心にかかる雲もなく

 人とうまく付き合っていくコツは相手の自分への評価を正確に認識することだ。望まれた通りのロールに徹しながら好機を窺えば物事は大抵うまくいく。そのためには相手からの評価は過不足なく見積もることが必要だ。

 ……というのがナナシが今までやってきた処世術なのだが、バフォメットの村へやって来てから数週間、少し勝手が変わってきた。
 ナナシの炯眼によれば、村民たちが自分に向ける評価は「面倒見のいい都会育ちのお役人さん」なのだ。今や彼らの顔には敵意の念は読み取ることができず、それどころか積極的にナナシを訪ねてはあれを見てくれ、これを見てくれと頼み込んでくるのである。急速な発展を実現したとはいえ村はまだ成長過程だ。一通り経営学やインフラ事業について学んでいる身からすると口を出せる場面は多い。だからといって無償で応じる義理などないナナシは当たり障りのない笑顔を装備し、彼らの頼みごとを断ろうとする。そうしようとして、やめた。今こそ反撃のための好機である。
 バフォメットは確かに天才だが彼女の身体が一つである限り使える時間には限度がある。それは村が発展し、彼女の細腕に収まりきる規模でなくなってきたことによる弊害だ。ここへきてようやく生じた隙と言える。そこを突く。ナナシの野望はいまだになくなってなどいなかった。

 そう決意を新たにして何気なく部屋の片隅に目を向けると。ふたつの目玉が、夜道の野良猫のような眼光でナナシを見ていた。ヒュッ、と喉が引き攣る。

「……ナナシ、いま時間をいいだろうか」
 こんな近距離に気配もなく現れる人物など決まっている。アザゼルはナナシが自分を認識したと理解するとそのままなんてことはない調子で会話をし始めた。何故自分が非常識なほうに合わせなければならないのだろう。ナナシの心には思わずそんな文句が浮かんだが、命は惜しいのでそれを口にすることはかなわない。

「一体何の用ですか」
「ポーカーを知っているか」
 無骨な、見るからに堅そうな手のひらの上にはカードの束がぽつんと乗せられている。それを見て賢いナナシは状況を即座に理解した。彼の社会勉強が継続されているのは知っていたからだ。
「ええ。都会ではこういったゲームに興じる人間が多いですからね」
 と、口調だけは穏やかに、怯えが悟られないよう最大限の気を遣ってナナシは座っている椅子をわずかに押した。さりげなく退路を確保したのだ。彼の戦闘力を前に無駄なこととは分かっているが、一時のものでも安心材料があるとないとでは心持が違うのである。

 その心の内はともかく、自分の疑問に対してすぐに回答を出してくれる彼の存在をアザゼルはいつも頼もしく思っていた。アザゼルの体躯が数歩近づき、ナナシの向かいにやってくる。ナナシは出口である扉の存在を強く意識しながら会話を続けた。
「なるほど。これで村の者たちに負かされでもしましたか」
 ナナシが言い当てると、アザゼルからは素直な頷きが返ってくる。その反応が彼の予想を裏付ける何よりの判断材料だ。アザゼルの地頭の良さはナナシもよく知っていることではある。しかし対戦相手との駆け引きがなにより重要なポーカーゲームにおいてはこの男のような性質は不利だろう。いま都市部で人気の真っ只中にあるスカイエンパシーなどのカードゲームと違って、ポーカーは仕組みが単純なぶん、心理戦が重要となる。
「一勝くらいはできました?」
「いや、相手にならないと言われた……。それで、お前なら詳しいのではないかと」
「そうですねえ……」
 彼が一体どんな経緯でこの村に身を寄せることになったのかは知らないが、都会に出なかったことは幸いとしか言いようがない。この世間知らず振りで賭場にでも顔を出してみろ。とんでもない負債を抱えさせられて一生を終えることになっただろう。その点ここの住人たちは気が抜けるほどアクが抜けているとでも言うか、ある種、あの女村長の教育が行き届いていると言うべきか、とにかくアザゼルは健全にゲームを楽しんできただけのようだった。

「言っておきますけど、私こういったゲームは強いですよ」
 そう断言できる程度にはナナシは腕に覚えがあった。
 生活に余裕のある者ほどそういったゲームに興じるものだ。公私問わずそのような富裕層の相手をすることがあったナナシはそれを自然と身につけた。なので、カードのシャッフルの仕方さえ分からないような相手に負ける気はまったくしないのである。

 そんなナナシの心からの忠告を受けてもアザゼルに引く気はないようだ。……そもそも、この男にはいままで散々脅かされて、こころの寿命を減らされているのだ。その分、たまにはこちらが優位に立ってもいいのでは?とナナシの胸に悪戯心のような復讐心が沸く。幸いナナシは賭け事を好まない。金が絡むことなんてもってのほかである。いくらカモが自ら料理されにやってきたところでその考えは変わらない。ただゲームの形式に則って、少しばかりこの男をからかってやるだけだ。ナナシはアザゼルの提案に乗ってやることにした。

 アザゼルのカードの腕前はナナシの予想を下回った。三回行ったゲームは、気付けばきっちり三周ともナナシのほうにチップの山を築いた。
「貴方、向いてませんよ」
 ナナシは呆れ顔で言う。アザゼルは相変わらず物々しい覆面のままで、顔を隠しているぶんこのゲームでは有利なはずだ。しかし結果はいっそナナシに憐れみを覚えさせるほどの惨敗振りだった。流石にこれ以上ゲームを続けることはプレイヤーシップに反する気がしたのである。ナナシの視線の先で、アザゼルはあからさまに肩を落とす。表情のみ見るならば彼の顔つきはまさしくポーカーフェイスと言えなくはないのだが。

 しかし、こうしてアザゼルの苦手分野が発覚したのはナナシにとって幸運なことだった。いざとなれば絶対に勝てる分野が判明しただけでも心強い。しっかり覚えておこう。とナナシはそれを自分の出来の良い頭に刻みつけた。
「ああ、ナナシは流石だ。お前が嘘をついているかどうか俺には全く分からない」
「褒めてるんですかそれ」
「勿論だ」
 アザゼルは大変素直に頷いて、散らかったトランプをかき集める。その手に収まるものはこんな紙切れではなくて、重く鋭い武器のほうがはるかに相応しい。それがちまちまカードごときを纏める様子はいっそ道化染みてさえ見える。相変わらずこの男は身の丈に合わないものばかりに興味があるらしい。そんな彼からすればナナシの口八丁手八丁は魅力的にも映るのだろう。その腕力を利用すれば言うことを聞かない人間などいないはずなのにだ。

「だからだ。力なんかで物事を決めるより、ずっと良い」
 物静かな口ぶりで彼は言った。そういうことは専ら力を持たない者の常套句のはずで、彼のような者らしからぬ言動だった。ナナシのまなざしを受けて何か思う所があったのか、アザゼルは珍しく口調を少し早めて言葉を続けた。
「無論、状況や相手にもよるが。ナナシ、俺はお前のようなやつには乱暴なやり方はしたくない」
「是非そうしてください」
 アザゼルの物言いは受け取り方によっては脅しの類にも聞こえる。ナナシがどう受け取ったかは彼の顔の引き攣りである程度察せられるだろう。
 ……その真意がどうあれ、アザゼルの望みは初対面のときから一貫している。彼にとっては人の営みの中で暮らして、時折カードゲームなんぞに興じるような生活が何より大事らしいのだ。その点はナナシにも正しく理解している。だがこの腕前ではそんなことも夢のまた夢と断ぜざるをえない。

「まあゲームに頼らなくとも、単純な取り決め程度ならじゃんけんとかでいいわけですしね」
 少なくとも現時点での彼にポーカーはレベルが高すぎる。それを哀れに思って、ナナシは適当にそんなことを言った。より子ども向けの手遊びである。だがアザゼルを見ているとそれくらいが彼にはちょうどいいような気がしたのだ。
 アザゼルはその提案に相応しいほど無垢そのものの瞳でナナシを見ている。まさか。ナナシの心に嫌な予感が灯る。

「じゃんけん……とはなんだ」
 まさか、である。確かにじゃんけんも知らない人間ならば、ポーカーゲームなど高度にもほどがある遊びだろう。彼は一体どんな辺境からやってきたというんだ。ナナシは一瞬頭が真っ白になりかかったのを持ち直す。知らないことはいままで機会がなかっただけで、ある種仕方のないことだ。アザゼルの生い立ちがどうやら並大抵の特殊さではないようであることをナナシは既に察していた。
 それに彼の無知はナナシにとって利用価値のあるもののはずだ。自分は快く、その無知に都合のいい答えを与えてやればいい。ナナシが説明をはじめるとやはりアザゼルは興味津々で聞き入っている。
 ナナシが知るうえで最も単純で最も公平性のあるお遊びである。それが理解できたかどうか、試しに何度かアザゼルと勝負をしてみる。

 ……が、おかしい。十数回試してみて、結果はアザゼルの全勝だった。
 まさか彼はじゃんけんが天才的に上手いのだろうか。いやそんなことはあり得ない。それは相手の思考を読み取れでもしない限り不可能なはずで、先のポーカーのやりとりで、アザゼルにそんな能力がないことも明らかだった。
「組み合わせで勝てばいいんだよな?」
 ナナシに疑いの目を向けられ、アザゼルは僅かに首を傾げる。常人では持ち得ない剣呑すぎる目つき。異常な身体能力を持つアザゼルは、その動体視力で一瞬のうちにナナシの繰り出す手を読み取り、それに適した組み合わせで迎え撃てばいいだけだ。彼にとってこれほど簡単な戦争はない。

「公平性が一切失われているでしょうがこれじゃ!」
 初めて声を荒げたナナシを前に、アザゼルの目はまんまるに開かれた。彼でも、ルールに反することをすれば怒ることがあるらしい。
「……そうだな……、すまない」
 あまりに人間らしい、社会性に満ちた反応だ。種族は違えどナナシは間違いなくアザゼルの求める姿のひとつだった。

Q.ヴァイガルドにポーカーってあるんですか?
A.知りません。
Q.ヴァイガルドにじゃんけんってあるんですか?
A.知りません。