──においが変わった。
巻き付けられた布で両目と口まで塞がれていては、自分の状況を量るのには嗅覚に頼るより他ない。
護衛任務のためトーア公国を訪れた俺は突如襲撃を受けた。そいつは俺を暗がりへ引き込むと視界を塞ぎ、あれよあれよと身体までふん縛った。抵抗する間の一切ない犯行。王都と各地の所領の関係は繊細だ。とくにトーアのように自治武力の備わっている地域であれば、それがいつ王都に対する敵対意識に変わるとも限らない。「何者だ、」と発しようとした口にも深く布が噛ませられる。俺の身体を好きにする腕は二つ。相手は一人だ。それにしてはいとも簡単に捕らわれてしまった。身動ぎながらなんとか拘束を解こうとする腕に下手人の手が触れた。鎧越しにひやりとした体温が伝わった気がして俺は背筋を硬くする。
石畳を歩かされている間も周りは静かなものだった。襲撃は俺一人を捕らえて終わったらしい。
後ろの気配に促されるまま連れられた先で俺は足を止めた。視界が奪われていても、得られる情報はゼロじゃない。石畳と絨毯では踏みしめる感触も音も違う。なにより先ほど感じたにおいの差は顕著で、その空間は紙やインクの無機質なにおいと混じって、誰か個人の気配を感じさせた。
(どこかの部屋か……。)
与えられた情報をなんとか処理しようとしていると、背後の気配が急かすように俺を中へと押し込んだ。
柔らかい衝撃が大の男一人分の体重を受け止める。状況にそぐわない、覚えがある弾力の感覚はベッドだろう。
後ろで扉が施錠される音が耳まで届いた。やはりここはどこかの私室らしかった。何かおかしい。一体下手人の目的は何なのだろう。顔に触れる冷えたシーツからは清潔なにおいが立つ。状況から見ればこれは誘拐に違いなく、捕縛を解いてなりふり構わずここから立ち去るべきである。しかし、俺の頭はどういうわけか落ち着いたままだった。
後ろから品定めの視線を感じる。俺が落ち着いているのを相手も意外に思っているのかもしれない。だが俺はそいつが思っているよりはよっぽど多くの犯罪を目にしてきているのだ。俺を害するのが目的でなかったとしてもこの扱いは丁重すぎる。捕らえられた際に多少のもみ合いはあっても、手荒だったのはそれくらいで、俺は負傷のひとつもしていない。両手を固く縛るのも麻縄などですらなく単なる布なのだ。そのおかげで俺の身体は無理な体勢で腕が攣りそうになるだけで済んでいる。そうやって考えていくと少しずつ分かってくることがある。そもそもどうしてあの場で俺だけが連れ出されたのか。それに、ここはトーアだ。
黙り込んだ俺に痺れを切らしたのか、後ろの気配が動きをみせた。束ねられた俺の腕を押さえつけて、ひょいと軽く跨ぐ。
「……!」
そのまま体重をかけられれば拘束に更なる力が込められ、俺の後頭部へ相手の顔が寄せられる。急所に近い場所に他人の気配を感じ、俺はひと際強く布を嚙み締めた。あからさまな動揺は相手にも伝わっただろう。男の手は俺のうなじへ触れ、実に嗜虐的な動きで背をなぞる。その終着点が分からず、俺は今更になって焦りを思い出す。やがて鎧の留め具へたどり着くと容易くそれを外してしまった。
(ま、待て待て待て)
俺の頭は大混乱だ。やはり馬鹿の考えは休むに似たもので、慣れない思考に時間を取るよりも真っ先に逃げるべきだった。のしかかられたまま、俺は出来る限りに身体を捩った。それがどんなに憐れっぽく見られようが構ってなどいられなかった。そうしている間にも装甲はどんどんどこかへ取り払われてしまう。ついに奴の冷えた手が衣服まで侵入し、地肌を捕らえた。そこでようやく苦心の甲斐あって口枷をずらすことに成功する。俺は心からの叫び声をあげた。
「っ、ヒュトギン!!」
「……ああ、やっぱりバレてた?」
下手人は体の真上から一切悪びれない声で言った。
「御機嫌ようだねナナシくん」
正体がばれて観念したのか、あっさり目隠しは剝ぎ取られる。一時ぶりの光でも室内が薄暗いせいで目が眩むようなことはなかった。おおむね良好な視界の中でヒュトギンは不気味なくらいいつも通りの顔つきをしている。
「なにがゴキゲン……、お前……っ! 仕事中だぞ!!」
「ここはオレの拠点だよ? キミを連れ出すことはきちんと領主に進言しているし、彼からキミの上司にも伝わっているはずだからそこは心配無用だよ」
「そこまで手回ししておいて俺に断る頭はないのか!」
悪戯にしては質(たち)が悪すぎる。どう考えても俺の怒りは正当なものだろう。だがそれを聞いたヒュトギンは少し尖った口調でこう言った。
「確かにちょっと悪戯してやろうかとは思ったけどさ。オレ怒ってるの、分かんない?」
「……怒る?」
「そう」
言われたことの意味がすぐには理解できない。どう考えてもいまは俺が怒る場面だろう。怒っているのだと主張するヒュトギンの表情を確認してもそこから感情は読み取ることができない。
「だって嘘ついただろ、キミ」
ヒュトギンの声色はあくまで淡々としている。そして細い身体を馬乗りにしたまま声を潜めて続けた。
「男同士はセックスできないって言ったよね」
ぎっくん。驚くくらい肩が跳ねた。
言った。確かに言った。ヒュトギンといつのまにか真似事をするみたいに恋仲になってしまってから、たまに顔を合わせたり、外出に強引に同伴させられたりを何度か繰り返して、ある日直球で問われたのだ。当然俺は男だし、こいつだってそうなんだと思う。メギドには性別の区分があまりないとのことだったが、横で見ていて、ときどき町の女性にいい顔しているところなんかを見ていると見た目とこころの認識は合致しているように思えるからだ。だからそれを良いことに俺はヒュトギンの好奇心を退けたのである。
「う、嘘じゃない」
少なくとも俺の中の常識に照らし合わせるとそうだ。世の中でどうだかまでは応える義理もないはず。……こいつがその辺りの事情に疎いと分かっていて、騙す気持ちがなかったわけではないが。これだけ狼狽が声に表れては白状しているようなものだろう。ヒュトギンの目が冷たく細められる。
「ひどいや。オレ、キミのことをこんなに信じてるのに」
俺の真上で分かりやすく、ヒュトギンはくすんと鼻を鳴らした。らしくなく瞳まで潤ませる姿は罪悪感を煽るが、それにしたってころっと顔を変えすぎだ。さっきまでの底冷えのする目つきが忘れられない俺はそんなものに屈しない。
「信用しなかったから他から情報を仕入れてきたんだろうが」
「うん。まあ、それはそう」
早々に泣き落としを看破されるとヒュトギンはあっさり戦略を変えた。
「慣れない嘘をつくくらい、要はそれだけオレとはしたくないってことだ」
呆れた風につくため息は今度こそ本心だろう。確かに、これまで(なし崩しに)恋人紛いのことをやってきて突然突き放されれば怒りもするのかもしれない。気恥ずかしくともここはしっかり説明をして真正面から断りを入れるべきだ。色男相手に性教育をする羽目になるとは思わなかったが、相手はセックスの意義も重要性も分かっていないに違いないのだから。こいつは向き合えばちゃんと話が通じる男のはず。
「あー、あのですね。何もアナタだから駄目ってわけじゃなくて……」
「いいよいいよ。嫌なら嫌で仕方ない。オレにその辺りの感覚はどうせ分からないし。別に無理強いがしたいわけじゃない」
いつもならこちらの文化についていつまでだって根掘り葉掘り聞いてくるくせにこんな思考停止したような物言いは珍しい。物陰から襲ってきた男とは思えないことを嘯く。
「キミが嫌なら、他のヴィータにお願いしてみようかな」
「……勝手にすればいいだろ」
ヒュトギンがまじまじと俺を見下ろした。少し目を大きくして、面食らったような間抜けな顔だ。確かに売り言葉に買い言葉というやつで尖った言い方をした自覚はある。だがそれくらいの言い合いはヒュトギンと過ごすうえでは珍しくもなんともない。そうも意外そうにされる理由が思い当たらず、視線を向ける。
「いや。自己犠牲はもういいのかなって」
ヒュトギンの聡明な言葉は俺の無意識下のことを言い当てる。
「あ、いや。そうだ。それはよくない、よくないが」
考えてみれば、性根から戦略家のこいつが交渉の際に他のヴィータを引き合いに出すのはよくやる手なのだ。他人を巻き込む素振りを見せれば俺が簡単に折れると知っている。つくづく個人の付き合いをするには最悪の相手だと思う。
「だって、お前のそれはブラフだろ、いつも」
「まあ、キミが応じてくれるから実行したことはないね」
ヒュトギンが言う通り、それは結果論に過ぎないかもしれない。ちょっとした脅しをちらつかせるだけで乗ってくる男がいるのだからこいつにとってこんなに簡単なことはないだろう。だが、だからこそ俺が駄目なら他でいいかなんて言い様はあんまり酷い。種族的にその辺りの情緒が理解できないのだとしてもこちらの反応でそれくらい分かってくれたっていい。
「ふうん?なるほど?」
いかにも思案しているというような譫言を呟きながら、ヒュトギンが白い手を伸ばす。一度収まった責め苦が再度襲う予感に俺はまだ自分が自由の身でないことを思い出す。五感は戻ってきても拘束は解かれていないのだ。細身の身体は大して重くないはずだがマウントを取られていては悲しいことに勝ち目は薄い。
「待……、ひッ!?」
伸びをする猫のような仕草でヒュトギンは身を乗り出すと俺の後頭部にひとつ息を吹きかけた。喉から情けない声が出る。
「はは、可愛い。さっき反応したのってこの辺りだよね?弱点」
ヒュトギンは心底楽しそうにからっと笑う。メギドでも獲物の弱味を握る喜びは知っているようだ。戦況は最悪に転じたと言えよう。鎧をほとんど脱がされていまの俺を守るのはその下に着用している薄い布だけだ。そこにヒュトギンは無遠慮に手を触れる。たまらず俺は声をあげた。
「手! 手が冷たいんだよ!」
「ああ、悪いね。これならいいかな」
俺の抗議を聞き入れてヒュトギンはまた笑う。表面だけの、そのくせ良からぬことを画策している厭な笑い方だ。
「あっ、あああァ……!」
案の定、ほくそ笑むヒュトギンが手の代わりに寄越したのは奴の舌だった。それが晒したばかりの弱点であるうなじを舐めあげる。
「ば、ばか、それッ! そんなの押し付けるな!」
「オレもヴィータの身体で過ごしてる期間が長いから、擽ったいって感覚はまあまあわかるよ」
言いながらどんどん手は服の中へ侵入してくる。あくまで、温度差で、声を漏らしてしまうとその詫びであるかのように舌がまた好き勝手に這い回る。最悪のループにより抵抗する力は弱まる一方で、拳を握って時折シーツを蹴り上げるくらいしか出来ることがなくなっていく。
「前から思ってたんだけどさ。キスもこれも。食べる行為に似てるよね。あー。やっぱり許せないな。こんなに楽しいことならちゃんと教えてくれないと。ねえ?」
一人で捲し立てるヒュトギンは絶好調だ。ああ、だめだ。終わった。
『ふぁ。』
絶体絶命のさなかにひと際間の抜けた音が鳴く。
もはや意味のある言葉を吐けなくなってきたのはこちらだってそうだが、こればっかりは俺じゃない。首を捻って聞き慣れない声のほうに目を向けると部屋の奥から茶色い毛むくじゃらがぽてぽてと歩いてくる。
「げ、こいつ。また勝手に入ってたな」
その存在を認めるとヒュトギンは珍しく面倒くさそうに顔を歪めた。謎の二頭身生物。気の抜ける外見がどことなく、かつて目にした猫の幻獣を思い出す。
「なんだ……?飼ってんのか……?」
「まあそんなところかな。しばらく見てなかったから放っておいてたんだけど。キミは本当に空気を読まないよねえ」
『ふぁー。』
言ってることを理解しているのかいないのか。ヒュトギンの苦言に呼応するように毛むくじゃらはひと鳴きした。
「ゴメン。ちょっとこいつ庭に追い出してくるから」
あれだけ爛々としていたヒュトギンの目が覚め切ったものに戻る。謎の生物(あとから聞いたが、やはり幻獣の類でトーポというらしい)に毒気を抜かれて気が萎んだようだ。
トーポ師匠。俺はその名を胸に刻んだ。
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