ヴァッカスの策謀

 優れた蒐集品は誰かに自慢したくなるものだ。それは世の蒐集家が抱える当然の欲求である。純正メギドかつ蒐集家であるルキフゲスも多聞に漏れずそうした気持ちを抱えていた。
 だからといってその相手が同じく純正メギドである自分である必要は全くない、とナナシは強く思う。彼にはルキフゲスガイズなる独自の信奉者たちがいるはずである。彼らの審美眼がいかほどかは分からないが、相変わらず顰め面でコーヒーを啜るだけのナナシよりは確実にマシだろう。

 こうしたヴァイガルドでの何度目かの逢瀬を、ナナシは「単なる情報収集」と言い張っていた。
 彼がかつてルキフゲスに与えた遺物調査任務の席は空いたままなのだ。まっとうに生きるメギドにとって戦場から遠ざけられるのは不名誉以外の何物でもない。いつ戻れるかも知れない異界へ左遷されるなんて、希望者がでるわけがないのである。もともとルキフゲス以外のメギドに任せる気もなく後先考えずに見繕った役職だ。しかし、一度作った以上は体裁を保たなければならない。ナナシがヴァイガルドを訪れるのはそうしたことの地固めのためだと言う。いくらルキフゲスとは往年の付き合いによるよしみがあるとはいえ、面倒なことをしたものだ。ナナシの脳裏で後悔がちらりと顔を覗き、彼はそれを黙殺した。

 そういうわけで今日も、ナナシはルキフゲスのこまごましているくせに数だけは膨大な蒐集品に目を通させられているのである。
 それらの価値は正直なところいくら饒舌な弁を聞いたところで理解できそうもないのだが、ヴィータの街を訪れ、ルキフゲスがヴィータに慕われているらしい様子に出くわすと、やはり、惜しいと思うのだ。
 彼には他人を惹きつけ、束ねるだけのカリスマがある。統率は戦争にも大いに役立つスキルである。それをほとんど無意識にやってのけるのだからつくづく逸材なのだ、この男は。
 白状すると、ナナシがこうも彼のもとを訪れるのは彼にこれ以上ヴァイガルドに適応されすぎては困るという考えがあるからでもあった。ナナシが故郷でメギド生活を謳歌している僅かな間にもルキフゲスの戦士としての恵まれた才覚が失われていく気がして落ち着かないのである。定期的に自分の存在を思い出させ、お前はメギドなのだと突きつけてやらなければならない。そのためにこうして異界に出向くのも彼にとってはさして大きな労力ではないと踏んでいた。

──だいたい、ハルマとの大戦争が始まれば真っ先に巻き込まれるのはこのヴァイガルドなんだぞ。
 自然と睨みつけるようになるナナシの前でルキフゲスの横顔は安穏としている風だ。ヴァイガルドのどこかで覚えたらしい歌など口ずさみながら、今日もヤリスキーの応接間にどっしり腰かけるナナシの前へ飲み物をサーブする。それがいつものカップではなかったため、ナナシは視線を落とし、狭まっていた眉間を少し離した。

「コーヒー、ではないのか?」
 ルキフゲス流の歓迎といえばあれやこれやのコーヒー豆を挽いて寄越すものだ。種類豊富らしいものの、どれを手渡されてもナナシにはどれも飲料には適していない、という評価しか下せていない。そんなナナシの問いにルキフゲスはご名答、と満足げだ。
「ブラックコーヒーを険しい顔で飲み干す君の顔を見ているのも楽しいものだが、今日は趣向を変えてみようと思ってね」
「どうでもいいところを見てるんじゃない」
 揶揄するような口ぶりに、ナナシは目つきを険しくする。しかし彼が過剰に反応するよりもルキフゲスは意地の悪い質ではない。初めてコーヒーを差し出した日も、彼の顔色を見てすぐに砂糖やミルクを混ぜることを勧めた。それを断ったのはナナシだ。彼にはヴァイガルド産のものを美味しくいただく義理もなかったし、ルキフゲスが嗜む味から遠ざかるのではそもそもそれを飲む意義さえなくなる気がしたからである。それがこの男に意図せず楽しみを与えてしまっていたとは不覚だった。

 仏頂面のナナシの目の前で赤紫の液体が注がれる。透明で口が大きく、底も膨らんでいる容れ物の構造によって、重力に伴って滑り落ちてきた液体の先はグラスの中をくるりと一回転した。コーヒーのあの黒色よりはまだマシに思える色だ。
「いい酒が手に入ったものだから。是非、君にも賞味してもらいたくてね」
「酒?」
「葡萄酒。これもヴィータがよく好む嗜好品のひとつだ」
「……連中の食い意地にだけは感心するな」
 ナナシから言わせれば短い寿命で努力の方向性がずれているとしか思えない。

 よく冷えた液体はコーヒーとは違って湯気を発さない。しかしその芳香はグラスの大きな飲み口のおかげもあって勝るとも劣らない香りをたてる。
 ナナシが訝し気にまずにおいを確かめると、それは確かに熟した果実に似た匂いだ。色も言われてみれば葡萄の色そのものなので、彼の警戒心はいくらかやわらぐ。だがコーヒーの前例があるからか、厳しい顔つきで見詰めるだけでなかなかグラスを持ち上げようとはしなかった。
 その一部始終を眺めているルキフゲスの視線はいつになく柔らかい。ナナシの心がわずかに苛立つ。これ以上この男に無用な娯楽を与えてやる義理はない。たかがヴィータの飲み物ごときがなんだというんだ。不快な視線の中、ナナシは一息ついて葡萄酒とやらを口に含んだ。ぐっと、喉仏が上下する。
「おい」
 例のごとく、グラスにはまだまだ液体が残されている。ナナシは渋い顔を作って、困惑を覆い隠すように低い声で言った。
「これ、腐ってるじゃないか」
「おお、流石にその程度は分かるかね。正しくは発酵と言うそうだ」
 などと蘊蓄を説きながらルキフゲスもまったく同じ液体を煽るものだから、ナナシはぎょっとした顔をする。焦げた豆の次は腐った果実だ。ヴィータ文化の発展の仕方はおかしいとしか言いようがなかった。こうして会うたびにルキフゲスはヴァイガルドの異様さに毒されていっているようだ。それを何が楽しいのかかつての同胞であるナナシに見せつけてくるのだから無神経にも程がある。

「さて、では話の続きだが……」
 強制的に再開される蒐集品談義を前にして手持無沙汰のナナシにはグラスの中身を減らすくらいしか時間を過ごす術はない。口に合わないなら突き返したっていいはずだが、つとめて紳士的である彼は顔を顰めるだけにとどめた。

 時間はそこからおよそ15分後になる。
 ルキフゲスのあれだけ饒舌な唇はさっきから、ただにっこりと弧を描き、閉ざされたままとなっていた。それというのも。

「るきふげす~! 貴様ぁ、どうせ俺のことなどどうでもいいのだろお~~!?」
 いつのまにか、攻防がまるっきり入れ替わってしまったからだ。ヴィータによってはアルコールの摂取によってある種の状態異常に陥ることがあるというが、まさかこの男もそうなるとは。

 ナナシは間延びした語調で全身の緊張を解き、お手本のような酔っ払い姿を晒している。戦士としての姿は見る影もない。
「うーん。そんなことはないけれどね」
「嘘つくなあ!」
 酔っ払いに話は通じないというのは本当だった。くだを巻くナナシは驚くばかりのルキフゲスへずいと上半身を近づける。彼の手の中の、いまにも取り落としそうなグラスが気にかかり、ルキフゲスはそれを取り上げてテーブルの上へ避難させた。
「あ、勝手に取っていくな!」
「落としたら大変だろう」

 言ってしまってから、ルキフゲスは相手が正論を聞かない状態異常であることを思い出した。案の定、恨みがましさ全開の眼光がルキフゲスを睨みつけた。
「あれは俺のだぞ、貴様から寄越したくせに取り上げていくのか!」
 ナナシは危うげな舌遣いでそう叫ぶと、ルキフゲスの腰掛けるソファへ移動してまで、返せ返せと喚きたてる。思い切り駄々っ子の振る舞いだ。大の男二人分の重みでソファが嫌な音を立てた。そんなことをせずとも手を伸ばせばテーブルの上なんかすぐに届くのに、ナナシの身体はまっすぐルキフゲスのほうを向いてそのことには気が付かないようだ。メギドラルでは多くのメギドを従える身の彼がすっかり判断能力を失っている。
 ルキフゲスは自分にしなだれかかる身体を興味深げに眺めながら、器用に後ろ手で別のグラスに水を注いだ。
「アルコールの効きには個体差があるというがね。いやはや、まさかこうなるとは」
 ルキフゲスは独り言のように呟いて、小さく呼気を吐き出して笑った。この男が思い通りにならないのはいつも通りのことだ。それなのに、いまのナナシはそれがいつもより何倍も不満に思えてしまう。怒りとやるせなさがいつまでも燻って胸の中へ居座る。

「きさま、またそうやって……」
 何か言わずにいられずに、ほとんど考えもなく吐いた言葉は行き先をなくす。ルキフゲスの厚い掌がなんの前触れもなくナナシの顎をするりと撫でたのだ。付け根からなぞりあげるようにされると構造上ナナシの顔は上を向く。されるがままの彼を片腕で支えながら、ルキフゲスはさきほど注いだ水を差しだした。勉強家の彼は酔っ払いの対処法も当然心得ているのだ。
「ん」
 ナナシのほうもアルコールで余計な意地が溶けてしまったらしい。差し出されたグラスを一瞥すると、とろんとした締まりのない顔つきでルキフゲスの手ずから水を飲む。よく冷やされた水は何の抵抗もなく喉の奥へ流れていく。気怠い頭にその冷たさが心地良い。となれば抵抗する理由もなく、ナナシは大変素直にルキフゲスから与えられるそれを受け入れた。

「ルキフゲス! あ、れ……?」
 と、依然として緩慢な頭で、ナナシは第三者が部屋の扉を開く音を聞いた。
 ちょうどグラスの中が空になり、ナナシのゆるゆるの口もとから零れた水をルキフゲスの指が優しく拭ったころである。

「やあソロモン王、呼び立ててすまないね」
──ソロモン王。ルキフゲスが呼んだ言葉に、ナナシは思い当たる。確かそれはとても重要な人物の名であったはずだ。ルキフゲスや自分の軍団にも関わる、なにか重要な。しかし少し考えただけで思考は次々霧散していく。早々にどうでもよくなり、ナナシは自分を支える相手にさらに身を委ねた。

 その様子を見て、来訪者たちは気まずそうに顔を見合わせる。
「えーと、俺たち邪魔、だったかな?」
 ソロモンたちをこの場に呼び寄せたのは他でもないルキフゲスだ。彼が身を寄せる街の周辺で幻獣騒ぎがあり、その対処に駆けつけたのである。
「いや、こちらこそすまない。君たちがこうも迅速に動いてくれるとは思っていなかったものだからね。つい友人との語らいに熱が入ってしまった」
 言いながら、ルキフゲスの眼下でナナシが彼の服を力強く握り込んだ。どうやら彼が自分を差し置いて誰かと会話しているのが気に入らないらしい。普段はなんとか押し込められている心の内がこうも露呈してしまっては、酔いが醒めた後の彼の心理状態がどうなるか想像するまでもないだろう。

 とはいえ幻獣絡みの事件が起こっているならば状況は急を要するはずである。その割にはルキフゲスは悠々と自分に凭れかかる友人を撫でたりして構うのをやめない。机の上の状態を見る限り、酒を飲んでいたらしいことはソロモンたちにも察せられる。それにしたってルキフゲスの瞳はいつも通りの色を湛えていて、正気を失くしているようには見えない。
「悪趣味です」
 一連のやりとりを見て、ソロモン王の傍らに立っているだけだったアリトンが初めて口を開いた。ルキフゲスの行動はいままさに自分の手の中にある所有物をひけらかし、自慢したいだけのように見える。実際その見立ては正しいのだろう。有能執事の冷ややかな視線を受けて、蒐集家はやけに満足げであった。
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