対岸で見つめてくる両目がある。学生らで埋められた居酒屋の長テーブルはさして大きいわけでもない。そこに所せましと酒のグラスと料理が並べられている。
同学部所属の尾形百之助は一言でいえば変人だった。誰かとつるんでいるのも、能面のような表情が動くのすら滅多に見せない。一人で生きていける能力のある人間にとっては他人に合わせる労力が馬鹿々々しくも映るようで、尾形の態度はそういった周りへの冷めきった軽蔑を感じさせた。だから今日の飲み会に彼が参加してると聞いたときは、そういう気まぐれを起こすようなやつなのか、とナナシは意外に思った。その尾形が黙り続けたままこちらを見ている。墨で塗ったような暗い目だった。
「熱烈だなあ」
背後から現れた本日の幹事がほろ酔いの調子で言った。いかにも他人事といった様子にナナシは当てつけめいた気持ちになる。
「あいつに声かけたのはお前だろ」
「お前が来るならって、二つ返事だったぜ」
と、信じがたいことを宣った。なんであれ、尾形が宴会の席に滅多に現れない人間なのは違いない。そういう人間を連れてこれたことで幹事はどうやら気を良くしているようだった。尾形はというと、目の前の串焼き盛り合わせには目をくれることもなく、ときどきグラスを傾けてちみちみと酒を吞んでいる。机に落ちたグラスの結露を億劫そうに拭うのはとても今夜の同席に快諾したとは思えない振る舞いだ。そんな男が目の前の席に陣取っているものだからナナシも到底酔えるような気分にはならない。
「二次会行きますか、行きませんか」
並べられた料理が空になるころになって、ようやく尾形は机の向こう側から動いた。周りの雑音に負けそうなくらいの声量で問いかける。呼気まじりの気だるげな声だった。ナナシが尾形の声を面と向かって聞いたのはそれが初めてである。そう。彼とは学科が同じというだけでろくに会話を交わしたこともないのだ。
「……お前は」
「あんたが行くなら行こうかと」
どうやら尾形にはおかしなことを言っている自覚がない。こいつがいる限り、引き続き俺は酔うことができないだろう。酔えない宴会にこれ以上金を出すのも馬鹿らしく思えて、ナナシはすみやかに幹事へ割り勘分の金を支払った。
二次会組と分かれて一足早く外へ出る。秋分を過ぎただけあって、夏のぬるい空気とは性質の違う冷たい風が二人に吹きつける。
「ついてくんなって」
「駅こっちです」
「……。」
飲み屋街はまだまだ人気(ひとけ)が絶える様子がない。だというのに、ナナシを支配していたのは得も知れぬ緊迫感だった。尾形は彼の背後にぴったりと付いている。振り返って確認せずとも、酒の席でも見せた強すぎる視線を感じるには十分すぎる距離だ。問えば問われたぶんだけ言葉を返してくる尾形はどうも多弁なタイプではないらしい。歩みを進めるにつれ、そこにナナシはだんだん焦れてきた。
「お前なあ! なんか用があるならはっきり言え気持ち悪い!」
焦れて、つい暴言までついて出る。尾形の墨塗りの瞳孔が、驚きできゅっと小さくなるのをナナシは見た。
「はぁ……、そうですなァ」
しかし驚いて見せたのは一瞬のことで、すぐに気だるさを取り戻すと尾形は片手で自らの髪を撫でつけた。だが一度堰を切ってしまえばナナシも簡単には収まらない。
「だいたい、その敬語もなんなんだ。歳、同じはずだろ」
口をついて出た言葉は言いがかりに近かった。同い年に敬語を使うのは別に悪いことじゃないと普段のナナシであれば思ったことだろう。だが尾形が他の同級相手にそういう態度を取っているのを彼は見たことがなかった。寧ろ相手が先輩だろうと必要最低限の言葉のみで不遜に応じるのが常の男なのだ。そんな男が「ナナシさん」なんて呼べば、彼がそう呼ばせているか、あるいははたまた浪人生かと疑われてもおかしくなかった。おかしいのはこいつ。こいつが勝手に呼んでるだけ。ナナシは誰とも知れぬ相手に心の中で弁解した。
「いや……、前世であんた、まあまあおっさんだったでしょ。その名残で」
尾形は相変わらずぴくりとも動かない表情で言った。その顔色はまったくのシラフで、ナナシの思考は消し飛ぶ。
「あ?」
「あんたがはっきり言えって言ったんでしょう」
「そうか俺はタクシー呼ぶからお前は駅使えじゃあな」
一息で言い切った彼がその場を立ち去ろうとすると、尾形からは心の底からの深いため息が吐き出される。
「俺が悪いみたいな態度やめろよ」
「あんたが悪いんでしょう。思い出せませんか、たった百年前だぜ?」
あからさまに不審者を見る目を向けられても尾形は不自然なほど落ち着き払っていた。傍らの自販機の光が尾形の墨色の目を照らす。
(なにが、前世だ。会話の取っ掛かりにしてももっとマシなのがある)
ナナシはこの少しの感情も滲ませない瞳が恐ろしかった。この男が望んでいるのは彼との対話ではない。尾形の両目はまなざしの先の獲物を確実に仕留める、そのための器官なのだ。
「それとも俺だけじゃ思い出すきっかけには足らんですか。あんたがその後どんな人生を送ったかは知りませんがね。尾形百之助を忘れるほど幸せな晩年でしたか?」
自販機の光、店先の灯り、車道を行き交うランプ。尾形の目は暗いのに、そのどれより煌々としているようにナナシの頭はとっさに錯覚をする。
こんな譫言になんて付き合わないほうがいい。思い出すな。強い言葉でナナシは自分の思考を留めようとする。
──尾形百之助の人生は函館で幕を閉じた。蒸気機関車の上、時速120キロの風は血液と体温を悉く奪い取っていく。意識と意識のはざまで尾形の頭に過ったのは自らが殺めた者たちの顔、そして最後まで殺せなかった者たちの顔。すべてが終わりゆく中で、彼の執着は薄らいでいく。
だから明治の記憶を持って生まれなおしたときにはあれほど身を苛んでいた執着からはすっかり吹っ切れた気持ちでいたのだ。前世を知っているからといって再びそれに縛られて生きる必要はない。そこまで考えて、ふと思い返すことがある。腹違いの、敬虔な弟をその手で殺めた夜のことだ。花沢勇作は聯隊騎手の鑑だった。ああ聯隊騎手とはなんという役割だろうか。最前線に身を置くことだけではない。あれほど大きな旗を掲げていては攻撃を避けるどころではない。まして、自陣から狙い撃たれる凶弾などからは。
勇作の死はほとんど確定されていたようなものだ。それを分かっていながら誰もが彼の死を悼み、惜しんだ。尾形は暗い隅からそれらを傍観していた。やはり不動の表情のまま、やがて彼は自分の凶行が一向に明るみに出ないことへ疑問を持った。しでかしたことに酌量を求めるつもりはないが、宙ぶらりんのままでは心地が悪く、尾形は軍医を訪ねてみることにした。ほぼ即死だった勇作をそれでも懸命に治療し、最後に死亡診断を下した男だ。簡易の診断書に記された名前を確認する。勇作の兄である尾形が彼を訪ねることにはなんの不自然もなかった。
『あんた、上官から何か命じられたのか』
抱いた疑問のまま、尾形は問いかけた。仮にも医者が、弾がどこから撃ち込まれたのか程度が分からないわけがない。まさかそれが勇作を狙ってのものということまでは分からずとも、自陣からの流れ弾という診断くらいはするだろう。第三者から口留めをされているというのなら、分かる。
30代半ばくらいの男は尾形の姿を認めると、弾かれるようにして簡易椅子から立ち上がった。全身を固くする様子からは過度の緊張が伝わる。それを感じ取り、尾形の目が僅かに細くなる。どんな男かと思えば、想像よりはずっと聡明なようだ。男が見せた怯えから、尾形は彼が勇作の本当の死因どころか、その下手人すら理解しているのだと悟った。
『このことを知っているのは私だけだ』
男は引き結んでいた唇を開き、言い放った。彼は彼自身の判断で真相を秘したのだと言う。尾形は何も言わず、ただその先を促した。
『……貴様何てことをしたんだッ! 聯隊騎手をなんだと思ってる!!』
ついさっきまで尾形の存在に確かに怯えていたはずなのに、そんなことはすっかり忘れた調子で男は怒りをあらわにした。不測のことに、尾形の瞳孔はきゅっと小さくなる。男の怒りは本物だ。本気で、尾形が勇作に死を与えたことを怒っている。それを理解すると尾形は自分の心がいちだんと冷え切っていくように感じた。
『なんですか。勇作さんと面識でもあったんで?』
それなら話は簡単だ。勇作の交友関係なんて尾形が知るわけもないから特段おかしなことではない。気のない声を出す尾形を男は遠慮なしに睨みつけた。
『そうじゃない、聯隊騎手がよりにもよって戦闘と関係のないところで殺されたとあっては士気に関わるだろう! そこまで考えが至らなかったのか貴様は!』
『……はァ?』
『最も重要なことは勝利だ……』
それだけぼやいて、男は口を閉ざした。つまり彼が真相を明かさないのは尊い国のためで、勇作のためでも、まして尾形を庇うためでもないというのだ。あまりにあっけなく、尾形は腑に落ちる。
『だから今さら身勝手な心配などせずとも私に他言する気はない』
殺人者に嫌々言葉をおくると、男は野良猫でも遠ざけるように片手で追い払うしぐさをした。
なんにせよ尾形にとっては都合がいいことだ。ナナシが真実を隠したとて、勇作の死は軍隊に大きな影を落とした。しかし戦争が激化していけばそれに構ってもいられなくなる。尾形は日露戦争を生き延びた。ナナシの人生がそのあとどうなったかなど尾形は知る必要もなかったし、その夜のやりとりさえ、彼は最後まで思い返すことはなかった。
ただきっかけがあるとするなら、それはやはり今際の際の薄れゆくはざまに、彼の海馬が混ぜっ返されたあのときに、偶然どこかに引っかかるようにして思い起こされたのだ。
百年後の白色電灯の下で、尾形はゆっくりとそれを反芻した。そして思ったのだ。あの男はどうしているだろう、と。
それが兄弟殺しを怒鳴りつけるみたいに、また自分に向けて声を荒げているのだからこんなに面白いことはない。尾形の目が三日月のかたちになる。前世でのこと、思い出せないのならそれはそれでいいのだ。
「……だってそれだけあんたが俺との秘密を守ってくれてるってことですからね」
「タクシー!!!」
尾形の思考など露知らず、ナナシは闇夜の車道に向かって渾身の力で声を上げた。
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全てにおいて何の考証もしてません。