元悪魔でも実の弟ならアウト

 目の前を白いなにかが覆い視界を阻んでいる。それは柔毛質から成り、僕の身体が埋まってしまうほど大きい。温もりを帯びたそれは僅かに呼吸をしているようで、僕はそれがイキモノであることを知る。
 やっとそこまで思い至ると白い毛の中から湿ったものが顔を出す。あ、知ってる。これ。犬の鼻っ面に似ている。そうは思うものの、大きさはやはり規格外で、獣の鼻先は僕の頭より大きい。世界全体が真っ白に埋まってしまうのではないか、と思うほどの規模を持ったそれはたった一体の獣だった。

 信じ難い状況だが、不思議とその時の僕には恐怖感などはなかった。獣にとっては僕なんて一口で胃の中に収めてしまえることだろう。そうなってしまえば哀れな被食者である僕には抵抗の選択肢すら与えられることはない。……それは本能的に理解できる。それでもどこか理性的な色をした瞳に見据えられると冷静なままでいられた。
 獣は僕のそんな心境を察したのか、分厚い舌を出して僕をひと舐めする。たったそれだけで胸から頭のてっぺんまでぐしょ濡れだ。いよいよ食べる気なのか、と思いきや、獣は口の中に隠した獰猛な牙を出すこともなく、鼻先で僕に触れる。そのまま、また舌を出す。
「ン、待って……、ちょっと、なんだか」
 その触れ方が優しくて、寧ろくすぐったい。自分の何倍もあるイキモノに生殺与奪を握られているにも関わらず、なんだか僕はその獣をかわいい、とすら思ってしまった。だって獣の仕草といったら、こちらに甘えているようにすら思えるのだ。
──この子になら、食べられても怖くないかも。

「食わねえよ」
「えっ」

 聞き慣れた声に、一気に現実へと引き戻される。
 僕が規格外の獣だと思って、抱えていたのは我が家の仕立てのいいクッションだった。確かにこれもモフモフはしている。でも、さっきまで感じていたしなやかさとは感触が違う気がするのだが……。覚醒しきれず、ぼんやりとしていると不機嫌そうな瞳と目が合った。
 愛する弟がこちらを見下ろしている。僕は弾かれるように上半身を起き上がらせた。

「……お、おはよう」
「お前がなかなか起きないから俺が駆り出された」
 この忙しいのに迷惑なことだ、と眉間の皺がいっそう深くなる。
 ……なんだ、さっきまでのは夢だったのか。あんな見たこともないイキモノなのに妙なリアリティで夢を見るなんて不思議だ。一体なんの暗示なんだろう。

「まだ本調子じゃねえのか」
 横たわったままの僕の隣に腰掛け、弟は気遣わしげな視線を寄越す。そう。僕は本来であれば朝型の人間で、起きられないなんて理由で侍従を困らせた経験もない。それが彼の言う通り本調子でないからか、最近は上手く起きられない朝が続いていた。いや、確かにそれはそうなんだけれど。でもね。
「……調子が出ない原因のグリプスに言われたくないよ」
 そう、僕のここのところの不調の原因はこの弟にある。彼が衝撃の告白をしたあの夜。僕はすっかり気が動転してしまい、動転しきった末に熱を出して寝込んだ。健康なことが自慢だったのに。でもそれだけショックだったのだ。正直今でも全く気持ちの整理ができていない。それなのに彼ときたら。
「ウァプラだ。そう呼べと言ったろう」
「嫌だあ……」
 隙あらばこの一点張りだ。それが僕の心身に負担を強いると知っているくせに。悪魔だ。いや、その通り悪魔だったんだけど。

 あの夜、弟が告げた事実はふたつ。ひとつは彼の前世が悪魔であり、その時の記憶をしっかり持ったままこちら側に転生してきたのだということ。そしてもうひとつは僕のことを兄だと思ったことはない、という告白だった。前者はともかく、ひとまずは受け入れられる。しかし後者は。これは僕個人の感情が関わってくるため、受け入れるには相当の時間を要するだろうと思う。というより、一生かかっても了承できない気もする。

「拒絶したって現実は変わらねえぞ」
 彼の瞳は低温でこちらを見ている。冷えたように見えるそれが、その実深い思いやりを併せ持っていることを僕は知っている。今だって突き放すような言い方をしながらも、僕を無理やり起き上がらせることはせず、こちらの出方を待っている。その瞳を受けてしまうと、相手は弟であるというのに、僕の心には甘えのような気持ちが湧いてしまうのだ。
「でも、僕はお前と兄弟でなくなってしまうのは嫌なんだ」
 これは紛れもなく本心だ。僕は弟を愛している。兄弟関係を拒まれることは思い出全てを否定されてしまったようでとても悲しい。

 そんな気持ちを吐露すると、弟の瞳がふっと和らぐ。眦だけをなごませる、よく知った笑い方だ。
「そんなに嫌なら仕方ねえな」
 やっぱり弟は優しい。対してなんと情けない兄だろう、と悲しくなるが、それでも今回ばかりは許してほしい。今にも泣きそうなのだ。弟はそんな心境も分かりきっている、というようにまた目つきを柔らかくさせる。控えめで、僕の好きな笑い方だ。
「また倒れられたらたまらねえしな」
「う、うん」
 分かってもらえた……。元悪魔のくだりは変えることができないにしても、そんなことは僕にとって些細な問題だ。前世がどうあれ、今世が僕の弟であることに変わりはないのだから……。

 ほっと一安心していると、弟の腕がこちらに伸びてくる。フィールドワークで鍛えられたしっかりとした腕が僕の半身をまたベッドへと引き戻した。そのまま体勢ごと体重をかけられれば、なんだか見たことある位置に弟の顔がある。
「あれ、グリプス……?」
 分かってくれたんじゃ。なのになんだろう、この状況。窓の外からは小鳥の囀りが場違いに響く。弟はぐっと身を乗り出し僕に身を寄せる。肩を抑えられてしまえばすっかり身動きができなくなってしまう。
「ああは言ったが、俺は正直どっちでもいいんだ。
兄弟やめて俺に抱かれるか、兄弟のまま俺に抱かれるかの違いでしかない」
──声にならない声が出た。
 弟の前で僕は哀れな被食者でしかなかった。

「お前がいまの関係のままがいいと言うならそれに合わせてやる。……なかなかいい趣味してるな、お兄ちゃん?」
 口角を吊り上げて意地の悪い笑顔。こんな状況で、そんな呼び方。一度だって呼んでくれたことないくせに。
「あ、悪魔だあ……」
「よく分かってるじゃねえか」
 思わず眼(まなこ)を滲ませてしまうと、後から後から止まらない。次々溢れてくる雫を彼は嬉しそうに舐めとるのだった。

本家のプロフィール公開記念(2019.01.05)
ヴィータ名修正。(2019.08.01)