非現実が燕尾服着てやってきた

 王都エルプシャフトはヴァイガルドの要だ。幻獣の脅威におびやかされる土地が多い中、まさしく王家のお膝元である城下の日常はおおむね平和が保たれているといっていい。ここほど多くの兵士が常駐している街は他にないだろう。そんな王都の栄華を養分にして、街には様々な文化が花開いている。
 花屋なんて商売が成り立っているのもきっとこの街の外では珍しいことだ。花を買ったところで安全が得られるわけではない。腹が膨れるわけでもない。それでも需要が途切れないというのはここの人々の生活によほど余裕があるという証拠だろう。その平和を尊いと思うのは、なにも俺が花屋を営んでいるからというだけではない。

 身支度を整え、愛犬に餌をやってから店の戸を開ける。俺が店を構える花屋は街の大通りに面している。城下の商店街は朝早い時間であってもすでに活気で溢れていた。その見慣れた風景を視界に入れながら開店の準備を急ぐ。犬のマリーは忙しなく動く主人を横目に自分の定位置に腰を下ろした。今日も看板犬として仕事をこなす気合いは十分のようだ。そんな彼女の隣に俺が立てばあらかたの準備はOKだ。
 とはいえ、朝イチから花屋が混み合うということはなく、しばらくは花の調子を見たり、店先の清掃をしたりするのがルーティンだ。依頼されれば配達や客の庭の整備などをすることもあるが今日はそういった仕事も入っていない。

 しばらくそうしていつも通りの朝を過ごしていると、向こうからやってくる人影が目に入る。遠目からでもよく分かる背格好に、俺は作業の手を止めてお客さんを迎え入れた。

「おはようございます!」
「ええ、おはようございます」
 すらりとした体躯を恭しく折り曲げる彼。青っぽい不思議な色合いの髪が一房顔にかかるが、彼が姿勢を正すとそれは自然と元の位置へ戻る。額面通りのありきたりな朝の挨拶でも、彼がすると何ランクも上のものになった。
 街の騒々しさを一瞬忘れてしまうほどに品良く、爽やかな出で立ちの彼は常連さんの一人だ。
 彼が店内を見渡して花を吟味するのはいつも数分にも満たない。すぐにその眼鏡にかなうものを見つけ出し、速やかに代金を払って帰っていくのだ。

(相変わらずかっこいい人だなあ)
 と、作業の傍らでちらちらと姿を盗み見てしまうのは仕方がないことだと思う。
 彼の造形は身につけた格の高そうな燕尾服に全く劣らない。その佇まいと衣装から従者階級であることはなんとなく察せられるものの、背の高さを鑑みてもなお、すらりと伸びる脚を占める割合は常人とは違うし、一目でわかる優美さは俺のような庶民には逆立ちしたって出せないものだ。加えて所作の何もかもがスマートときている。明らかにただ者じゃない。きっとどこかやんごとない身分の方にでも仕えているのだろう。まるで小説か何かに出てくる人物みたいだ……。
 相手が話しかけてこないのをいいことに、彼を前にして俺は勝手にそんな想像をする。

 花屋としての生活には満足している。それでも日常に垣間見えるちょっとした非日常を楽しむのは悪いことじゃないだろう。その点、美形の執事なんて妄想の題材としてはうってつけだった。彼が花を持っていく主人は一体どんなひとなんだろう。とか、そう考えるだけで仕事にも熱が入るというものだ。その相手が誰であれ、彼がうちの花を気に入ってくれているという事実は俺の希薄なプロ意識を刺激するには十分だった。

「……ちょっとナナシ、あんた少し熱っぽいんじゃない?」
 そう、熱意をもって仕事に当たれるのはいいことだ。熱を……。
「ん?熱?」
 俺の思考に割って入ったのはご近所の奥さんだった。俺の店のすぐ向かいで料理屋を営んでいる女将さんだ。独り身(と犬一匹)の俺に時々料理をお裾分けしてくれる大変有り難い存在でもある。そういう付き合いなので、彼女の店の庭先や店内を彩る花は俺がアレンジメントしたものだったりする。自営業は助け合いが大切だよね。
「ぼーっとしてるのはいつものことだけどさ」
「ひどい」
「いま流行ってるのよね、お客からもらったんじゃないの?」
 女将さんの言葉には確信がこもっている。何しろ彼女は四人の子どもを育てた母親でもあるので、こういう勘は的確なのだ。傍らでマリーが加勢でもするかのように、ひゃんと鳴いた。
 一人と一匹の勢いに圧され、改めて自分の体調を省みる。風邪レベルのものもとんと引いていないので感覚がいまひとつ分からない。うーん、働いている分にはどこか異常があるような気はしないのだが。そんなことをぼんやりと思った矢先。

「──失礼します」
「うひゃっ」
 思わず、身体のおかしなところから声が出た。
 まったくの死角から、声が降ってきたのだ。傍らで肩を支えられるようにして何者かが俺の額に触れている。その相手に俺はすぐに思い当たった。あの、優美の具現であるイケメン執事だ。
「ええ。ご婦人のおっしゃる通り、少々熱があるようですね」
 イケメンが、流れるような自然さで話に入ってきた。
「ご気分に変化は? 腹痛や喉の痛みはありますか?」
「え、ない、……と思うけど」
 戸惑いながらも矢継ぎ早の質問責めに答える。ていうか、俺の額に手を当て、いかにも熱を計っています、という風のイケメンの手にはしっかり手袋が嵌ったままだ。執事ポイントが高い。いやそこはこだわりなんだろうなーとわかるんだけど。手袋しながら温度とか測れんの?マジで?

 非日常が一気に日常へなだれ込んできたような感覚に、俺は現実感を持てない。なので己の体調とかに回せる気なんて勿論なかった。
「何にしても今日はお休みください」
 そんな俺の思考を、イケメン執事の声が現実へ引き戻す。その声はいやに真剣だ。しかし、俺には仕事がある。花の寿命は短いのだ。今日店を閉めてしまえば誰の目にも触れることなく枯れてしまうものもあるだろう。

「ナナシ様、」
 彼の顔がずずいと近づく。近くで見ると作り物みたいに完璧な顔立ちだ。
「様とかは、いいって」
 どこまで執事ポイントが高いんだ。もちろん俺はそんな呼ばれ方をされる身分じゃない。反射的に跳ね除けると彼は反発することなく俺の要望を受け入れた。
「ナナシ。貴方の考えは分かりました。私めにお任せください」
──任せるって何を。
 それが口から出る前に、執事は鮮やかに俺を抱え上げてみせる。あまりに難なくこなすので突っ込みそこなったが、それはお手本のようなお姫様抱っこだった。スマート。スマートすぎる。ていうかこの体勢、妙に抵抗がしにくいな!?抱えられる側を体験することにより、まさかそんな気づきを得るとは。今後誰かを抱え上げるときは参考にしよう。いや、特に予定もないのだが、そう考えでもしないと平静を保てない。

「ちょっとちょっと、執事さん!?」
「アリトンとお呼びください」
「いや、それはいいんだけど、有無を言わさずか!?」
 この非常時に看板犬のマリーはうんともすんとも吠えやしない。
「お友達がいるなら安心ね。じゃあねナナシ、安静にするのよー」
 そしていやに平和っぽい間延びした女将さんの声。この場でピンチに晒されているのはどうやら俺だけのようだ。混乱真っ只中の俺は、しかしこれまた速やかに二階の居住スペースに運ばれてしまうのだった……。

 ……病は気から。そんな言葉が脳裏に過ぎる。ベッドに逆戻りさせられ、しばらく寝転がっていると急に寒気が襲ってきたからだ。きっと頭が自分が病人であることを理解してしまったからだろう。全く不甲斐ない。自己管理は仕事をするうえで基本中の基本なのに。

 体調を指摘され戸惑うだけだった俺に、お任せください、とアリトンさんは言った。あれは一体どういう意味だったんだろう。考えようにも頭は靄がかかったようになり、うまく働いてくれない。ぼーっと睡眠と覚醒をさまよっている合間にも、アリトンさんは定期的に寝室を訪れ、飲み物を差し出したり、氷嚢を作って宛てがってくれたりしている。甲斐甲斐しく提供される世話ごとがあまりに躊躇いないので、俺の混乱は極まる一方だった。

 一体なんなんだ、この状況。アリトンさんって俺の執事だったっけ……?
 いや、違う。そもそもちゃんと会話を交わしたのだって数十分前が初めてのはずなのだ。あれ?数十分だっけ?数時間?……アリトンさんはあれから何回、俺の額に乗っかった氷嚢を取り替えてくれた……?
 考えても明確な答えは一切出てこない。ぼやける視界の中ではっきりしてるのはアリトンさんが執事スマイルでこちらに微笑みかけてくれていることだけだった。

 次に意識を取り戻したころには寝室は真っ暗闇になっていた。鈍い動きで起き上がろうとする俺の意図を察して、すかさず灯りがともされる。
 傍に控えていることになんら違和感を与えさせないのは、アリトンさんの執事技術が一流であることの証とか多分、そんな感じだ。
「ええと、俺……」
「はい。滞りなく全ての業務は終了いたしました。こちらをどうぞ」
 アリトンさんは簡潔に応えると、まずグラスを俺へ手渡してくれる。よく冷えた水は口にふくめば、朝よりもいくらかすっきりした気分をもたらした。
 俺はやっと取り戻した思考回路で状況を再確認する。まさかというかなんというか、この人が今日一日店番をしてくれたのか。しかも俺の看病までしながら。

「マリーもとてもよく仕事をこなしてくれました」
 労いつつ、アリトンさんが頭を撫でるのをマリーは満更ではない顔つきで享受している。俺の知らないところで絆を育んだらしい。なんだ何があったんだマリー。俺の疑惑の視線を受けても彼女は呑気に欠伸をするだけだ。その満たされた顔、まさか、閉店後に散歩にまで行ったのか?アリトンさんが連れてってくれたの……!?
「ええ。それと夕方頃、朝方のご婦人がお見えになりまして、食事を受け取っていますのでのちほどご確認ください。本日承った品物の予約票は書斎机にまとめてあります。いずれも期限までまだ余裕がございますので、ご安心を。それから……」
 スラスラ淀みない業務報告は心地よさを伴って俺の脳を流れていく。アリトンさんは声まで完璧だ。しかし病み上がりのいまはその内容を頭にとどめておくことができない。
 俺にはもはやアリトンさんの手際を疑う余地はない。信じがたい仕事量だが、常人には無理でも彼ならやるだろう。この世のあらゆる無理難題も、主語を「アリトンさん」に置き換えるだけで全てソツなく終わらせてしまう。そんな気さえしている。

「……失礼、今日はもうお休みになるべきですね」
 俺があまりにもぼーっとしていたからか、アリトンさんの耳心地の良い報告は途絶えてしまう。しかし俺の途方もない妄想さえ肯定するかのように、アリトンさんの声は穏やかだ。
「いや、でも、アリトンさん」
 俺は我に返り、声を上げる。彼は全く気にしていないようだが、自分の不摂生が理由でお客様に迷惑をかけてしまったことに変わりはない。せめてさっきの内容をメモらせて!と、いまの状況ではとても覚えきれる気がしないので、怠い身体に鞭打ちペンを取り出そうとする。灯りがついているとはいえ、いまは夜中で、知らず手探りになってしまった利き手をやんわりと制する白いものがある。
 スーパー執事の手袋だ。

「ナナシ、」
 たったそれだけの呼びかけでも俺を咎めているのがよく分かる。俺は何か言おうと思って口を開けたけど、結局言うべきことが掴めず魚みたいに空気を食んだ。

「ご心配なさらずとも、すぐにまた参りますよ」
 それは常連さんとしてまた来る、ということだろうか。ご贔屓にしてもらえるのは本当に有難い。でも本当にそれだけ?
 そもそもそんな風に思う俺の方が、いままで通りの店員と常連さんのみの関係に元どおり戻るのが不自然な気がしてる。それってなんとなく余所余所しい気がしたし、これだけ助けてもらっておいて今さら他人面をするのは恩知らずと言われたっておかしくない……。

 ちなみにではあるが、翌朝確認したところその日の売り上げは今まで類を見ないほどの最高値を示していた。いや自信無くすわ。