影の合わさるところ

「アザゼルを用心棒として連れていくがよい」

 バフォメットは腰に手を当て、言い放った。
 それを受けて、アザゼルもナナシもほとんど同時にバフォメットを見る。
 突拍子なく飛び出したように思える彼女の台詞には勿論理由がある。彼女の村に滞在していたナナシにとうとう帰る日がやってきたからだ。あくまで報告も兼ねた一時帰還であるが、その挨拶にでもとナナシは村長のもとを訪れた。その道中の用心棒にアザゼルを同行させてはどうかと彼女は推しているのだ。

「いえ、ですが彼はそういった仕事は好まないのでは?」
 すかさずナナシが切り返す。この辺りは幻獣の被害も少ないとはいえ、警護もなしに外へ出られるほどナナシの腕が立つわけではない。当然、本拠地に帰るまで傭兵でも雇うつもりではあった。アザゼルも突然の指名に驚いているようだ。彼があえて腕っ節に頼る仕事を避けているのはバフォメットも知っているはずだった。

 二人分の視線を受けてバフォメットは不敵に笑う。ナナシはこれまでよく村に役立ってきた。そのことをバフォメットはしっかりと評価していた。たとえそれが村を乗っ取るための打算からくるものであっても彼女にとってそんなことは些事である。自分が一介のヴィータ一人に遅れを取ることはないと確信しているのだ。ナナシがこの土地へ妙な執着心を持っていることもバフォメットには分かっている。だが念には念をだ。バフォメットは呆然とするアザゼルへ耳打ちした。
「この男は我が村に有益だ。しっかり連れて帰るのだぞ」
 つまりそのための役目をアザゼルに担わせようと言うのだ。二人の悪魔がなにやら目配せし合うのを訝しげには思っても、その画策を止める術はナナシにはない。

 

「本当に良かったんですか」
 二人きりとなった宿屋の一室で、向かい合ったナナシが言った。

 彼の本拠地である町までは歩いて三日はかかる。夜までに宿にたどり着けたのは幸運だった。バフォメットの村はこの辺りでは最も辺境であるから、こうして一日目を計画通りに宿屋まで着ければ、あとは人口は増えていく一方で寝泊まりする場所には困らない。
 旅の道連れのアザゼルは一日歩き詰めでも文句の一つも言わなかった。その上、方位を確認しながら進むナナシに自然とペースを合わせることもする。不測の事態もなくここまでスムーズにたどり着いたのはアザゼルの存在があったからだ。ほかの用心棒を雇っていたら今ごろ野宿になっていたかもしれない。

 ナナシの問いかけに当のアザゼルはこくり、と一度だけ頷いた。手配した二人部屋のベッドの上にお互い座って向かい合っている。ナナシが尋ねているのは傭兵なんて任されて、アザゼルが納得しているかということだった。バフォメットに促されるまま拒絶できなかっただけで本当は不満に思っているのではないか、と。彼女の口車に乗せられてしまったのはナナシも同じだが、乗り気でない仕事を途中で放り出されても困る。

「むしろ野営であれば役に立てることもあったんだが」
 当の本人は一方的に連れ出されたことに対してナナシの想定するほど嫌がってはおらず、むしろ自分がこれまで大して役に立てていないのを不甲斐なく思っているようだ。宿の手配さえ全てナナシ任せのまま滞りなく終わってしまったというのもあるだろう。

「まあ、宿の取り方も覚えられたんですから、良かったじゃないですか」
 対するナナシは楽観的だ。アザゼルと二人旅という奇妙な事態にはなったものの、傭兵を雇うぶんの経費が浮いて、彼は少しばかり気を良くしていた。アザゼルへの警戒心が無になることはないが、傭兵を連れて歩くならリスクとしてはそう変わらない。なんだかんだでアザゼルとは知らない仲ではないのだし。
 それに、彼がこうして自分の護衛役として大人しく従ったこともナナシの自信を深める原因になっている。アザゼルは控えめな性格だが、普段がそうであるぶん、絶対譲れないという点においてはこだわりが強い性質(たち)だ。あれだけ乗り気でなかった傭兵仕事を引き受けたのはやはり特別なことに思える。こうして平然と二人部屋を選んでしまったのも、何とも言えない高揚に任せてしまったことによる。でなければアザゼルと同室なんて、以前のナナシであれば考えたくもない事態だった。

「俺と同室でお前は眠れるのか?」
 当然、同じようなことをアザゼルも考えているようだ。質問のタイミングが良すぎたせいで、ナナシは自分の思考が見透かされた錯覚に襲われる。
「部屋数もさほど多くはないですし、二部屋使ってしまうと他の方が困るでしょう」
「そうか。それもそうだな」
 あとから理由を取って付けるとアザゼルは心から納得したようだった。この素直さにナナシは幾度も救われている。この男と隣り合って寝られるかなんて、そんなことはナナシが一番不安に思っているのだから皆まで言うなという話だ。

「……お前が気になるのなら夜の間は外へ出ていようか」
 アザゼルは温度の変わらない眼差しを寄越しつつ呟いた。
「それでも護衛の役目は果たせるから、安心していい」
 と、なんてことの無いように言葉を続ける。
「一晩中起きているつもりですか?」
「ああ、言っていなかったな。俺は寝なくても平気なんだ。そういう作りをしている」

 その突拍子のない告白にナナシは唖然とした。普通なら、この男以外の相手ならば、そんなわけがないと嗤ってやるところだ。しかし淡々と告げるアザゼルが嘘なんか言うはずがないのをナナシは知ってしまっている。
「いえ、それなら最初から二人分の部屋を取る必要はなかったですよね」
 驚きのあまり、つい、そう言った。もっと耳触りの良い言葉があるはずだが、それらはひとつも出てこなかった。自分の提案を敢えなく却下されたアザゼルは気を害す素振りもなく黙り込んだ。妙な沈黙が生まれる。

 一体なんなんだ、この男は。
 もう何度目か分からない文句をナナシは頭で繰り返した。アザゼルの異様さはともに過ごす時間が増えるほど際立っていくようだった。

 なにせ彼の物々しさの象徴でもある覆面は食事時ですら外されることはなかったのだ。つまり、少なくともナナシが見ている間は一口だって物を飲み食いしていないということになる。そのうえ睡眠までもとは。いや、彼の言うことを真に受けてはならない。警戒心の強い野生動物と同じで、きっと誰も見ていないときを見計らっているだけだ。だって、そうでなければ。そんな馬鹿な道理があるわけがない。村を出てからはナナシの目につかないタイミングなどなかったはず、と記憶が訴えるが、きっとそれも自分の思い違いに過ぎないのだ。

「二人分の費用を払っているぶん、この部屋の使用権は貴方にもあるんですから、一方的に出ていくだなんて考える必要はないですよ」
 アザゼルの不可解な生態に、理屈を引っ張り出したおかげでナナシはいくらか調子を取り戻した。剣呑な顔つきを崩さない彼が自分のために気を遣っているのだというのは分かる。だからこそ自己都合で彼に無理強いをさせるのは自分が利かん坊にでもなったようで、心地のいいものではない。
「そうだな、お前がそう言うなら、そうする」

 アザゼルとしてはナナシ自身が構わないのであればそのことに異論はない。
 これまでのヴァイガルド生活の経験から、自分に向けられる警戒心が珍しいものではないことをアザゼルは知っていた。この外見はヴィータにとってはかなり威圧的に思われるらしいのだ。同じ純正メギドでも、もっと上手くヴィータ社会に溶け込んでいる者はいるのに。ヴィータの判断基準は摩訶不思議だった。
 ベッドの柔い弾力に慣れぬまま、アザゼルは再びナナシを見た。彼もこちらを見ている。

「……眠るときもその覆面のままなんですか」
 ナナシに指摘され、アザゼルは自分の身を顧みる。外向きの厚いコートや革ベルトを取り去って上下の布一枚になった彼に比べ、装備のひとつも解いていないアザゼルの姿はやはり異様なものだった。
 ヴィータであるナナシは知らないことだが、アザゼルはこれまで、メギドラルでのみならずソロモン王に召喚されてからもろくに眠るということをしたことがない。彼には必要がない機能だ。だから眠るときの作法だってよく分かっていない。しかし正直にそれを言ってもいいものか。今日一日の彼の態度を見ていると、眠らないのも飲食しないのもヴィータにはかなり奇異なものに映るようだ。
 アザゼルが口籠ると、いままで向かいのベッドに腰掛けていただけのナナシが立ち上がった。アザゼルはなす術なく、大人しくそれを見守る。

 たったの一歩でナナシはアザゼルの目の前まで辿りついた。部屋の光源であるランプが二人分の影を合わせて歪な形を作る。
「外してください、それ」
 いままで接したことのない距離でナナシは呟いた。その距離と同じく、彼から明確に何かをお願いされるのも初めてのことだった。
 こちらを見下ろす彼の表情を読み取ろうと、アザゼルは目を凝らす。光源の少ない部屋の中でアザゼルの瞳孔が広がる。

 彼の装束はそうであるように定められたものだ。それに彼なりの愛着はあれど、暗殺集団としてのアザゼルを失った以上、それ自体に彼の個人的な感傷以上の理由は既にない。
 そのことを考えたのち、アザゼルは呆気なく自分の顔半分を隠す覆面を外した。さして抵抗も示さず顔を晒した彼をナナシは拍子抜けの気持ちで見詰める。目の前に現れた顔は真っ直ぐ通った鼻筋と、いかにも口下手らしくこじんまりとした薄い唇、それだけだった。
 顔を見せないのはてっきり大きな傷があるとか、人目を憚るだけの理由があるのではないかとナナシは考えていた。だが、これではいつも見えている目元の傷の大きさのほうが目立つくらいだ。

 アザゼルは自分を見詰める彼の、次の反応を待つ。すると見上げる先の表情は呼気混じりに笑った。ほっと息を吐くように。
「なんだ、なんてことない、普通の顔じゃないですか」
 それを見て、アザゼルの身体は金縛りにでもあったかのように動けなくなってしまう。これが毒だとすれば、これまで受けたどんな毒よりも優れた即効性だ。戸惑うばかりのアザゼルが何もできないでいるのをいいことに、彼の身体を跨ぐ形で見下ろしていたナナシが上半身を折り曲げて、晒したばかりの両頬を手のひらで包む。そして彼の鼻先に小さくキスをした。
 あり得ないことだ。ついさっきまで怯えられていた相手から与えられる感覚にアザゼルは呆然となっていた。この行動の意味を求めてナナシを見る。ランプの灯に照らされた彼の顔はいつもより熱くなっているようにも見えた。

「あ……。すみません、こんなことするつもりじゃ……、」
 アザゼルがいくら答えを求めても、ナナシからは明確な言葉は示されなかった。

 正直なところ、バフォメットがなぜ自分にこんな役目を任せたのか、アザゼルには分からないままだった。しょっちゅう彼の後をついて回っていた自分は彼と特別仲がいいように見えたのだろうか。だがそれはけしてナナシの望んだことではない。己の身に沁みついた血生臭さが彼を怯えさせているなら、それは仕方がないことだ。そう、納得していたのに。

「お、怒ってます? 許可もなくこんなこと、怒りますよね」
 一転して離れようとした彼の身体をアザゼルは咄嗟に引き止めてしまう。掴んだ手首はあまりに頼りない。それを慎重に握り込むと、当然ナナシは恐怖に瞳を揺らした。

 ふと、アザゼルは自分の座るベッドの柔さを思い出し、そのまま身体を反転させた。ナナシの身体が引っ張られ、シーツの上に沈みこむ。捕まえてしまったことに敵意はないと伝えたかったのだが、ベッドに転がされたところでナナシの怯えが収まるわけもなく、死期を悟った小動物さながらに身を縮こまらせる。そのさまを見ていると憐れで仕方なく、アザゼルはどうしよう、と頭を悩ませる。
 どうやらナナシはアザゼルが自分の行動で腹を立てたと思ったようだ。そこでアザゼルはまずその誤解を解こうと、震える彼の手を取り、自分の頬に宛ててみせた。可哀想に、彼の手は恐怖ですっかり体温を失っている。

「他人に唇で触れるのは、一等親愛がある証なのだろう?」
「そういうことは知ってるんですね」
 両手をアザゼルの無骨な手によって包まれ、マウントを取られてナナシに逃げ場は少しだって与えられていない。
「それを俺相手に何故……、もしかしてお前はずっと俺の覆面が怖かったのか?」
 だがアザゼルはいつも通りの問答をするだけで、何か仕掛けてくる様子は一向にない。そのことに少し調子を取り戻したナナシは改めて真上の男を見る。見下ろすアザゼルの瞳は至極穏やかなものだった。ずっと覆面の下にあった、余計な肉付きのない頬を逃げ場のない両手が触れている。
「覆面って……、そんな、子どもじゃあるまいし」
 あながち遠くもないことを自覚しながらナナシは彼の言い分を一笑に付す。すると触れたままのアザゼルの頬の筋肉が引き攣り、僅かに動いた。これほど不格好な表情をナナシは見たことがない。しかし、それは疑う余地もなく笑顔の形を取っていた。
「なに笑ってんですか」
「本当だ、何故だろう」
「いや、貴方自身の気持ちでしょ。知りませんよ……」

 そう付き離されるといよいよアザゼルは首を傾げるしかできなくなる。それは赤子が大人の真似をするようなもので、彼の反応はナナシの笑みにつられただけかもしれない。ただ、ナナシから不意にキスを与えられ驚いたのは事実だ。こんなこと、同胞たちは誰も経験しなかっただろう。それに気が付くとアザゼルは余計に今この時が尊いものに感じるのだった。