異邦人たちのコーヒーブレーク

──あの野郎!ついにやりやがった!

 あっさりと告げられた報告にナナシは固く握った拳を目の前の机へ振り下ろした。分厚いクロスを巻き込んで、それは真っ二つに粉砕される。数々の破片が拳を突き刺したはずだが、そんなことに気を払えるほどの余裕はいまの彼にはない。唇を引き結びながら、その瞳はごうと燃える。ナナシの怒りをありありと感じ取ったメギドたちは口ぐちに声をあげた。
「でもあんただってあの変わり者を持て余してただろ」
「そうだ。今回の件はむしろ厄介払いができたと言えなくはない」

 変わり者、厄介払い。この場にいる誰一人として、そう称されるメギド──ルキフゲス相手に感傷的になる者はいないようだった。ただでさえ物資やフォトンの限られているメギドラルで、戦力にもならない存在は軍団に置いたところでなんの利益もない。戦争に微塵も興味を示さないルキフゲスはまさしくどこへ行っても厄介者だった。それがしばらく連絡を絶っていたかと思えば、何の報告もなしにソロモン王の傘下に加わったのだという。
 ソロモン王率いるメギド72といえば議席持ちの、ヴァイガルドを根城にしている新興勢力だ。直接戦争をし合った者は少ないが、色んな意味で特殊な立ち位置にあるイレギュラーな存在である。

「あんな使い物にならないメギドまで勧誘するとは、よっぽど戦力が足りねえんでしょうよ」
 せせら笑いの雑音をナナシは一瞥し、黙らせる。単なる八つ当たりだ。
 ルキフゲスはナナシの腐れ縁だった。遥か昔に同じ幼護士の教育を受けたということもある。そのころからすでにルキフゲスは異端者で、戦争に対してやる気のない彼は凪いだ目で周囲から糾弾されない程度の戦功をあげてきた。やる気はなくとも戦場でのそつのない立ち振る舞いは切れ者の証だ。むしろそれほどの男に出世欲がないのはナナシにとって都合が良かった。そして、ナナシが戦争熱心であるほどそれはルキフゲスの手抜きの隠れ蓑にもなる。互いのスタンスを認め合い、二人の関係は今日まで続いてきたのだ。

 だが、その関係性はある日を境に変貌した。
 ルキフゲスがじっと手の中にある何かを見詰めている。彼が戦場はおろか、どこを見ているのかすら分からないときがあるのはいつものことだ。しかし、そのときの視線の終着点ははっきりとしていた。薄い金属製の小さな棒切れ。刃はなく、鋭利さもない。きっとそれをナナシも他のメギドも視界には入れていた。だがわざわざ目を留めて拾い上げたのはルキフゲスだけだった。
 見たところ何の用途も見出せないそれはおそらくヴァイガルドから齎されたものだ。あちらから持ち帰られたのち無用と判断され、ぞんざいに廃棄されていたのだろう。
 だが、ルキフゲスはしばらく無価値な鈍い輝きを観察すると、後生大事そうにそれを懐にしまった。その手つきの繊細さがあまりに不釣り合いで、ナナシはついその一部始終を目撃してしまったのだ。

 ……その直後からだ、ルキフゲスが戦場で全く戦果をあげなくなったのは。以前のように、戦士としての振りさえ見せない。その変貌の理由をナナシは理解していた。周りから役立たずの烙印を押されようが、ルキフゲスにとってはその懐に今もしまってあるはずの棒切れに比べて大ごとではないのだと。
 幸いだったのが、その頃にはナナシは経験を積み立派な戦士になっていたということだ。ルキフゲスが腑抜けに落ちようと、ナナシにはもうなんの問題もない。──この戦争社会で、ルキフゲスはきっと生きていけないだろう。中央ではヴァイガルドの悪しき文化に傾倒した者たちを捕らえる動きもあると聞く。ナナシはよしみで、彼に調査任務を課し、一時的にメギドラルから逃したのだった。

 だが、その結果がこれである。事情も知らずあれこれ騒ぎ立てるメギドどもが余計にナナシを苛立たせる。
 彼をヴァイガルドにやったのはひとえにナナシの恩情だ。遺物調査という名目もそれほど大きな成果を挙げているわけではない。厄介払いというのはもっともで、ルキフゲスだってそんなナナシの思惑は承知の上だった。それがなんの挨拶もなしに離反とは。これは面子の問題だ。いくら異端者のやることとはいえ、物分かりよく聞き入れていたのでは示しがつかない。
 ルキフゲスの使用していたゲートはまだ使えるはずだ。そう思い立った彼はようやく重い腰をあげた。

 通された応接室で、ルキフゲスは快い態度でナナシを迎え入れた。役に立たない者相手の、個人的な始末などに割ける人員もなく、ナナシは単独でヴァイガルドの地へ足を踏み入れていた。

 肝が座っているのか、図々しいと言うべきか。調査の拠点にしていた街からルキフゲスは一切去ることもなく、至ってそれまで通りの暮らしを送っている様子だった。
 ナナシは心中で大きく舌打ちをする。彼にとってはヴァイガルドの、こうして街の中までやってくるのは初めてのことだった。ヴィータ社会を初めて目の当たりにはしたものの、彼の目にはルキフゲスはすっかりそこへ溶け込んでいるように見えた。それこそ、よくソロモン王が彼をメギドと見分けられたものだと感心するほどに。

「あれがソロモン王か?」
 それまでほとんどだんまりを決め込んでいたナナシが重々しく口を開いた。あれ、とは彼をルキフゲスのもとへと導いたヴィータのことを指している。いかにも非戦闘人らしいひよわな造りの生き物は、ナナシがルキフゲスの名を出すと快く屋敷へ案内をした。
「彼女はこの邸宅の主だ。ソロモンとは無関係の」
 ルキフゲスはナナシの言葉をゆっくりと否定する。ならば屋敷内で何人か見た他のヴィータだろうか?とあたりをつけたのだが、それも違うらしい。どうやらソロモン王はルキフゲスを相当好き勝手させているようだ。しかしそれについてはナナシも他人のことは言えないのでただ沈黙する。
「ソロモン王に用があるというならば都合するが、君の興味は私だろう」
 ルキフゲスはさも当然のようにそう言った。ソロモン王と役立たずのルキフゲスではその重要さは測るまでもない。それなのにナナシは役立たずのほうを目当てに、単身で遠路はるばるこんなところまで来ている。改めて言葉にされるとなんとも非合理的で説明がつかないことだった。

 応接室は客人を迎え入れるための部屋で、ルキフゲスが身を寄せているヤリスキー邸がそれなりに身分のある家であることを十分に説明していた。ルキフゲスは極めて勝手知ったる振る舞いで先ほどから何かの器具を触っている。彼の眼球はいつだってナナシには無関係のものにばかり執心で、一向にこちらを見ない。
 これがここまで訪ねてきた相手にする仕打ちだろうか。今ではメギドラルの軍団でそれなりの地位を得ているナナシだが、だからといって出世に興味のないルキフゲスが彼を厚遇する理由は皆無だ。そこになんともいえない虚しさを覚え、ナナシもルキフゲスに倣い、仕方なく彼が見つめる先に視線を向ける。彼は筒状の器具でこまごました茶色の豆を粉砕して粉状にしているらしい。微かにものが焦げたような匂いが漂う。暴力とは対極にあるような穏やかな音が立つ。
 その手つきは、彼がもうメギドラルに一片の未練さえないことをナナシに理解させるものだった。彼が戻ってくるなどと、期待していたわけではない。だがその可能性は潰えた。そのことがまざまざとナナシの前で見せつけられている。

「ソロモン王と出会ったのはなんというか……、数々の偶然の結果でね。私も目先の興味ばかり優先してしまって、つい君に対する礼を欠いてしまった」
 作業を進めるささやかな音の合間から、ルキフゲスの声が聞こえる。
「地位も武功もある君が、私のことなど気にする事はないだろうと軽々しくも思ってしまったんだ」
 その声をナナシは黙って聞いていた。ルキフゲスがここまで饒舌に喋るのをメギドラルではついぞ見たことがない。その珍しさがそうさせた。じっと沈黙するナナシの視線の先で、やがて黒色の湯が注がれる。それは鉄錆色がかった黒で、香り高く、妙に鼻に残るにおいをしていた。

「これを、君に」
 ずい、と目の前に差し出されたそれをナナシはまじまじと見る。湯が立つ温かな気がナナシの顎のあたりを擽った。やはり、嗅いだことのない特徴的なにおいだ。同じ色をしたカップはルキフゲスの前にも置かれている。いくら観察していても埒が明かない。ナナシは数秒カップへ視線を送ると伏した睫毛をあげて鋭い目つきでルキフゲスを見た。
「これは?」
「コーヒーだよ。ヴァイガルドの嗜好品のひとつさ。冷めないうちに飲み切るのが作法だ」
 ルキフゲスの口振りは彼らしく不遜なものだ。しかしその顔つきだけはいつも以上に眉をきりりとさせ、どこか強張っているようにも見える。その瞳の内に期待の光が灯っているのも。一体何を期待しているのか、その熱が自分の身に纏わりつくような気配を感じ、ナナシは心地が悪くなる。

 なんにせよ、ルキフゲスが自分に何か物を寄越すのはこれが初めてのことだ。それを思えば、多少の違和感はひとまず置いておいてもいい気がして、ナナシはカップの華奢な持ち手をつまむ。ルキフゲスの口振りから、これがどうやら飲み物らしいというのも彼には理解できた。もう一度、得体の知れない黒湯を見下ろす。
 ルキフゲスは裏切者だが、彼にあるのはこちらへの無関心だけだ。毒を盛ったりなどはしないはず。ナナシは客観的なところからそう結論づけて、促されるままそれに口をつけ、……たった一口でカップを置いた。

 おや?とルキフゲスが目を大きく開く。だがナナシの眉間に深い皺が刻まれているのを認めると、すぐに合点がいったようだ。メギドラルにはまともな食文化がない。個によって好む食べ物はあるものの、それを味覚で味わっている者はごく少数だろう。純正メギドのナナシの味蕾は異界の味覚に驚愕しきっているに違いない。自分がヴァイガルドへ渡ったばかりのことを思い出し、ルキフゲスは懐かしむような気持ちになる。
「味わい深い苦みと酸味だろう? そう、まるで……」
「待て。これが嗜好品だと?」
 感極まり、いつもの調子で口を開くのを顰め面のナナシが制した。苦みも酸味も本来生物としては避けるべきものだ。それを好き好んで摂取するなど、まさにヴァイガルドの非合理の表れ。ルキフゲスを変質させてしまった文化そのものといえるだろう。こんなものを寄越して一体なんのつもりだというのか。苦々しげな表情を隠さないナナシを見て、ルキフゲスは少しも嫌な顔をしない。それどころか理知的な瞳のままで彼を見ている。観察されているのだ、とナナシは思った。なにもかも彼には理解しがたいものだった。

「君に詫びと、それから感謝を感じているんだよ。こうしてヴァイガルドにいると、あの日一本のティースプーンに魅入られてしまった私の個を、君が尊重してくれたことが日増しに鮮やかに思い起こされるのだ」
 ティースプーン。おそらくあの鈍い輝きの銀色のことだろう、とナナシは当たりをつける。蒐集家として以外のルキフゲスはつくづく自己表現の下手な男だ。それでもヴァイガルド滞在を経て、その術を学んだということらしい。彼なりに自分に対して何か思うことがあったなんて、ナナシは今日の今日までちっとも知らなかった。

「ここでの価値はけして一元的ではないのだよ」
 そう微笑んで、ルキフゲスは自分もコーヒーに口をつけた。幾分か薄くなった湯気が彼の豊かな睫毛に当たってくゆる。それを見ているうちに、いつのまにかナナシもまたカップを傾け、好ましいとは思えない苦みを飲んでいた。