共犯

 つまるところ記憶とは経験の積み重ねだ。俺の記憶は例えるなら帯状をしていて、今を起点にして順に手繰っていくことはできるが、それはすぐに手の中から擦り落ちてしまう。思い起こすべきことが少なすぎるのだ。

──何か思い出せることはあるかい?
 声質に似合わない、お道化た調子で彼が問いかけてくる。何もかもが靄がかる中で俺は横たわってそれを聞いている。促されるとおり、記憶を漁ってもそれはからの器を浚うかのようだった。 そんな馬鹿なことがあるものか、俺の意識が俯瞰したところで言い放つ。それはそうだ。たったいまこの瞬間に生まれたわけでもあるまいし。とすると、自分はあったはずの一切を忘れてしまったということだろうか。
「不安がることはない。記憶喪失で見知らぬ相手と対峙するなんてよくあることさ」
 なおも彼は楽観的に言った。当事者を前にしてそんな言い方はないだろうと、思わず返したくなる。思えば一言目から相手はなにやら訳知りであるようだった。声のほうに目を向けるとむき出しの頭蓋がカタカタ笑っている。よくあること、よくあることか。

「そう、いっそ陳腐なほどにね。そして手を差し伸べられるところから大抵の物語は始まる」
 彼の言葉を鵜呑みにするなら、彼と出会ったその日が俺の始まりの日なのだった。

 オロバスは髑髏顔に似合わずとても親切な男だった。まっさらな俺を棲家へ招いた彼は、濡らした布で顔を拭ってくれる。患部を冷やされると断続的に感じていた痛みが多少やわらぐようだ。どうやら俺は怪我を負っているらしい。
「ヒト喰いの獣にでもやられたのだろう。森の奥深くにはそういった連中もいる」
 そんなことさえ、オロバスはなんてことのないことのように言う。そんなものだから俺はそれがどれくらい重大なことなのかが分からなくなってしまう。人を食うのだから一大事のはずだが、骨だけで食いでがないオロバスにとってはなんてことない話なんだろうか。

 何とか情報をつかもうと、起動したばかりの脳を回転しているとオロバスの目──正確には骨の窪みから覗く僅かな光──が俺を眺めていた。
「ああ、どうやら外傷よりひどい損傷があるようだ。恐怖することも忘れてしまったかい?」
「それは悪いこと?」
「君のような生き物には必要な機能だ」
 もっともらしく彼は言う。今の俺はとにかく色んなものが欠落しているらしい。
「痛覚はしっかりあるようだから、まあ焦らずともそのうち思い出すだろう。過去の記憶については……一概に保証はできないけど」
 俺がうまい返事を返せないため、俺に向けたオロバスの言葉は一人芝居のようになってしまう。しかし幸いにも俺は彼の言うことをしっかりと理解できた。それを俺はとてもいいことと感じた。彼もそれが分かっているから呆けるだけの俺に話をしてくれるのだろうから。
「君の記憶は失われたかもしれない。しかしそれを継ぎ足していくことはできるよ。君に生存本能が残っているならば、ここで学んでいくといい」

 オロバスのほとんど一方的な提案で、それから俺は彼の小屋で生活することになった。鬱蒼とした森の中に不自然に建つその隠れ家で、彼は日がな目的不明の研究をして過ごしている。
 こんなところに一人で?そう思ってしまってから、記憶がないなりにそういった感覚は備わったままらしいぞ、と自分を俯瞰して不思議な気持ちになる。オロバスの生活はどんな事柄にも干渉されない。それは時間にしたってそうだ。ごく自然に夜が更ければ眠くなり、日が昇れば目が覚める俺と違って、オロバスの髑髏の下の光は絶えず煌々と光を放っている。彼の生活サイクルに合わせるのは早々に諦めた。

 日付けを一切気にしない彼の代わりに記録した数(単純に日が昇った数を数えているだけ)が200を超える頃。俺はあれから少しだけ背が伸びた。オロバスが言うには俺の年齢はちょうど成長期にあたるらしい。身体は栄養さえ摂っていれば頼まなくても大きくなっていく。だが二人分の食事を作ったり、彼の棲家にずらりと並ぶ本を読んだりで経験を積んでいっても失った記憶が戻ることはなかった。毎日目が覚めて、思い出せる顔がにやつくガイコツ頭だけなのを確認するのが俺のルーティンだった。そのことに小さく落胆しても、いつ寝ているのか分からないオロバスが落ち着きはらった調子で「それは困ったねえ」などと軽々しく言うので俺もすぐどうでもよくなる。日常における障害はなんだかんだでオロバスが取り除いてくれるし。

 オロバスの棲家まわりには人気(ひとけ)がない代わりに数種類の動物が生息している。森の中に限っては人間のヒエラルキーなどそう高い位置にはない。脳味噌がまっさらな俺であれば余計そうだ。
「そういえばオロバス。今日は森でイノシシを見たよ。君の言っていた人食いの獣ってあれのことだろう?」
 自由にしていいと言われた彼の本棚から見つけ出した図鑑を眺めながら質問すると、オロバスはそれに応じる。
「いや、猪はああ見えて自分より大きなものは食べないよ。君と同じで果物なんかのほうが好きだ」
「……大きな牙が見えたからてっきり食べられるかと思った」
「そうだなあ、この辺りに棲んでいるヒトを食べる動物というと熊かな。あれはおそろしい。厚い皮膚と大きな爪の持ち主だね」
 二人きりの暮らしでは当然話し相手もお互いしかいない。こうして日々の考えを共有し合うのを、どうやらオロバスも嫌いではないらしい。俺の考える疑問くらいはとっくに答えを持ってるのに、気前よく会話に応じてくれるのでそうなんだと思う。
 大きな爪の獣か。オロバスの長い爪より大きいのだろうか。俺は少しでも爪が伸びると本のページが捲れなくなるので気付いたら切るようにしてるくらいなのに、あの指先で様々なことをこなすオロバスは器用だと思う。しかし、そのくせ半分生存を放棄したみたいな生活を送っているため、俺は家事に関する知識ばかり蓄えることになっていた。手にした図鑑を元に戻し、井戸に水を汲みに行く。料理を拵えるのにも服を洗うのも必要なのはまず水だ。

 桶一杯に汲んだ水を覗き込むと、人の顔と目が合う。しょっちゅう目にしている顔とは違って、それは剥き出しの骨ではなく皮膚に覆われて、髪の毛があって、睫毛に囲まれた瞳がある。
 オロバスとは全然作りが違う俺の顔。長めに伸びた前髪をそっと指先で掻き分けるとそこにはぱっくりと大きな裂け目があり、鼻筋を横断して目の下まで続いている。記憶はおろか、いまより経験さえなかった真っ白な俺に、オロバスは大した説明も与えないで適切な処置をした。それが幸いしていまでは傷も塞がり、亀裂にはうっすらと新しい皮膚が出来始めている。彼に会わなければそのまま死んでいたに違いない、そう思えるほどの傷痕だ。ただでさえ頭部の傷は激しい出血を伴うと聞く。

 桶を抱えながら薄い色をした傷痕に触れる。あのころから少しずつ知恵を学んでいる俺は、これが向かい合った場所から振り翳されて、勢いよく切り裂かれた人為的なものだと気づいている。獣の爪や牙による裂傷じゃない。俺が肉や魚を捌く際に使うような刃物傷だ。それを与えたのが誰かまでは分からない。でも子供が刃物や武器なんてそうそう持ち歩かないだろう。
 俺が簡単に思い至れることにオロバスが気付いていないわけはない。そうでなくとも、傷付けられた俺を見つけたのは彼なんだし。

「ナナシ、」
 ぼんやり水面と見つめ合ってると、小屋のほうから声がかかった。お気に入りの椅子から腰をあげたオロバスが、いつの間にか玄関口までやって来ている。
「じき日が沈む。家へお入り」
 彼はゆっくりとした声色でそう言った。その言葉に抗う理由もなく、俺はひとつ返事をして彼のもとへ駆け寄る。
 オロバスは肉なんて感じさせないくらい痩せぎすだし、ローブからわずかに見える手は青白い色だし、頭なんか骨そのものだけど、声だけはいつも温かく穏やかだ。桶を抱えた俺が玄関を潜るのを確認すると、彼の血の気のない手が俺の背に触れる。
 俺はあくまで一時的に居候してるだけの身でしかなくて、オロバス一人分のためだけのささやかな家の中で、彼はちょっと身を寄せて俺のための分を空けてくれている。もう一方の手で静かに扉を閉める彼を見ているとそのことを実感して俺はそれを嬉しいと思うのだ。

 俺の境遇は彼の言う通り、それなりによくあることなんだろう。過去のことを思うと気持ちが翳ることだってある。でも彼が一切変わらない堅い骨の面で優しく微笑んでくれるので、俺は生きていて良かったなあなんて大袈裟なことまで考える。
「今夜は何を作ってくれるんだい」
「採ってきた山菜を煮込んでスープを作るよ」
「それはいい。それが一番効率的に栄養が摂れる」
 でも欲を言えばもう少し人間らしい生活力を持ってほしい。