「ゆるりとしていくがいい。使者殿よ!」
若い女が声高に宣言する。食卓には根菜のスープ、パン、鶏肉の蒸し焼きが並べられた。
思いがけないもてなしに、ナナシは悟られぬよう僅かに驚愕する。そもそも村の様子ひとつ取っても彼の予想は大きく裏切られてしまっていた。微量な大地の恵みすら持たない荒廃した土地。ナナシがかつてこの地に住んでいた頃は十分な飯にありつける日なんてついぞなかったのに……。
そう動揺しつつ、パンが積まれた大皿と村長のしたり顔を見比べたのち、ナナシはあくまで穏やかに口を開いた。
「私だけが頂いてしまうのでは忍びない。よろしければ皆さんで共にいかがですか?」
彼の視線を受けて、客人を遠巻きに見ていた村人たちが顔を見合わせる。
小さな村では村長邸は役所のような役割を兼ねていた。つまり、村政に日々勤めている者たちが詰めているのだ。加えてここの村長は節約家だ。給仕係一人にしても専属の侍従を雇うことはせず、手の空いた者に任せているようだった。
「これは我らなりのもてなしだ。遠慮をすることはないのだぞ」
「はい。ですが一人でする食事は味気ないものです。せっかくですし、皆さんのお話も聞かせていただければと……」
と物腰柔らかく、友好的な笑みを浮かべるナナシを、なおも人々は強張った顔で見ている。
なぜなら彼は単なる客ではない。女村長バフォメットの率いる村へ視察目的に派遣された使者だからだ。
勿論、バフォメットにとってはナナシの来訪は歓迎できるものではない。彼女がここでやりたい放題できたのは、この地が無価値と見なされていたからだ。そこに産業が生まれ、金が生まれればこうして目をつけられることにもなる。これは彼女の野望にとって避けられない戦いだ。
だが、バフォメットはかつてメギドラルで数々の敵を屠ってきたメギドだ。まさしく血で血を洗う争いを繰り広げてきた彼女にとって、ろくに武装もしていないヴィータの男一人、脅威に思うわけもない。寧ろ受けてたつとばかりにその目は不敵に笑う。
「……まあ、それもそうか。いいだろう。皆も空いた席に座れ」
彼女が声をかけると数人が机の周りへ集まってくる。一人は書類仕事の手を止めて、一人は部屋の隅から手頃な椅子を手にして。
食卓を前にしてばたばたと埃を立ててやってくる様子からは、いかにも田舎のおおらかな気風が窺える。誰も彼も一般の村民のなりをした男女。いずれもナナシの関心を引くような人物はいない。やはり留意するべきは若い女の身で村をまとめ上げる彼女だけのようだ。
手狭になった食卓を一瞥し、ナナシは認識を強めて再び村長へ視線を戻す。
──戻して、その表情は一瞬にして固まった。
バフォメットの背後にさっきまではなかった異様な人影が佇み、じっとナナシの方を見ていたからだ。
ナナシの強張った表情を察したのだろう。彼女は呆れた風に、まるで自分の影であるかのように立つ男へ声をかける。
「アザゼル、お主もおったのか……」
「ああ。俺も同席した方がいいだろうか?」
するとそれは言葉を発しだしたので、ナナシはその男が幻や、はたまた幽霊の類ではないということを理解する。
「そうだな……、まあよかろう。うむ、何が経験になるかは分からないからな」
バフォメットの言葉を受けて、アザゼルと呼ばれた男は所在なく部屋を見渡す。
いかにも只者でない雰囲気の男だ。真っ当な生活を送っていれば目にすることはないだろう戦闘装束。剣呑な目つき。そのうえ、顔半分を隠す覆面が表情をさらに読み取りにくくしている。
こんな、どこから見ても堅気ではない男を同席させるとは、村長は何を考えているのだろう。と、ナナシは冷や汗さえ滲ませる。まさかそれほどまでに自分は警戒されているのだろうか。
「えーっと。使者の旦那、大丈夫です。彼はちょっと事情があってうちの村で住み込みをしてるだけで」
「う、うむ、一時的に預かることになった謂わばヨソの者だ。勿論、身元ははっきりしているぞ! 心配には及ばん」
村人と村長が口々に言う。村内部の結束はそれなりに固いようだ。その様を見てナナシの胸中は平静になりきれない。
(──よそ者はお前の方だろう、女狐め!)
ナナシの野心は知らずぐらぐらと燃える。
名をバフォメットと名乗った彼女は村丸ごと引き連れて現れた、出自不明、所属不明、家族構成不明、何もかもが謎の女だ。
ここは元々大地の恵みが非常に少なく、ろくな産業もない荒れ果てた土地だった。領主でさえも長年重要視せず放置してきた地である。それがどんな魔法を使ったのやら、周辺の村々とは比べようもないほどの商いの拠点になってしまった。
何を隠そうナナシはこの土地の出身だ。かつてここには貧しくも集落のようなものがあった。どこから住み着いたのか、代々守ってきたわずかな土地を、ナナシの親の代は捨てることにしたのだ。
この地の冬は特にひどい。雪が降れば根強く背を伸ばす雑草すら絶える。人々を襲うという化け物が現れないことが救いだが、明日生きるだけの食糧が得られないのであればそれも有り難みがない。きっと化け物にさえ見捨てられた土地だったのだろう、幼いナナシはいつもそう思っていた。
ナナシとその親のようにそんな故郷に見切りをつける者は多かった。だが村を飛び出して、大きな街で真っ当な職にまで就くことができたのは天文学数値レベルの幸運だ。ナナシは自分をここまで生き延びさせた運に自信があった。そして人を懐柔する術にも、自分の政治的手腕にも。
「アザゼル? 良ければ私の隣へどうぞ」
野心を押し殺し、彼は一向に動く様子のない男を手招いた。
すると村人たちの感心したような視線がナナシに注がれる。アザゼルはどうやらまだ彼らと打ち解けられてはいないようだ。
当然だろう。彼の目つきと言ったら、目を離した次の瞬間には喉笛を掻き切られでもしそうだ。体つきだって普通じゃない。本来こういった田舎の人間は異質な者を嫌うはずである。
そうと分かっていて、ナナシはアザゼルへ声をかけた。これで自分がただの礼儀正しい優男ではないとこの場で印象付けることができただろう。
アザゼルは背の小さい簡易な椅子をナナシの隣に置くと、行儀良くそこへ腰掛けた。彼の反対隣に座る村人がわずかに身を引くのを横目で確認してから、ナナシは敢えてアザゼルにはそれ以上目を向けず、穏やかに団欒の空気を作った。
村はあれよあれよと貯えを増やし、活気付いていく。そのからくりを暴き、さらなる徴税を課すというのがナナシを派遣した勢力の思惑だった。そして、隙あらばいまの指導者を排斥することさえも……。
(──やはり鍵はこの得体の知れない女村長だ。)
他愛のない歓談をしながらナナシは考える。彼女の入れ知恵は無知な村民には過ぎた劇薬だ。バフォメットの口振りはいっそ滑稽なほど傲岸で、しかし妙なカリスマ性がある。それが村民たちを動かしているようだ。
彼らの間に築かれた信頼関係に、厄介だな、とわずかに眉を顰める。彼女がいる限りは新たな指導者を置いたところで人々は付いてこないだろう。
「貴女の考えは最新の経済学にさえ通ずるものですよ。一体どこでそのような見識を?」
「無論、独学である。我にかかればヴィータの考えた仕組みを理解するくらい造作もない」
彼女はそう言ったが、見た目に似つかわしくない尊大な物言いはきっと偉い学者先生の受け売りではないかとこちらに推測させる。
友好的な表情を保ったままナナシは交わされる会話を具に観察していった。話の主導権を握っているのはおおかたバフォメットだが、集められた村人らも彼女の言葉に応えを返すのに躊躇がない。身分差も何もない、奇妙な空間だ。
少し冷えたスープに口をつけ、ナナシは何気なく隣を盗み見る。誰もが自由に発言権を与えられている中、アザゼルだけは一言も発さずにただ言葉が行き交うのを見ている。
口元を覆っている物々しい装甲を外す素振りすら見せないのだから、そもそも食卓を囲むという意味が分かっているのかも怪しいものだ。それだけ思って、ナナシは逸れかけた意識を政敵バフォメットへ戻した。
ささやかな宴は終わり、ナナシには村に最近作られたという宿の一室が与えられた。市場が生まれ、行商人やキャラバンが訪れるようになれば必然、必要となる施設である。
やはり村の急速な発展度合いは侮れない。なんとかこの地を奪う手立てはないものか。
バフォメットと村の様子を脳内で纏めながらベッドへ腰掛けていると、扉が一回、ドン、と叩かれた。
一体何事だ。ぎょっとしてナナシがそちらを確認すれば、今度はかなり抑えられた力で、こん、という音が鳴る。
……もしかしてノックのつもりだろうか。そう思い当たったナナシはすぐに外向き用の表情を繕って扉の向こうへ声をかけ……。
「どうぞ」
「夜分に、すまない。少しいいだろうか」
……現れた物々しい姿に思わず声をあげそうになった。
晩に食卓を共にした男、アザゼルが扉の前に立っていたのだ。
まさかこいつの役割は見た目通りやはり暗殺者か何かで、自分はこの場であっけなく殺されて死体は人知れず川にでも流されるのでは。そんな最悪の予想が瞬時に頭を過ぎる。
しかし相手はナナシを縊り殺す素振りもなく、黙り切って目線をうろうろさせている。
これはどうやら様子が違うようだ。賢いナナシは直感し、身体の強張りを緩めた。それを目敏く察知したらしい男もやっと口を開いて言った。
「中へ、入ってもいいか」
──絶対嫌だ。
反射的にそう思うのをナナシは喉の奥へ押しやる。
「もちろん」
一拍の間もなく快諾してやるとアザゼルはずんずんとナナシが借りている一室へ侵入してきた。ただ歩いているというだけで自分の寿命がみるみる擦り切れていくように思えて、ナナシは早くも自分の行動を後悔しかかる。
あの場で拒絶するのは簡単だ。しかしその後のアザゼルがどう行動するか読めない以上、ことを荒立てるのは得策でないように思えた。入室に断りを入れてきたのだからきっとこう見えて話の通じる相手のはずだ。そもそも断ったところでそれが通る保証もないわけだし。彼の太腕と、宿の薄い扉を見比べてナナシは考える。
「さて、アザゼル。僕たちどこかでお会いしましたか?」
「い、いや、そうじゃない。俺とお前は初対面だ」
すっとぼけて尋ねると、アザゼルは大真面目に返答した。ナナシは記憶力のいい方だ。こんな粗暴そうな相手と知り合いでないことは分かり切っている。それを口にしたのは話の取っ掛かりを探ってのことだった。
「ではどうして?」
単純な問いに、アザゼルは髪型のせいで元から見えにくい顔を俯かせてさらに表情を隠す。どうやら口でものを主張するタイプではないようだ。なかなか用件を話さない相手に焦れながら、ナナシはまるで赤子と接するかのように根気よく待った。
「お前のその顔だ」
やっと聞かされた言葉は要領を得ないもので、ナナシは内心呆れ果てた気持ちになる。アザゼルも自分の説明が足りていないのを分かっているのだろう。少し焦った様子で台詞を続けた。
「その。つまり、さっきの……大勢の前でのお前の顔が俺はいいと思って」
「はあ」
つい、建前をすっ飛ばして脱力しきった声が出てしまった。それを気にする素振りもなくアザゼルの告白は続く。
「ここにいるみんな、お前のことは随分警戒していたんだ。でもお前が微笑みを浮かべるたびそれがどんどんなくなっていった。俺はそれをすごいことだと思ったんだ」
アザゼルはどうやら、ナナシの処世術に相当感銘を受けたらしい。ついでに村の内部のことを頼んでもいないのにペラペラと明かしてくれる。
「仕事も生活も、人と関わらなけば成立しない。お前はそれに長けている。俺はそれを見習いたいのだ」
アザゼルの言うことはまるで幼な子のようだ。彼がこの村へ住み込んでいる経緯は知らないが、世間と隔絶されて育ったのだろう。そして彼自身もそれを自覚して、学ぶ意欲がある。これはいい。この男は使える。ナナシは笑みを深めた。
「なるほど。言いたいことはわかりました」
なおも拙い言葉を続けようとするアザゼルの弁にナナシは一区切りつける。
「しばらくこの村には滞在する予定です。それまでで良ければ、僕と話をしましょう。何か質問があればお答えしますし、僕の接し方を見ていて構いません」
元からこの地を掌握するには長期戦も辞さない覚悟だ。アザゼルはナナシにとって良き協力者になるだろう。得体の知れない男だが素直な物言いと純朴そうな内面が非常にこちらに都合良い。ナナシは危険な大勝負に打って出ることにした。
そこからの数日、アザゼルとナナシは一日のほとんどを共に過ごしていた。
人との関わり方を学ぶという意識はアザゼルの中で一大事であるらしい。しかしナナシの方は彼の教師になるつもりはさらさらなく。そんなものだから、アザゼルが目標を達成できるかどうかは彼には無関係だ。気楽なものである。我ながら良い提案をした、とナナシは自分の機転の良さを讃えた。
しかもアザゼルを連れていると彼には都合がいいことばかり起こるのだ。村人たちはいつの間にか畏敬のような目でナナシを見るようになったし、あのバフォメットですら「その男の面倒を見てもらえるのは助かる」と肩の荷が降りたかのような顔をしていた。面倒を見ているつもりはないのだが、恩を売れるならいいことだろう。
そしてアザゼルは驚くほどに要領がいい。利益の計算の仕方、街作りや荷の積み方一つにしても教えれば(言ってしまった手前、問われれば答えるようにはしている)一度で覚えた。自然、ナナシの仕事は楽になる。
熱心に後をついてくる一人前の男をすっかり見慣れた頃、ナナシは不意に口をついてこんなことを言った。ちょうど、木材などの大荷物を運ばせていた時のことだった。
「アザゼルは傭兵の仕事に興味はないんですか?」
彼は教えればなんでもできる男だ。しかしあまりにも物を知らない。単純な腕力のみに頼る仕事ならこのご時世いくらでもある。わざわざ新たな技能を身につけるより、元から適性のある仕事に就いた方が無駄がなくて良い。誰もが思うことをナナシも思ったのだ。
そんな他愛のない質問に、アザゼルは即答を避け、口をつぐんだ。妙な間が生まれる。
まさか地雷を踏んだだろうか。ナナシは静かに数歩、後ずさった。その程度の距離を取ったことで何の意味もないのだが、物事は時に論理では片づけられないことがある。
「お前の言うことは尤もだ。ここへ初めてきた日もそのようなことを言われた」
たっぷり間を置いてからの声色は穏やかなままだったので、ナナシはほっと息を漏らす。
「そういった仕事に適しているのだろうというのも理解できる。俺は今まで肉体に頼った生き方をしてきたから」
「でももうやめた?」
「……そうだな、できればこれからは人の営みの中で生活してみたい。村や街、色んな他者がいる中で」
アザゼルははっきりとそう言い切った。その横顔はどう見ても穏やかな陽の光など似合わないのに、だからこそ心から欲しているのだろうか。その眼差しを見ているとナナシの中で、だんだんと納得のいかない気持ちが湧いてくる。
「それってすごく我儘じゃないか?」
アザゼルの身体能力は才能だと思う。持っている適性をみすみす捨てるなんて、ナナシにはひどく身勝手なことのように思える。領主の子は領主、肉屋の子は肉屋に。世の中、自分のやりたいことを貫き通せる方がまれだ。アザゼルが自分の適性に沿って傭兵をしたとすればきっと名をあげることは簡単だろうし、余程たくさんの人間の役に立つことができる。
つい感情的に放ってしまったのを、言ってしまってからナナシは慌てて自らの唇をつぐんだ。
アザゼルは怒るでもなく、瞬きもせずにこちらを見ている。
「やはり、そう思うだろうか」
その目は戸惑う子どものようだった。行き場を必死になって探している幼い子ども。アザゼルは自分の居場所を探しているのだ。そしてそれはまだどこにもない。
「いや、うん、そうだな……。貴方の言い分は我儘だ。世のあり方に反してる。それはそうなんだが」
どこか縋るようにさえ見える眼差しを向けられると、ナナシのいつもはすんなり機能する思考回路がおかしくなってしまう。らしくない、歯切れの悪い文句が出てくる。
見た目は立派な大人、物々しい身なりの、明らかに普通じゃない、そんな相手が迷子のような目で見るから。そんなあべこべなことをするから訳が分からなくなっているのだ、たぶん。
「でも、きっとこれからはそうなる。生まれや育ちなんて関係ないって、きっと」
そう言ったのはアザゼルへの気休めではない。持って生まれたものや、そうなってしまったものは根深く、きっと一生付き纏うのだ。
でもそれが全てじゃないことは誰よりもナナシが証明してしまっている。簡単な道ではない。それでも努力し抗うことはできると。彼はすでに知っているのだから。
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