をして僕の耳まで届く。その内容はあまりに荒唐無稽で、僕にはすぐに理解できる話ではなかった。
 弟の言葉はこうだ。──俺は異界から追放された悪魔である。お前と同じ母親の腹から産まれたのは確かだが、いまの俺は転生した身であり真の姿は他にある、と……。

 静まり返った空間に時計が時間を刻む音だけが響く。もし、それが本当なのだとして、どうしてグリプスはいま僕にそんなことを言うのだろう。なにも、単に告白がしたいわけではないだろう。その先になにか望むことがあるのだ。
「ナナシ、」
 弟はいつも、それが当然のことのように僕の名を呼び捨てる。いまはそれが妙にしっくりときていた。

 ──数日前に父が亡くなった。街の外で怪物に襲われたのだ。何の前触れもない死に、家中のものが慌てふためいた。
 それでも慣習に基づいた葬儀は滞りなく行われ、家を離れがちだった弟も礼服に身を包み葬列へ参加していた。我が家は突如として家長を失ったが、幸い後継ぎは二人もいる。先に生まれたというだけで優秀な弟ではなく、凡庸な兄が家督を継ぐことになった。弟はというと当主の座に未練はないらしく、嫌な顔ひとつ見せずに、寧ろ彼にしては珍しく眉の力を抜いて柔らかい表情を作ってみせた。
「お前みたいなヴィータがこの辺りを治めれば俺も幾分かやりやすくなる」
 弟は確かにそう言った。嘘や欺瞞ではない。自身が家督を継ぐことにいまだに負い目を感じてはいるのだが、そうすることで弟の助けになれるかと思えば僕も幾分か納得できた。

 そんな遣り取りがあった夜である。
 参列者が帰り、母は父との突然の別れに心の整理がつかないらしくしばらく実家に戻ることになった。大きな家は珍しく、人気なく静まっている。
 弟はというとさっさと礼服を脱ぎ、いつものような動きやすい服に着替えていた。──もうどこかへ行ってしまうのか。せめて泊まっていけばいいのに。
 彼の振る舞いには慣れているものの、一抹の寂しさを覚え、僕は身支度を進める弟を引き留めるようなことを言ったと思う。
「一緒に寝ろってか?」
 弟は半分馬鹿にしたような表情で、そんな冗談を言った。僕たちは五つも歳が離れていたし、物心ついた頃には自分の部屋が与えられていたから一緒に寝た思い出なんてない。でも普通の兄弟がやるようなことをしてみるのもいいんじゃないかと思う。そう返せば弟は更に呆れたようになって「馬鹿か」と憎まれ口を叩いた。
 つくづく兄に対する態度ではないと思うが、そこまではいつもの僕たちの遣り取りだった。状況が変わったのはやはり僕の余計な言葉がきっかけだったと思う。父が亡くなったからか、母の泣き顔を見たからだろうか、今夜は妙にうら寂しく、踵を返そうとする弟を数秒引き留めるために思いつく言葉を半ば自棄っぱちで投げかけた。
「次に会うときは僕の見合い相手にも会ってくれ」
 弟は一度家を出れば次にいつ帰ってくるか分からない。きっとそれまでには僕の婚約相手とはそれなりに段階を詰めている頃合いだろう。弟は人見知りなところがあるから、次に帰ってきたとき驚かせないようにしてやらねば。
「見合い?」
 僕の言葉を拾って、弟が振り返った。随分驚いたような顔をしている。だけど家督を継ぐとなれば一緒に家を守っていく伴侶を得るのは当然のことだろう。母ももう何人か目星はつけているらしかったし。

 ガタ、と雑然とした音がした。僕の背が椅子を押した音だった。彼が突然距離を詰めたものだから、押しやられてしまったのだ。椅子と揃いになっている机は設えがいいからか、二人分の重みを受けてもビクともしない。それが僕の身体から逃げ場を奪っている。

「そんなものがいるのか」
 弟はつねより低い声を使ってさらに僕を追い詰める。口調だってまるで詰問されているようだ。何をそこまで意外そうにすることがあるのだろう。僕だっていい歳だ。寧ろ今までいなかったのがおかしいくらいだと思うのだが。
「許すわけねえだろ」
「家督の件はさっき許してくれたろう」
 わけが分からず、思いつくことを反論すると弟は一層顔を顰めて舌打ちをした。誰も教えていないはずなのにすぐに舌打ちをするのは悪い癖だ。
 ガツン、と硬質な嫌な音が今度は後頭部からした。僕は机に半ば乗り上げるような格好で押さえつけられていた。そこで弟との距離がついにゼロになったことを知る。よく知った顔は至近距離すぎて輪郭を失っている。彼の、弟の唇が僕の口を塞いでいた。そこまで理解はしても思考が全く追いついてこない。これ以上詰められないはずの距離を無理矢理詰められ身体同士が完全に触れ合う。僕の身体は大きな机に押さえつけられ、弟の身体とで板挟みになる。それでも際限なく身体全体を押し付けられるため、僕は何度も頭を机にぶつける羽目になる。何が何だか分からない。これ以上頭が働かなくなる前になんとかやめさせないと。

「グリプス……、やめろ……っ」
 息継ぎの合間に弟の名を呼ぶ。睫毛がぶつかるほどの距離で弟の瞳が煌々と光る。その光は獣のような、なにかもっと恐ろしいものを思わせた。一体彼は何をしている?一体、彼は誰だ?
「ウァプラだ」
「え……?」
 聞き慣れない言葉が弟の口から吐かれ、口移しで流し込まれる。
「グリプス?」
「……ウァプラ」

 愛する弟が自分に口付けながら知らない男の名を呼べと強要する。圧迫と酸欠が思考の邪魔をする。いつもぶっきらぼうな言葉を使う舌が押し付けられ、這い回る。もはや僕は完全に脱力してしまい、机に身を預け、されるがままだった。
「グリプス、これは一体」
 身体の主導権を奪われてしまっている。話すことが許され、やっと絞り出した声は驚くほど弱々しかった。
 上半身を密着させたまま、苦虫を潰した顔になった弟はようやく滔々と語り出す。

「俺はあんたを兄と思ったことはない」
 そう告白する彼はやっぱり僕の弟なのだ。突き放すようなことばかり言う彼がその実、他者を愛する心を持っていることを知っている。凡庸な兄を持ちながら、一度だって見捨てたことはない。
 たとえその正体が彼の言う通りメギド──悪魔なのだと言われても彼の心までが変わるわけではない。……そう思いたい。
「名前を呼べ。ずっとあんたにその名で呼ばれたかった」
 そんなことを言われても、僕にとってはそれは知らない名前なのだ。などとまごついている間に再び口付けが意識を奪いにくるのだった。

ウァプラのヴィータ名分からないけど我慢できませんでした。(2018.10.25)

ヴィータ名修正。(2019.08.01)